箴言 13章

「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。」(10節)

高ぶり、傲慢は、争いへと導きます。高ぶっている人はいつも、競争心に満ちています。自分が一番だということを証明するチャンスを探しているのです。争いや口論に巻き込まれているときほど、自分が高ぶっていないか、謙遜に「神様、示してください」と祈り求めることが大事です。高ぶりに勝つことができれば平安が結果としてついてきます。「知恵は勧告を聞く者とともにある」と言います。聖書の知恵はこれです。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Ⅰコリント8:2)

「自分に自信がありすぎる人は、なかなか主張を曲げません。素直に忠告を聞く人は賢くなります。

箴言 12章

「人は悪をもって身を堅く立てることはできず、正しい人の根はゆるがない。」(3節)

この世を見ると、悪いことをして成功しているように見える人がいます。しかし、悪をもって身を堅く立てることはできません。悪いことをしていて、人生が安定することはありません。たとえ、しばらくのあいだ大丈夫に見えても、正義は必ず追いついてきます。それは、砂の上に人生を築き上げるようなもので、必ず、崩れ去るときが来ます。正しいことを行うことだけが、しっかりとした土台に築き上げることができる方法です。正しい人の根はゆるぎません。しかし、この世で生きていく中で正しく生きることがばからしく見えるときがあります。ですから聖書は言います。

「正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)

箴言 11章

「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」(25節)

リビングバイブルでは今日の箇所をこう訳しています。

「物惜しみしない人が裕福になります。人を潤すことで、自分も潤うのです。」

寛大に生きることは、聖書的な生き方です。聖書に、こういう箇所もあります。

「気前よくささげる人は、大きな祝福を受ける。」(Ⅱコリント9:6現代訳)

与える人は与えられるというのが聖書が教える霊的な法則です。もちろん、献金の話だけではなく、笑顔や祝福などを惜しみなく人々に与えている人が、大きな祝福を受けます。なぜなら、「気前よく与える」というのは、神のご性質でもあるからです。神は、物惜しみすることなく、私たち一人一人に今日も寛大に与え、私たちを潤してくださっているからです。

「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)

箴言 10章

「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」(12節)

私たちの人生を破壊するのは憎しみの力です。ハ・ヨンジョ先生はこのようなことを言いました。

「サタンは私たちに憎しみと怒りを植えることによってこの世を地獄にしようとし、神様は私たちの心に愛と赦しを植えてこの世を天国にしようとしている。」

神の御子イエス・キリストは、不当にも訴えられ、嘲られ、十字架につけられました。憎しみを抱いたとしても、決して不思議な状況ではありませんでした。しかし、こう言われました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

憎しみは憎しみを生み、憎しみの連鎖はこの世を地獄にするだけです。イエス・キリストの十字架と復活は、まさに、この憎しみの連鎖を打ち破るためでした。神の愛はこの世を天国へと変えます。今日は主の日。主に共に礼拝を捧げましょう。

箴言 9章

「あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。」(8節)

LBで7節と8節をこう訳しています。

「人をさげすむようなような者に忠告を与えても、辛辣なことばで言い返されるだけです。その人のことを思ってしてあげても、恨まれるだけなので、もうかかわらないほうがよいのです。知恵のある人は違います。忠告すると、前以上にあなたを愛してくれます。」

親切心で注意したことが、反感を買ってしまったという経験を誰もがもっていると思います。聖書が教える霊的な原則は、聞く耳のある人には教えることに意味がありますが、そうでない人にはしないほうがいいということです。それはまた、「教えやすい心」(Teachable heart)を持つことの大切さを聖書は教えています。自分以外は皆師であると、学ぶ心がある人こそ、知恵のある人です。

箴言 8章

「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。」(11節)

箴言における「知恵」は人格化されて語られます。「知恵」が単なる思考の問題ではなく「生き方」そのものに関わることを示しています。ですから、箴言は一貫して一時の快楽ではなく、「知恵」を求めることを勧めます。どんな宝よりも「知恵」を求めることを勧めます。それでは、どこでまことの「知恵」を見いだすことができるのでしょうか?新約聖書にその究極的な答えを見ることができます。

「キリストは神の力、神の知恵なのです。」(Ⅰコリ1:24)

もし、本物の知恵を求めるならば、私たちはイエス・キリストとの関係からはじめなければなりません。イエス・キリストとの関係は、どんな宝にもまさり、何も比べることはできません。

「主よ、あなたは銀よりも貴い。主よ、あなたは金よりも価値がある。主よ、あなたはダイヤモンドより美しい。比べうるものは何もない」

箴言 7章

「私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。」(2節)

わたしたちは瞳を大切に扱います。目は、私たちが生きていくうえで大事な器官ということ以上にとてもデリケートな部分だからです。目に虫や小さな砂が入ってしまうだけでも体全体、時には精神的にも影響を与えます。目に対してこれほどの神経を使っているように、神の御言葉に対して私たちは神経を使って耳を傾けているでしょうか?御言葉が悪魔に持ち去られないようにとしっかりと守っているでしょうか。どのようにして私たちは神の教えをまもることができるのでしょうか。それは、『それほど大切なものである』ということを日々意識するということだと思います。御言葉をぞんざいに扱うのではなく大切にしましょう。

「それが生きる秘訣です。私のことばを宝物のように大事にしなさい。」(LB)

箴言 6章

「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。」(16節)

この箇所には、神様の憎む行いが具体的に記されています。それをLBではこのように訳しています。

「神の嫌いなものが六つ、いいえ七つあります。高慢な態度、うそをつくこと、人殺し、悪だくみ、悪事に熱中すること、偽証、仲たがいの種をまくことです。」

意識してこれらのことを行っているならば明らかに問題です。しかし、残念ながら私たち人間は無意識のうちにもこれらのことを行っていることに心を留める必要があります。自分は正しいことを行っている、自分は正しいと思っているならば、そういう人はもしかするともっとも神が『忌み嫌っている』ことを行ってしまっているかもしれません。自分は正しいと思っている時こそ、もっとも気をつける必要がある時だからです。そんな時、自分の不完全さや足りなさを忘れ、高慢な態度になっているかもしれません。

箴言 5章

「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかしその終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。」(3‐4節)

「他国の女」とありますが、LBでは「悪い女」と訳しています。誘惑はまさに、サタンが人間を滅びへといざなう常とう手段ということです。まるで良いものであるかのように私たちを誘惑しながら、最後は永遠の滅びへと落とすのです。どのようにして、わたしたちはこのサタンの罠を見分けることができるのでしょうか。エペソ人への手紙の中に素晴らしいガイドラインが記されています。
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。私たちの格闘は・・・主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。・・神のすべての武具をとりなさい。」(6章)

箴言 4章

「父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。」(4節)

子供というのは、親が命令するのは、自分の楽しみを奪うためだと思いやすい傾向があると思います。しかし、実際は、親は子の人生を思うがゆえに、いろいろとしつけるのです。神の命令も同じです。「私の命令を守って、生きよ」とあるように、私たちが生き生きと生きることが出来るように、神は私たちに命令を与えられます。神の命令は、私たちを縛るのではなく、私たちを自由にしてくれるのです。スポーツは、ルールを守ってしなければ、楽しむことはできません。サッカーをしているのに、急にラグビーのようにボールをもって走り出す子がいたら、全然楽しくなくなってしまいます。同じように、神の命令は、私たちが人生をより楽しむためにあるのです。「よく聞きなさい。私のことばと教えを大切にすれば、一生幸せに暮らせる。」(LB)