ヨブ記 38:1-40:2

「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。」(38:1)

38章から、神がヨブに直接語られています。若いエリフの話がまだ終っていない印象も受けますが、神が突然、登場します。榎本保郎師はこう言います。

「聖書には神がつむじ風の中でしばしばご自身を現されたことが記されている。考えてみると、つむじ風、すなわち暴風に出会うとき人間は自分の弱さをいやというほど知らされる。・・・人間は自然の猛威に出会うとはじめて自分の弱さ、小ささに気づく。言うならばそのときはじめて人間は本当の自分に気づくのである。そして、そのとき、人間は神の声を聞き取ることができるのである。」

震災など自然災害は、私たちにそのことを体験させます。私たちは痛いほど、人の弱さ、小ささに気づかされます。私の神学校の先生は、

「病気や死は、私たちが神ではなく、『人間である』ということを知らせるものだ」

と言っていました。
「人は人であり、神は神です。」

ヨブ記 35:1-37:24

「これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。」(37:14)

ヨブは三人の友人との対話の中で、自分のことでいっぱいになっていました。「因果応報」を絶対視する友人たちは、ヨブに非を認めさせようとしました。ヨブはそのことに疑問を呈し、「自分の何が悪かったのか?」と神に訴えます。私たちも同じように自問する時があるのではないでしょうか。しかし、そんなヨブの視点を変えるようにエリフは訴えます。

「神が嵐を起こすのは懲らしめのため、また、いつくしみで人々を元気づけるためだ。」(13節LB)

神の知恵を人は理解することはできません。エリフはヨブに、人間のはかない知恵で悟りを開こうとすることをやめて、神の素晴らしい御業を考えるように勧めたのです。私たちは自分を主体として世界を考えることをやめて、神を認め、神の御業を考える必要があります。「私」ではなく「神が」何をしてくださったか、十字架の御業をじっと考えることが大切です。

ヨブ記 33:1-34:37

「神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。」(33:14)

簡単に言うと、神の方法は私たち人間には分からないということです。イザヤ書でも、神がはっきりとおっしゃっています。

「わたしの計画はあなたがたの計画と違い、わたしの思いはあなたがたの思いと違う。天が地より高いように、わたしの道はあなたがたの道より高く、わたしの思いはあなたがたの思いより高い。」(55:8,9LB)

ヨブは、「因果応報」という発想から解放される必要がありました。エリフは、前の三人とは違って、痛みにも意味があるかもしれないことをヨブに伝えます。苦しみがもたらすものとして、26節で彼はこう言います。

「彼が祈ると、神はすぐさま答え、喜んで彼を受け入れ、彼を元の働き場に戻す。」(LB)

「なぜ?」と答えが得られない質問を繰り返すのではなく、「神に祈るべきだ」と彼は言います。

ヨブ記 30:1-32:22

「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。」(32:8)

今日の箇所で、突然、エリフという人物が登場します。彼はここまで、名前も存在も出てきません。この後も出てきません。ですから、エリフの発言をどう理解するか様々な見解があります。しかし、ここにヨブ記のもう一つのテーマがあります。それは、「神は神であり、人は人である」ということです。「この世の知恵」と「神の知恵」には、確かに違いがあります。人は、そもそも「全能者の息」によって「生きた者」(創世記2:7)となりました。ですから人は「全能者の息」によって「理解」が与えられます。ペンテコステの日、共に集まり、祈っていた120名の兄弟姉妹の上に聖霊が臨まれました。その時、まさに、「全能者の息」によって、人々は理解する力も与えられました。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヨブ記 25:1-29:25

「私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。」(27:5)

「潔白」と訳されたことばを、英語の訳では「INTEGRITY」(正直、清廉、高潔、誠実)と訳しています。タイヤのビスが一つ外れたからと言って、すべてのビスを外す必要はありません。逆境のときに、うまくいかないときに、私たちはヨブのように宣言する必要があると思います。友人たちに責められながらも、それでも、私は死ぬまで自分の人間としての尊厳を手放さないと。自分がたとえ理解できなくても、神はすべてをご存知です。そして、私たちの神は、私たちを愛し、私たちの人生に関心を持ち、私たちに最善をなしてくださるお方です。ヨブの苦難にも終わりがあったように、私たちもやがてトンネルを抜け出すときが来ます。ですから、ヨブのように、キリストのみ顔を拝するときまで、自分の尊厳を離さないようにしましょう。

ヨブ記 22:1-24:25

「今そうでないからといって、だれが私をまやかし者だと言えよう。だれが私のことばをたわごとにしようとするのか。」(24:25)

ヨブは因果応報を絶対とするエリファズに対して反論します。「エリファズさん、あなたは因果応報がいつも絶対だと言うけれども、この世の不条理をどう説明するのですか?嘘をつかないでください。絶対じゃないじゃないですか!」ヨブ記が私たちに問うていることは、私たちの動機です。もし、ヨブが主張するように、因果応報がこの世において必ずしも絶対ではないとしたら、「それでもなお、あなたは正しく生きますか?」「自分が願っていたように扉が開かれなかったとしても、それでもなおあなたは主を信頼し、善を行い続けますか?」ということです。そもそも、イエス・キリストの十字架は不条理の極みです。しかし、神はこの不条理の極みである十字架の上でご自身を現されました。十字架は悲劇の象徴ではなく、天国の入り口です。

ヨブ記 19:1-21:34

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(19:25)

ヨブは苦しみの中、驚くような預言的ことばを発します。

「だが、私は知っている。私を救うお方は生きておられ、ついには地上に降り立つのだ。この肉体が朽ちはてたのち、私は新しい肉体で神を見る。」(25,26節LB)

旧約聖書には死後の世界に関する言及はありません。しかし、この箇所で明らかにヨブは死後の希望を語っています。ヨブは、この世がすべてではないこと、この世のからだがすべてではないことを理解します。ヨブは、死を越えたところに、永遠のからだに復活する日を確信したのです。私たちは、私たちを贖う方、キリストが死の力を打ち破ってよみがえられ、今、生きておられることを知っています。私たちは、ヨブよりももっと確信をもって、希望を宣言することができます。

「私たちを贖う方、キリストは今生きておられる!」

ヨブ記 15:1-18:21

「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。」(16:19)

ヨブは、家族からも、友人からも理解されず、彼の唯一の希望は天にて自分をとりなしてくださる存在でした。

「その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」(21節)

ヨブはその方がよく分かりませんでした。しかし、私たちは今、その方を知っています。聖書は言います。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)

四方八方ふさがっているように見えても天は開いています。私たちは天におられるこのお方に目を向けることができます。私たちはこのお方を知っています。私たちと同じように苦難を体験された神の御子は、私たちの思いを理解し、今日もとりなしてくださっています。

ヨブ記 11:1-14:22

「神があなたがたを調べても、大丈夫か。あなたがたは、人が人を欺くように、神を欺こうとするのか。」(13:9)

ヨブの友人たちの問題は、自分を棚上げにして神の代弁者のようにヨブを有罪だと責めていたことでした。そんな友人たちに対してヨブは言います。

「神は一度だって、あなたがたの言っているようなことを口になさらないのに、それでもなお、神の代弁者を気取るつもりか。」(7節LB)

そしてヨブは、神を恐れていたら、こんなことができるはずがないと言います。私たちは、神の代弁者のように誰かを責める思いがあるならば、このヨブの言葉を心に留める必要があります。「神があなたがたを調べても、大丈夫か。」神は私たちに神を弁護して欲しいと願っているわけではありません。神が被告人で私たちの弁護を必要としているのではありません。神が願われているのは、私たちが弁護者になることではなく、まことの弁護者、イエス・キリストを指し示すことです。

ヨブ記 8:1-10:22

「私にかまわないでください。私はわずかでも明るくなりたいのです。」(10:20)

苦しみの中にあるヨブの叫びに、共感できるものがたくさんあると思います。ヨブは、わずかでも明るくなるために、神に「かまわないでください」と言いました。ヨブが心底そう思ったかはわかりませんが、そう言いたくなった気持ちは分かります。問題の中で、人はどうして神から離れようとしてしまうのでしょうか?人は誰もが神を必要としています。それなのに何が私たちを神から遠ざけてしまうのでしょうか。「結局、自分の力では神に認められない」と悟る時、「それならもういっそ、かまわないで欲しい」と開き直ってしまうからでしょうか。私たちはヨブとは違い、イエス・キリストの十字架を見上げることができます。キリストの十字架は、キリストを信じる者はキリストの御業によって、神に認められることを指し示します。復活の日曜日は来ます。神の介入を求めましょう。