2ヨハネ 1-13

「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。」(9節)

私たちの信仰の土台はいつも聖書である必要があります。行きすぎをして、聖書以外のものを読み込むということはとても危険なことです。聖書に書いてあることよりも大事な教えがあるというならば、それは、

「神様をないがしろにしている」(LB)

ことだと聖書は言います。

「聖書は、誤りなき神の言葉である」

と信じ、この教えのうちにとどまる人にこそ、

「御父も御子もおられます」(新共同訳)。

いつの時代も、聖書の教えと異なるものを聖書を利用して教える人たちがいます。ですから、私たちはいつも、バック・トゥー・ザ・バイブル、聖書に戻ることが大切です。その判断のためには聖書全体の流れを理解することが重要です。

1ヨハネ 5:1-21

「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(5:11,12)

これほど明確な文章はないと思います。LBではこう訳しています。

「神の言われたこととは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったこと、そして、永遠のいのちが神の御子のうちにあるということです。そういうわけで、神の子を信じる人にはいのちがあり、信じない人にはいのちがないのです。」

ある人は「すべての道が神に通じる」と言います。ある人は「誠実であれば、神は受け入れてくださるはずだ」と言います。しかし、聖書は明確に、イエス・キリストを信じることなく永遠のいのちはないと言います。ですから私たちはイエス・キリストを明確に宣べ伝えていく必要があります。

1ヨハネ 3:11-4:6

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(3:16)

キリストはただ口先で私たちを「愛している」と言われたのではなく、実際に、私たちの罪のために十字架で死なれることを通して愛を明らかにされました。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8新改訳二〇一七)

愛は行動を伴います。聖書は私たちに同じように口先だけでなく、行動に現すように勧めています。神様に導かれるならば、犠牲を払うことから逃げることがないようにと、主のあわれみと助けを求めます。

1ヨハネ 2:28-3:10

「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」(3:8)

イエス・キリストを信じる者は、「今すでに」神の子どもです。しかし、後の状態は「まだ」明らかにされていません。聖書の中に出てくる「神の国」、「終わり」(終末論)を理解するためには、この「今すでに」と「まだ」という理解が重要です。「神の国」(統治)はイエス様が来られたことで「今すでに」私たちのただ中に始まっています。しかし、完全な「神の国」はイエス・キリストが再び来られる時にもたらされます。イエス様の十字架の死と復活、聖霊の到来によって終わりは「今すでに」始まっています。私たちは「終わり」のはじまりと「終わり」の完成の間に生きています。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1ヨハネ 2:1-27

「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」(2:14)

キリストを信じる者は、戦いの中にいます。戦いは、私たちの思考に関する戦いであり、私たちの人生を決定づける戦いです。神は、私たちが神との関係を築き、祝福された人生を歩むことができるように、私たちの人生を治めたいと願われています。しかし、サタンは、私たちを滅ぼすことができるように嘘を用いて私たちの人生を支配しようとします。この戦いに勝つ方法は、神のみことばのうちにとどまることだと聖書は言います。ダビデもこう言っています。

「私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。」(詩篇119:11新改訳二〇一七)

神のみことばを心に蓄えることがサタンの嘘にだまされないためにも必要です。

1ヨハネ 1:1-2:11

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(1:3)

「交わり」

と訳された言葉は、

「共通のものを共有する」

という意味があります。使徒ヨハネが、この文脈で主張している共通のものとは、

「御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

それはつまり、

「生ける神、イエス・キリストを現実として体験」すること、

「生ける神の臨在を共有する」

ということです。私たちは使徒ヨハネが体験したように、キリストをこの目で直接見たり、聞いたり、触ったりすることはできません。しかし、私たちもヨハネとおなじように、「生ける神の臨在を共有」できると言います。ペンテコステの日に聖霊が臨み、「生ける神の臨在」は、今、キリストを信じる人々の中に回復されます。教会は「生ける神の臨在の民」です。

2ペテロ 3:1-18

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。」(3:9,10)

「主の日は盗人のように」とは、その日は、思いがけない時にやってくるということです。つまり、私たちはサッカーで言うロスタイムに生きています。いつ、終了の笛が吹かれてもおかしくない時代に生きているのです。神だけがいつ終了の笛を吹くか、決めることができます。イエス様が誕生されてから、二〇〇〇年を経た今も、まだ、笛が吹かれていない理由は、神のあわれみです。ひとりでも滅びることを望まない神は、すべての人が悔い改めることができるように、忍耐されているのです。しかし、その日は必ず来ます。

2ペテロ 2:1-22

「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」(2:7,8)

私たちは、この世に生きていますが、この世に染まる必要はありません。道徳的な堕落が叫ばれるこの世の中で敬虔に生きることを選ぶことは、時には悩まされ、心を痛めるものです。しかし聖書はこの世界に終わりがあることを明確に伝えています。そして、この世界が終わる前に、大患難時代と呼ばれる時が来ることを伝えています。キリストを信じる者は、ロトが救い出されたように、その大患難時代から救い出されます。その日は遠くありません。世界情勢を考えると、確実に、その日に向かっていることを私たちは感じます。だからこそ、堅く節操を保ちキリストを待ち続ける姿勢が大切です。

2ペテロ 1:1-21

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(1:20-21)

聖書は、自分勝手に解釈することを禁じています。自分の好きなように解釈することは認められていません。なぜなら、聖書は神のことばであり、

「聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったもの」(21節新改訳二〇一七)

だからです。文脈を無視して、自分の思いを読み込み、聖書を利用しようとする偽教師に気をつける必要があります。ペテロは偽教師というのは、

「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込んで、自分たちを買い取ってくださった主まで否定しようとします。」(2:1新改訳二〇一七)

と言います。

1ペテロ 5:1-14

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(5:7)

サタンはあなたが一人ぼっちだと信じようとさせます。誰も理解してくれないし、誰も気にもとめていないと信じさせたいのです。しかし、神はあなたのことを理解しています。神はあなたのことを心配しています。あなたを気にかけておられます。どんなに失敗を繰り返しても、どんな問題を抱えていても、神はあなたを見放さず、見捨てません。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」(8,9節新改訳二〇一七)

私たちは否定的な思いに対抗しなければなりません。神はあなたを愛しておられます。