コロサイ 1:24-2:5

「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(1:27)

「異邦人の間にあって」と訳された単語は、「全世界で」と理解できます。すなわち神の全世界の救いのための秘密の計画が、王なるイエス・キリストの知らせによって、明るみになったということです。その奥義とは、イエス・キリストを信じる人々のただ中に、すなわち教会に、栄光の主、イエス・キリストが、聖霊によって住んでくださるということです。だからパウロは言います。

「私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けた所を満たしているのです。」(24節新改訳二〇一七)

教会はこの世界の希望です。なぜなら、栄光の望み、キリストがおられるからです。

コロサイ 1:1-23

「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(1:16)

ここには、「御子」、すなわち、イエス・キリストの前に、三つの前置詞が出てきています。「あって」、「よって」、「ために」です。すべてのものは、イエス・キリストに「あって」造られ、キリストに「よって」、そして、キリストの「ために」存在しています。ですから、キリストご自身を求めて生きていかなければ、人は人生の意味を見失います。さらに、聖書は言います。「キリストは、ご自分に属する人々からなる体、すなわち教会のかしらです。」(18節LB)教会もまた、キリストに「あって」造られ、キリストに「よって」、キリストの「ために」存在しています。

ピリピ 4:2-23

「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」(4:2)

「主にあって一致してください。」

と訳された言葉は、

「主の中で同じ思いを持ちなさい。」

と訳せます。教会の中で、指導的立場にあった二人の姉妹が、仲たがいしていたことが分かります。

「主と同じ思い」

というのは、二章に出てくる内容です。

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(4-8節)

キリストの思いを自らの思い、心構えとすることができますように。

ピリピ 3:1-4:1

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(3:10,11)

苦難を否定的に捉える現代社会では理解しがたい内容ですが、LBではこう訳しています。

「私は今、ほかのことをいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。つまり、真にキリストを知ること、キリストを復活させた力を、この身をもって体験すること、そして、キリストと共に苦しみ、また死ぬとはどういうことかを知ることです。死者の中から復活した、生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。」

「キリストの苦しみにあずかること」

と訳された単語は、

「キリストの苦しみの交わり(コイノニア)」

と訳せます。理解しがたい苦しみはキリストの苦しみの交わりの中にあることであり、それは復活の希望の交わりの中にいることを意味しています。

ピリピ 2:12-30

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(2:13)

原文を直訳しますと、

「というのはあなた方の内に、神が喜ばれることのために、意志と行いの両方に働きかけている方は神である。」

となります。神は私たちの意志と行いとの両方に働きかけておられると言います。神が喜ばれることをしたいという思いも、実際に、神が喜ばれる行いができるように助けてくださるのも神だと言うのです。つまり、私たちは神が喜ばれる生き方を選ぶことができるということです。ですから、パウロは続けて言います。

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」(14節)

つまり、キリストを信じる者は、不平不満の人生ではなく、すべてのことを感謝して生きる力が与えられていると言うのです。

ピリピ 1:27-2:11

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(2:6-11)

この箇所は「キリスト賛歌」と呼ばれ、初代教会の讃美歌だったのではと言われています。「それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とあるように、キリストに倣ってへりくだって生きるのがキリスト者です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ピリピ 1:1-26

「それは、私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」(1:20)

「私の身によって、キリストがあがめられることです。」を直訳するならば、

「キリストが私の身体の中で大きくなることです」

と訳せます。キリストが大きくなると言うことは、自我の割合が小さくなることです。バプテスマのヨハネも、

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:20)

と言いましたが、キリストが大きくなり、自分が小さくなるというのは、信仰者の心です。この時、パウロは投獄され、判決を待っていましたが、彼の心はいわゆる運命にではなく、結果的に、

「キリストがあがめられること」

という願いで満たされていました。私たちのすべてが、主に栄光を帰すものとなりますように。

エペソ 6:1-24

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(6:18)

パウロはこの世界には霊的な戦いがあることを述べ、すべての霊的な武具を身につけるように命じます。そして、祈ることを強調します。私たちの祈りの姿勢が、私たちの信仰を表します。ここで命じられている祈りは、自己中心的な祈りとは違います。リビングバイブルではこう訳しています。

「どんなことでも、聖霊の考えにそって神にひたすら願い求めなさい。」

私たちは、神の御国(主権)がこの地上に現されることを祈り求めます。神のみこころが天の御国で行なわれているように、この地上でも行なわれることを祈り求めます。神中心の祈りです。自分のためだけではなく、「すべての聖徒のために」祈る祈りです。

エペソ 5:8-33

「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(5:19)

賛美の歌を心から歌うことは、どうでもいいことではなく、聖書が命じていることです。現代におけるサタンの巧妙な罠の一つは、「陶酔」という言葉を利用して、心を込めて、聖霊に満たされて、主に歌うことを妨げようとしてることだと思います。知的に歌うことも大切ですが、「霊の歌」という表現もあるように、我を忘れて聖霊に導かれて歌うことも大事なことです。実際、賛美をしなくなると、私たちの口は不平と不満ばかりが出てきます。昔も今も変わりません。賛美を妨げる人々の間でなされていたのは下品なものでした。ですから、パウロは言います。

「また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」(4節)

エペソ 4:17-5:7

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(4:29-32)

バングラデシュの児童養護教育施設のホーム・オブ・ピースの毎朝の教職員祈祷会の中で、この箇所が唱和されます。なぜなら、これが教師のあるべき姿勢だからだと言っていました。もちろん、教師でなくても自分の人生訓として毎朝このみことばを宣言するならば力となります。