テトス 1:1-16

「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。」(1:9)

テトスの手紙は、パウロがテトスに宛てて書いた手紙です。テトスはエーゲ海に浮かぶクレテ島で教会の指導者として働き、また後継者を任命するという責任を担っていました。ここでの「長老」は現代の「牧師」に相当すると思われますが、パウロはテトスにその資質の一つとしてこう言いました。

「教えられたみことばの真理をしっかり守っている人であることも大切な条件です。なぜなら、彼らの使命は人々に真理を教え、反対する者に、その誤りをはっきり指摘することにあるからです。」(LB)

「おしえられたみことばの真理」こそ、新約聖書に書かれていることです。ですから牧師の条件の一つは聖書の教えをしっかりと守っているということです。すべての牧師のためにお祈りください。

2テモテ 4:1-22

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(4:2)

使徒パウロが、若い伝道者であるテモテに命じたことは、みことばを宣べ伝えることでした。ですから、キリスト教会の主日礼拝の中心は、みことばを宣べ伝えること、聖書のメッセージです。使徒パウロは、エペソの長老たちにこう言いました。

「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20:26,27)

「神のご計画の全体」ということは、聖書の全体と理解することができます。創世記から黙示録まで、教会は余すところなく聖書のみことばを語る責任があります。

2テモテ 3:1-17

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(3:16)

「神の霊感」は直訳しますと「神の息吹による」となりますが、聖書の本当の著者は聖霊なる神であるという意味です。人間の著者がいますが、彼らは聖霊に導かれて書いたので、神のことばそのものなのです。聖霊が語るままタイプライターのように機械的に書いたということではありません。聖霊はそれぞれの著者の個性、表現方法を用いられました。しかし、「すべて」とあるように聖書のみことばはすべて、創世記から黙示録まで神のことばです。ですから、「私たちの生活をまっすぐにし、正しいことを行う力を与えてくれます。」(LB)聖書は、他のすべての人間が書いた本とは違います。神のことばそのものです。ですから力があります。権威があります。聖書は誤りなき神のことばです。私たちの信仰と生活の唯一の規範です。

2テモテ 2:1-26

「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」(2:24,25)

中世の暗黒時代の教会が行ったような、力ずくで人を正そうとする方法は、クリスチャンのやり方ではないと聖書は言いますので正当化することはできません。だからと言って聖書は「ことなかれ主義」を奨励しているわけではありません。25節をLBではこう訳しています。

「おだやかに、思いやりをもって話せば、神の助けによって、その人は間違った考え方を改め、真理を悟るかもしれません。」

人は人を変えることはできません。しかし、神の助けによって、人は変わることができるかもしれないと言います。ですから、私たちは聖霊なる神の助けを祈り求めつつ、忍耐をもって、聖霊の導きに従っていくことができますように。

2テモテ 1:1-18

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(1:7)

若い伝道者であったテモテには、たくさんの恐れがあったことが、パウロの語る言葉から知ることができます。テモテは、パウロのような特別な体験をしたわけでもなく、経験も浅く、自信をもって教会を指導できるような状態ではなかったのだろうと思います。ですから、パウロはテモテに自分の能力ではなく、神が与えてくださったものに焦点を合わせるように促します。どんなに自分の中におくびょうな霊しかないと感じていても、神はあなたに、力、愛、慎み(自制)の霊を与えているではないかと言うのです。私たちもこの視点の転換が必要です。どんなに自分の内に良いものを見いだせなくても、神が私たちに与えてくださっているものがあります。神が自分に与えてくださっているものは何かを考えることができますように。

1テモテ 6:3-21

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(6:10)

ジョン・ウェスレーは言いました。

「できるだけ儲けて、できるだけ貯めて、できるだけ与えなさい。」

聖書は経済が祝福されることに肯定的ですが、金銭が万能であるかのように金銭に支配されることはあらゆる悪の根だと警告します。それで、このように続けます。

「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。」(17,18節)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1テモテ 5:1-6:2

「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」(5:24,25)

良いことであれ、悪いことであれ、どんなことでも隠し通すことができるものはありません。聖書は

「いつまでも隠れたままでいることはありません。」

と言います。明らかにされないものはないと。ですから良い行いに関してイエス様はこう教えました。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)

「ですから人に親切にする時は、右手が何をしているか左手でさえ気づかないくらいに、こっそりとしなさい。そうすれば隠れたことはどんな小さなことでもご存じの天の父から、必ず報いが頂けます。」(3,4節LB)

1テモテ 4:1-16

「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。」(4:13)

聖書が牧師に命じている仕事内容は、

「教会で聖書を朗読し、その内容を教え、神のことばを伝えなさい。」(LB)

ということです。なぜなら、

「終末の時代には悪霊の教えを広める教師が現れ、教会の中からも、キリストから離れてその熱心な弟子になる者が出ます」(1節LB)。

この文脈における悪霊の教えとは、結婚を禁じたり、肉を食べることを禁じたりするものでした。

「食物は、神が私たちに喜び楽しむようにと備えてくださったのものです。」(3節LB)

と聖書は言います。間違った教えに振り回されないためには、牧師が教会で日ごろから聖書朗読、聖書の勧めと教えに専念する必要があると命じています。

1テモテ 3:1-16

「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」(3:5)

教会の奉仕は大事ですが、パウロはそれよりも家庭を優先するように勧めています。家庭を大切に出来る人でなければ、教会を大切にすることはできないというのです。5章ではさらにこう記されています。

「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」(8節)

家族を顧みることが出来ない人は、

「クリスチャンと呼ぶわけにはいきません。」(LB)

とまで、聖書は語っています。夫婦関係も親子関係も、献身が求められます。そのように家族に献身することが出来ない人に、教会の働きに献身することは不可能だと言うのです。もちろん、イエス様は神の国と神の義をまず第一にするように教えられました。しかし、それは家庭を省みなくて良いという意味ではありません。

1テモテ 2:1-15

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(2:5-6)

聖なる神の御前に、罪深い人間が立つことができると考えることは厚かましい話ですし、思いあがっています。人間が神の御前に立つためには、仲介者が必要です。しかし、人は仲介者になることはできません。聖人と呼ばれるような人であっても仲介者になることはできません。神と人との間の仲介者は、唯一、神の御子イエス・キリストだけです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられました。ただ仲介者であるイエス・キリストのゆえに、私たちは神の御前に立つことができます。