1テモテ 1:1-20

「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1:15)

ある時、イエス様が取税人や罪人たちと食事をしているのを見た当時の宗教指導者たちはイエス様の弟子たちに言いました。

「おまえたちの先生は、どうして、こんなどうしようもない連中といっしょに食事をするのか。」(マルコ2:16LB)

それに対して、イエス様はこう答えられました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(17節新改訳二〇一七)

健康な人は医者を避けます。しかし、病気になると医者が必要だと分かります。人類は病んでいます。だから神は偉大な医者、御子イエス・キリストを送られました。パウロのように、イエス・キリストが必要であることを認めることからすべては始まります。

2テサロニケ 3:1-18

「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。」(3:5)

パウロの祈りは、神が一人一人の心を、「神の愛」と「キリストの忍耐」に導かれることでした。文脈から考えますと、「神の愛」というのは、

「主のことばが至る所で急速に広まり、あなたがたのところで起きたと同じように、各地で救われる人が起きるように祈ってください」(1節LB)

ということに関係があります。「キリストの忍耐」は、

「私たちが悪い者たちの手から救い出されるように祈ってください。」(2節LB)

と関係しています。すべての人が救われるように祈り、伝道していく「神の愛」と、それに伴う数々の試練に耐えていく「キリストの忍耐」、その両方が必要です。

「しかし、主は真実な方ですから、あなたがたに力を与え、悪魔のどんな攻撃からも守ってくださいます。」(3節LB)

というみことばをしっかり握っていきましょう!

2テサロニケ 2:1-17

「ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。」(2:15新改訳二〇一七)

「私たちが説教や手紙で伝えた教えを守りなさい」(LB)

と言う理由は、偽教師に惑わされたり、だまされたりする人がいたからです。パウロは言います。

「幻を見たとか、神から特別のことばを受けたとか言う人が現れても、また、私たちから送られたもののように偽造した手紙を見せられても、信用してはいけません。」(2節LB)

パウロは、それよりも「学んだ教え」をしっかり守りなさいと言います。「学んだ教え」が新約聖書です。聖書よりも

「不思議なわざを見せては人々をだまし、力ある奇跡を行う者であるかのように見せかけるのです。」(九節LB)

という問題がありました。何を土台とするか、私たちは問われています。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2テサロニケ 1:1-12

「そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。」(1:11)

使徒パウロがテサロニケの教会の信徒たちのために祈っていたことは、まず第一番目に、「召しにふさわしい者」となれるようにということでした。私たち一人一人に神の「召し・召命」(Call)があります。イエス様も言われました。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

神の召命にふさわしい生き方を全うすることできますように。

1テサロニケ 5:1-28

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(5:16-18)

「神が望んでいる」と訳された単語は、「神のみこころ」と訳すことができます。神の私たちに対するみこころは、私たちがいつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝することだと聖書は言います。神は、私たちが、どんな状況でも神を信頼して喜ぶことを願われておられます。もちろん、そのためには、絶えず祈る必要があると言います。「それでもなお祈る」という祈りを止めないということです。信じて祈り続けることこそ、神のみこころであるということです。そして、必ず神がすべてのことをプラスにしてくださると信じて、プラスに見えることだけでなく、マイナスに見えることも、すべてのことについて感謝することです。「ハレルヤ、主よ、感謝します。」と感謝することが神のみこころです。

1テサロニケ 4:1-18

「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。」(4:3-6)

神の私たちに対するみこころは、聖くなることだと聖書は言います。この箇所では、自分のからだを聖く保つことを教えています。私たちは自分の心を汚れた思いや欲情のとりこにさせられないように、何を見、何を聞くか、注意をする必要があります。また、「兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。」とあるように、自分の聖さばかり考えて、周りの人を踏みつけないように気をつける必要があります。

1テサロニケ 2:17-3:13

「このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。」(3:3)

クリスチャンになったら順風満帆の人生が待っているという約束は残念ながらありません。逆に、

「クリスチャンにとって困難とは、神の計画の範囲内の出来事なのです。」(3節LB)

とパウロは言います。困難は想定内であると言うのです。ですから、問題があることが問題ではありません。問題をどう対処するかが問題です。問題は祈るためにあります。パウロは

「昼も夜も熱心に祈っています。」(10節)

と言いますが、私たちが膝を屈め祈り始めるときに、神の偉大な御業を体験します。私たちの神は今も生きて、働かれておられるお方です。私たちの祈りにこたえてくださるお方です。

コロサイ 4:2-18

「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。」(4:2,3)

使徒パウロは祈りの力を知っていました。祈りなくして、福音を伝える機会が与えられるとは考えていませんでした。神は、私たちの小さな祈りを用いて、大いなる御業を行われるお方であることを知っていたのです。神は私たちの祈りを聞かなければならないわけではありませんが、聞かれるお方です。ですから、パウロは訴えます。

「祈りをやめてはいけません。感謝をもって、熱心に祈り続けなさい。」(2節LB)

だから、聖書は言います。

「神のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださることを、信じなければなりません。」(へブル11:6LB)

コロサイ 3:1-4:1

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」(3:1,2)

私たちはキリストにある価値観、世界観に生きるよう勧められています。LBでは2節をこのように訳しています。

「地上のことをあれこれ気に病まず、天上のことで心を満たされていなさい。」

これは、世捨て人になることではありません。神の国、神のみこころ、神の国の価値観、聖書の価値観で心を満たすことです。ですから、15節にこう記されています。

「キリストにある平和が、いつもあなたがたの心と生活を満たすようにしなさい。そうすることが、キリストの体の一部とされたあなたがたの責任であり、特権でもあるからです。また、いつも感謝していなさい。」(LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

コロサイ 2:6-23

「かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」(19節)

当時の教会の問題の一つは、

「自分が見た幻により頼み」(18節)

とあるように現象に依存し、キリストとの関係、そして、キリストのからだである教会との関係を軽視する人がいたことです。LBではこう訳しています。

「彼らはキリストにつながっていません。しかし、キリストの体を構成する私たちは、キリストをかしらとして結びついています。私たちは間接と筋肉によって互いにしっかり結び合わされ、神から養分と力とをいただいて成長するのです。」

メッセージ訳ではこう訳しています。

「キリストはかしらで私たちはからだです。私たちは、神様が養ってくださることによってのみ健全に成長できます。」

かしらであるキリストとの関係、キリストのからだである教会との関係の両方が大事です。