詩篇 45篇

「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。」(6,7節)

今日の箇所はヘブル人への手紙の中で引用されています。

「御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」」(1:8,9)

ヘブル人への手紙の著者のポイントは、子なる神、イエス・キリストの神性です。「神よ。あなたの神は」というのは面白い表現ですが、イエス・キリスも、「神」と言うことです。また、他の存在と区別するように、より多くの喜びの油が注がれたとあります。聖書の神は、三位一体なる神であり、その王座は永遠です。

詩篇 44篇

「だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。」(22節)

この箇所は、使徒パウロが、迫害の中にある教会の現実を表現するために新約で引用しています。

「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。」(ローマ8:36)

この世の権力者たちの前に、「ほふられる羊」のようになすがままの状態のようであるかもしれないと。しかし、詩人とパウロとの間には大きな違いがあります。詩人は、その苦しみの意味を理解することができず嘆きを歌にしています。しかし、パウロは、続けてこう言います。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(37節)

イエス・キリストは十字架によって勝利をとられました。私たちはキリストの中で、本物の勝利を体験することができます。

詩篇 43篇

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(5節)

現代社会は私たちを様々なプレッシャーの下に起きます。私たちは経済的に、人間関係に、仕事にもがいています。そして、未来に不安を感じています。プレッシャーをうまく処理できないと、私たちは不安と憂鬱の中に落ちてしまいます。このような状況から脱出する道が見えないとき、私たちの絶望感は大きくなります。ダビデは、そのような絶望感の中で、唯一の解決策を思い起こします。

「神を待ち望め。」

私たちは問題の解決を、自分自身や、他者に求めても、見つけることはできません。私たちはただ、神の中に希望を見いだすことができます。問題ではなく、神に自分の思いを向ける必要があります。神はあなたを愛し、あなたの人生の周りの状況を支配していることを思いだす必要があります。

詩篇 42篇

「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」(2節)

私たちの心が求めているのは、生ける神様です。生ける神様との関係によってでしか満たされない渇きが、すべての人の内にあります。ですから詩人は歌いました。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(1節)

詩人が伝えたいのは、新鮮な水でなければ満足できないということです。昔の体験、誰かの体験で満足することはできません。私たちは今、自分自身で神様との時間をもつ必要があります。イエス・キリストは過去の偉人というだけではなく、今、生きておられ、私たちは今、御前に出て行くことができます。イエス様は言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ4:14)

詩篇 41篇

「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。」(1節)

社会的弱者に心を配ることは意味があるというのが聖書が教えていることです。スポルジョン師は、

「捧げることによって彼らの富が失われると恐れる事は、なんと愚かなことか」

と言いました。イエス様はたとえ話の中で、神の審判の日のことを語っています。その日、王は言われます。

「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』・・・あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:35,36,40)

神はすべてをご存じです。

詩篇 40篇

「わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。」(5節)

前半部分をLBではこう訳しています。

「ああ、神である主よ。あなたは何度も大きな奇跡を見せてくださり、いつも私たちのことを心に留めてくださっています。」

神が私のことを心に留めてくださっているという事実は、驚くことです。139篇では、さらにこう記されています。

「主よ。あなたが私を片時も忘れずにいてくださることは、ほんとうに大切な事実です。あなたは一日に、数えきれないほど何度も、私のことを思い起こしてくださいます。」(17,18節LB)

神はすべてを創造し、すべてを治められるお方ですが、私たち一人一人のことを心に留め、気にかけてくださっているお方です。私たちの髪の毛の数さえ知っているとイエス様は言われます。

詩篇 39篇

「主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。」(4節)

身体的に問題がないと、死を意識する人は少ないと思います。しかし、人は死亡率100%であり、その時は必ずやってきます。人間のはかなさを意識しないがゆえに、「人生の意味」という重要な問いをせず、人生を無駄に生きてしまうことがあると思います。人生時計があるならば、自分は今、何時に生きているのかを意識することは、大事なことだと思います。詩人が祈るように、人間のはかなさを認識することは大切なことだと思います。賢く時間を用いて、神に頼り生きていくことを学ぶことができるからです。しかし、キリストが復活されたことを知っている私たちは、はかなさだけではなく、永遠の世界があることも覚える必要があります。神の御国は絶えることはないからです。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 38篇

「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。」(15節)

問題のただ中、詩人はただ祈って神を待ち望むことを選びました。

「いつまで私は危険な崖っぷちに立っていなければならないのでしょう」(17節LB)

崖っぷちに立ち尽くしながらも、詩人は、ただ主を待ち望むことを選びました。時として私たちができる最善の行動は、ただ主を待ち望み、祈ることです。どんなことよりも、ただ黙って祈りに専心することが善い時があります。詩人はそのことを体験したからこそ、この詩が詩篇として私たちのために記録されたのだと思います。アルファのニッキー先生はこんなことを言っています。

「祈りはキリスト教の中心にあります・・・次のような格言があります。悪魔は、私たちの言葉をあざ笑い、私たちの労苦をばかにする。しかし、私たちが祈るとき、悪魔は震えおののくのだ。」

詩篇 37篇

「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。」(1節)
まじめに生きることがばからしく思えてしまうときがあることは、古今東西変わらないということだと思います。
「怒るのをやめ、憤りを捨てなさい。くよくよ思い悩んではいけません。自分に害をもたらすだけです。悪者は滅ぼされますが、神に信頼する者には祝福が降り注ぎます。」(8,9節LB)
私たちは、この事実を聖書から聞く必要があります。神を無視して生きていくことは、滅びへの道を歩んでいるということに、気づかされる必要があります。
「不正な手段で金持ちになるより、わずかな持ち物でも満足し、主を信頼して過ごすほうがまさっています。」(16節LB)
正しく生きようとする方が、幸いな人生であることを、私たちは認識する必要があります。
「主は日々、主を信頼する人の善行をごらんになり、永遠のほうびをお与えになるのです。」(18節LB)

詩篇 36篇

「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(9節)

私たちはどこに自分のいのちの泉を見出そうとしているでしょうか?私たちはどこに光を見出そうとしているでしょうか?イエス・キリストは言いました。

「わたしがあげる水を飲めば、絶対に渇くことはありません。わたしがあげる水は、それを飲む人のうちで永久にかれない泉となり、いつまでもその人を永遠のいのちで潤すのです」(ヨハネ4:14LB)

イエス・キリストが与えてくださる救いを受け取る時、私たちの内には聖霊なる神様が住んでくださいます。私たちが聖霊様を意識して、日々、聖霊様に満たされることを求めるならば、私たちはいのちの泉を体験することができます。いかがでしょうか?他の何か、他の誰かを求めてしまっているがゆえに、渇いているということはないでしょうか?いのちの泉は、聖霊様にあります。