マタイ22:15-46

「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(32節)

「神はかつてアブラハムの神だった」とは聖書は言いません。「アブラハムの神」と言うように、アブラハムの存在は消滅していません。つまり、アブラハムのいのちは今も神の御手の中にあり、やがて復活することが前提となっています。この信仰に生きる時、私たちのこの地上での生き方は自然と変化します。リック・ウォーレン師はこう言います。

「永遠を意識するようになると、価値観が一変します。時間やお金を賢く使うようになり、名声や富、業績やファッション、はやりの考え方などは、もはやどうでもよいものになるでしょう。」「重要だと思っていた多くの活動、目標、そして頭を悩ます問題でさえ、取るに足りない、小さなことに思えてくるかもしれません。神に近づけば近づくほど、すべてのことは小さく見えてくるものなのです。」

マタイ21:33-22:14

「だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」(22:9)

神はすべての人を招かれています。私たちは大通りに行って、出会った者をみな招くように遣わされています。しかし、招かれた者はそのままで良いとは言いません。「礼服」を着ることが条件とされています。聖書は言います。

「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ61:10)

つまり、礼服とは神が私たちに着せてくださる救いの衣のことです。誰でも着ることができるように、イエス・キリストがカルバリの十字架で用意してくださった衣のことです。「礼服」を着るとは、イエス・キリストを自分の救い主、主として信じ、受け入れることです。

マタイ21:18-32

「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(32節)

イエス様のユダヤ教指導者に対する言葉は辛辣です。ユダヤ教指導者たちは、ユダヤ教的敬虔さから締め出された取税人や遊女たちに劣るとイエス様は言いました。なぜなら、神のみこころを実際に行ったのは、律法を遵守していると自負していたユダヤ教指導者たちではなく、彼らが軽蔑していた人たちだったからです。バプテスマのヨハネの言葉を聞きながらも、ユダヤ教指導者たちは思い直すこともせず、拒否しました。その結果、彼らが見下していた人たちよりも劣る者となってしまったと言います。

「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)

マタイ21:1-17

「そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。」(13,14節)

今日の箇所は「宮清め」と呼ばれます。パリサイ口伝律法は、盲人や足の不自由な人が神殿に立ち入ることを禁止していました。宮の中で売り買いしていた理由の一つは、身体障がい者が宮の中に入ってくることを妨げるためだったと思われます。事実、イエス様が宮の中で売り買いする者たちをみな追い出した時、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがイエス様のみもとにくることが出来、いやしを受けることができました。ダビデの子、メシヤは、神のみこころはすべての人が神の恵みの座に来て、祈り、いやしを受けることであることを示されました。

マタイ20:20-34

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(28節)

イエス・キリストの十字架の死には様々な意味が込められています。一つは、私たちの罪の身代わりとして、贖いの代価として死なれたということです。罪の報酬である死は、キリストの十字架によって支払われました。ですから、今、誰でもイエス・キリストを信じるだけで救われます。イエス様はまた、私たちのために死なれたのは、私たちに対する究極的なお手本でもあると言いました。神の御国の秩序は、仕える者になることによってもたらされます。神の御国では、権力や能力ではなく、仕える姿勢が優先されることを十字架は示します。仕えられるためではなく、仕えるために、私たちはこの地上に生かされています。

マタイ20:1-19

「それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」(15節)

ぶどう園の日雇い労働者のたとえのポイントは、労働時間に応じて賃金を支払わないぶどう園の主人が

「私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか」

と問うところにあります。神様の寛大な恵みに気づくか、それとも業績重視の人間的見方に縛られて、神の主権までも犯そうとするのかという問いがあります。賃金は最後に来た者たちから支払われます。無意識に最初に来た者たちは最後に来た者たちを軽んじていたために、同じ扱いを受けたことに不満をもらします。

「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。」(12節)

イエス様の言葉が響いてきます。

「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。」(18:10新改訳二〇一七)

マタイ19:16-30

「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」」(19:26)

ひとりの富める青年がイエス様に尋ねました。

「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」(16節)

イエス様は答えます。

「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」(17節)

イエス様が言いたかったことは、イエス様に従うことによってのみ、その戒めを守って本当に生きる道を知ることができると言うことです。しかし、彼は自分の力で財産を築いたという思いが強すぎて、神の恵みによって今があるという認識を受け入れることができず、悲しみながら立ち去りました。

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」(1コリント15:10新改訳2017)

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

本日はギデオン・サンデー。聖書を配布するギデオン聖書協会の働きを覚えます。

マタイ19:1-15

「しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」」(14節)

イエス様のところに来ることを邪魔する人がいます。残念ながら、弟子たちのように善意で邪魔をすることがあります。特に、子どものようにこの地上では力がない存在、富も権力もない者がイエス様のところに来ることを妨げないように私たちは気を付ける必要があります。なぜならイエス様は「天の御国はこのような者たちの国なのです。」とおっしゃられるからです。誰かがイエス様に祝福を求めて近づくことを妨げていないでしょうか?イエス様のもとに来る人を、イエス様がお邪魔に思うことは断じてありません。一人でも多くの人が祝福を求めてイエス様のもとに行くことができるように、イエス様を指し示す者となれますように。

マタイ18:10-35

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(18:19,20)

一人で祈ることができないわけではありませんが、聖書は、共に心を一つにして祈ることを勧めています。信仰生活は気を付けないと独りよがりのものになりかねません。自分だけが正しいと思いあがることは危険なことです。常に、謙遜に他者から学ぶ姿勢が必要です。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

とイエス様はおっしゃられました。イエス様がおられる場所は、謙遜に、祈り合う共同体です。

マタイ17:14-18:9

「また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」(18:5)

キリスト教会にとって子どもへの配慮は頭なるイエス様の命令として心に留める必要があります。何よりも子どもたちの背後には天使がいると言います。

「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(18:10)

子どもたちを歓迎する時、私たちはキリストを歓迎していることを心に留めたいと思います。