ヨハネ 4:1-26

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(4:23)

神がまず何よりも求められているのは本物の礼拝者です。キリスト者として、まず何よりも求められていることは本物の礼拝者となることです。本物の礼拝者とは、日曜日だけで話ではありません。なぜなら、神に喜ばれる行為はすべて礼拝だからです。リック・ウォーレン師も、

「日々の務めを神へのささげ物とし、神の臨在を意識してその務めを果たすとき、それは礼拝となるのです。」

と言います。しかし、それは毎週日曜日にもたれる主日礼拝を疎かにしてもいいことにはなりません。週の初めの日を、まず神様に捧げることが私たちの人生を整えます。私たちは、まず何よりも第一に、真の礼拝者になることが求められています。

ヨハネ 3:22-36

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(3:30)

バプテスマのヨハネは人々にイエス様を指し示し、

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(1:29)

と言いました。その結果、人々はヨハネを離れ、イエス様の方に行ってしまいました。ヨハネの弟子たちがそのことをヨハネに告げるとヨハネははっきりと言いました。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

私たちの姿勢も、このバプテスマのヨハネと同じ姿勢であるべきです。イエス・キリストを指し示し、イエス・キリストが盛んになり、自分は衰えなければなりません。イエス・キリストは大きくなり、私は小さくならなければなりません。すべての栄光はイエス様に帰されなければなりません。主の栄光だけが光り、輝きますように。

ヨハネ 3:1-21

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(3:8)

大和カルバリ―チャペルの大川先生は、文語訳の「風は己が好むところに吹く」という訳から、聖霊様が好みがあることに気が付いたと言います。聖霊様は愛し合う場所は好まれるが、裁き合う場所は好まれないと。だから、裁く教会は砂漠になると言います。

「牧師は信徒を裁かない。信徒は牧師を裁かない。信徒同士は裁き合わない。」

これが教会成長の秘訣だと言います。愛し合い、赦し合い、仕え合う教会になるなら、聖霊様が縦横無尽に好んで吹いてくださると言います。聖霊様に好まれる教会になることができますように。

ヨハネ 2:1-25

「しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。」(2:9)

カナの婚礼でぶどう酒がなくなってしまった時、イエス様は水をぶどう酒に変える奇蹟を行いました。この奇跡を間近で体験したのは、イエス様に言われた通りに水をくんだ手伝いの者たちでした。彼らが奇跡をおこなったのではなく、イエス様が奇跡をおこなわれました。しかし、彼らの働きを用いて、イエス様は奇蹟を行われました。イエス様は今も、私たちを用いて奇跡の御業を行おうとされています。私たちが忠実に主のみことばに従う中で、神の奇蹟は行われます。それは、水をくんだしもべだけが知ることができる世界です。

ヨハネ 1:29-51

「ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」」(1:46)

ナザレはヘロデ大王の息子ヘロデが再建したセッフォリスというギリシャ・ローマ風の大都市に近い村で、旧約聖書にも、歴史家ヨセフスの記述にも出てこない小さな村でした。それでナタナエルは、ナザレの人が

「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」(45節)

のはずがないと考えました。そんな偏見に凝り固まっていたナタナエルに、ピリポは言いました。

「来て、そして、見なさい。」

イエス様のもとに来て、イエス様を見なければ、体験しなければ、分からない世界があります。今、ナタナエルのように肉眼でイエス様を見ることはできません。しかし、聖霊によって、神の愛を体験することができます。

「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)

ヨハネ 1:1-28

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子3しての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1:14)

バビロン捕囚期の預言書、エゼキエル43章にこう記されています。

「すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。」(エゼキエル43:2)

新しく再建された神殿に神の栄光が帰還し、主の栄光が神殿に再び満ちる幻が記されています。その後、神がこう言われます。

「わたしは永遠に彼らの中に住む。」(エゼキエル43:9新改訳二〇一七)

つまり、神の御子、イエス・キリストが人となって、この地に生まれてくださったことによって、このエゼキエルの預言は成就したことを、ヨハネは伝えたかったのだと思われます。そして、真の神殿はイエス・キリストであり、恵みとまことに満ちていると。
今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

ルカ 24:36-53

「こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(24:46,47)

イエス様は聖書に書いてあることを次のようにまとめました。

「イエス・キリストはあなたのために十字架で死なれた。

そして、死人の中から復活された。

救いの御業は成し遂げられた。

今、悔い改めてイエス・キリストのもとに立ち返る人は、だれでも罪が赦される。

そして、この知らせはあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」

聖書を読む時に、私たちはこのメッセージを理解する必要があります。もっとも、イエス様は弟子たちがこのメッセージを理解することができるように、

「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」(45節)

とあります。

「聖霊なる神様、どうか、理解できるように、私たちの心を開いてください。」

ルカ24:1-35

「そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」」(24:32)

燃えるような心は、イエス・キリストとの人格的な関係の中で生まれてくるものです。イエス様に対する情熱を失っていると感じている時というのは、たいてい、イエス様との人格的な交わりの時間を失っている時でもあります。私たちはただ消費するためにこの世に生きているわけではありません。神は私たち一人一人を目的をもって造られました。しかし、神の使命に生きていくためには、神からの燃えるような思い、情熱(パッション)が必要です。それは、日々の神との関係から生まれてくるものです。神のみことばである聖書を読んでいる時に、聖霊なる神は語られ、私たちの心はうちに燃えるのです。
「主よ、私たちの心をもう一度燃え上がらせてください。あなたの情熱で私を燃やしてください。」

ルカ 23:26-56

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」(23:34)

イエス様は、自分をあざけり、罵る人々を前にして、何も言い返すことはありませんでした。日本的には、「無念」という場面ですが、イエス様は違いました。それでもなお、目の前で罵声を浴びせるその人々を愛し、とりなしの祈りをされたのです。自分に対して、いいことをしてくれる人のために祈ることはそんなに難しいことではありません。しかし、自分を傷つける人のために、裁きが下るようにではなく、とりなしの祈りをするということは、とても難しいことだと思います。しかし、神の霊はそのような人々のために祈るように私たちを導き、力を与えてくださるお方です。なぜなら、まさにイエス様をあざけっていたのは私たちであり、イエス様の恵みのゆえに私たちは今があるからです。

ルカ 22:63-23:25

「ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。」(23:23)

イエス・キリストの十字架は、多数決によって決められました。ローマ帝国の権威をもってエルサレムの地域を治めていたピラトは、イエス・キリストに罪を認めず、釈放しようとしました。しかし、群集の声に彼は負けたのです。私たちは民主主義を美化しすぎて、その弱点を忘れないように気をつける必要があります。「赤信号、皆で渡れば怖くない」という側面が民主主義にあります。多数がいつも正しいとは限りません。少数意見の方が正しいこともあります。私たちはマス・メディアによって作り出される多数派の意見に振り回されるのではなく、神の御言葉を優先するように気をつける必要があります。残念ながら教会の歴史は人間の主張が勝ち、混乱してきました。教会が人間の声ではなく、神の声が勝つ場所となりますようにお祈りください。