1サムエル記 2:27-4:22

「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。」(3:10)

少年サムエルは主の宮で神の声を聴きました。ジョン・コーソン師は言います。

「もしあなたが主に語ってもらいたいならば、あなたに導きを与えて欲しいならば、主の宮の中にいるべきです。」

神はもちろんいつでもどんな所でも語ることができます。しかし、神がよく語られる場所は、主の宮である教会です。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

サムエルのように、

「お話しください。しもべは聞いております。」

という姿勢で礼拝に、婦人会に、祈祷会に、教会学校に集う時、確かに主の声を私たちは聖書のみことばを通して聴くことができます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1サムエル記 1:1-2:26

「彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」(1:18)

いつまで神に個人的な願いを祈り続けるべきでしょうか。合理的に考えれば、「一度祈れば、もう祈る必要はない。」となるかもしれません。しかし、聖書はそう教えていません。そもそも、私たちが願う前から神は私たちの願いを知っています。ですから、祈りは神に願いを知らせること以上に意味があります。いつまで祈り続ければいいのでしょうか?ハンナが祈りを終えた時、彼女の顔は以前のようではなかったとあります。この確信を得るまで祈る必要があります。神の答えが私たちが願っていたことと同じとは限りません。しかし、祈った後の私たちの顔が、ハンナと同じように、もはや以前のようではなくなるまで、私たちは祈り続ける必要があります。

ルツ記 3:1-4:22

「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。」(4:13)

誠実なボアズは、正当な手続きを経てルツをめとることにします。それは、ボアズよりも権利のある親類が

「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。」(6節)

と言ったように、彼の財産を失う危険を伴うものでした。ボアズはまさにすべてを捨ててでも、ルツを贖ったのです。イエス様は言われました。

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

ボアズにとっては、ルツは宝であり、彼は彼女のためにすべてを捧げました。ボアズはキリストの象徴であり、ルツはキリストの花嫁である教会の象徴だと言われます。キリストは私たちを贖うためにその命を捧げてくださいました。私たちはそれほど高価で貴いのです。

ルツ記 1:1-2:23

「そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。」(1:6)

ナオミとその家族は約束の地、ベツレヘムに住んでいましたが、ききんがあったので異教の神々の地、モアブに移り住んでしまいました。問題と言うのは、そもそも私たちが膝を屈めて、神に祈り求めるためにあります。しかし、ナオミたちは、神に祈り求めることよりも、手っ取り早い解決を求めて、約束の地を離れてしまいました。その結果、彼女はすべてを失ってしまいました。すべてを失ったナオミは、主を待ち望む者に必要を満たされる神の現実を耳にします。「あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。」(詩篇145:15)驚くことは、神のもとに戻ってきたナオミに、神は回復のプロセスを始められたということです。主に身を避ける者は、失望させられることはありません。

士師記 20:1-21:25

「イスラエル人は立ち上がって、ベテルに上り、神に伺って言った。『私たちのため、だれが最初に上って行って、ベニヤミン族と戦うのでしょうか。』すると、主は仰せられた。『ユダが最初だ。』」(20:18)

イスラエルの人々は相談した結果、ベニヤミン族と戦うことにしました。内戦です。彼らは神にどの部族がまず最初に戦いに出て行くべきかを伺いました。しかし、そもそも戦いに上るべきかどうかを尋ねるべきでした。チャック・スミス師は言います。

「もし、彼らが正しい伺いを神にしていたら、この後に記されているような敗北を体験することはなかったと私は信じています。」

私たちも「神様、これをすべきですか?それともこれですか?」と、二、三の提案をしてその中から答えて下さるよう要求することがあると思います。しかし私たちはまず、「神様、あなたのみこころは何ですか?」と祈り求めるべきです。

士師記 18:1-19:30

「それを見た者はみな言った。『イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考えて、相談をし、意見を述べよ。』」(19:30)

士師記に希望の光を見いだすことができない理由は、人々が神に聴く姿勢がないからです。めいめいが自分の目に正しいと見えることを行うために、悲劇から悲劇が繰り返されていくのです。考えたり、相談したりすることは決して悪いことではありませんが、神に祈り、みこころを求めなければ混乱を招くだけです。この後、イスラエルの人々が相談して決めたことは報復であり、いわゆる内戦でした。そして問題は解決されるどころか泥沼化します。神は言われます。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

私たちは何よりも神のみこころを求める必要があります。

士師記 16:1-17:13

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(17:6)

哲学者たちは、普遍的な善悪はないと言います。しかし、だからといってめいめいが自分の目に正しいと見えることを行うならば、無秩序状態に陥り、結果的に社会は崩壊していきます。これこそアダムとエバが禁じられた善悪の知識の木のから食べたことに起因する死の現実です。士師記はそのことを証明しています。人は普遍的な善悪を必要としています。そして、普遍的な善悪は、神のみことばである聖書の中で告げられています。聖書は言います。

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8新改訳二〇一七)

自分の基準で生きていくのではなく、神のみことばを信仰と生活の規範として生きていくことが大切です。

士師記 14:1-15:20

「そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言った。『あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。』すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。それゆえその名は、エン・ハコレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。」(15:18,19)

旧約学者の服部師はこう言います。

「サムソンは、(性格的に弱点をもちながらも)自分なりに、士師としての使命を果たすために精いっぱい努力したのだろう。彼は、疲れ、のどの渇きを覚えて主に求めたのである。(中略)そのような疲れたサムソンに対して、神は彼に水を与えて、元気を回復させ、強められたのである。」

「エン・ハコレ」の意味は「祈る者の泉」(新共同訳)。

主を呼び求める者に、主は答えてくださいます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

士師記 12:1-13:25

「エフライム人が集まって、ツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。『なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う。』」(12:1)

アモン人の圧迫を受け、愚かな誓願を立ててまで戦い、勝利を手にしたエフタに、その犠牲も考慮せずにエフライム人たちは苦情を言い、責め、脅迫します。エフライムはイスラエルの中心的な部族という自負があったからです。エフタは言います。

「以前、われわれはあなたがたに召集をかけました。しかし、駆けつけてはくれませんでした。助けてほしい時に助けてくれなかったのです」(2節LB)

助けて欲しい時に助けもせずに文句だけ言うのは間違っています。

「もし互いに愛し合わず、いがみ合ったり、非難し合ったりしているなら、結局、共倒れになってしまいます。気をつけなさい。」(ガラテヤ5:15LB)

士師記 10:1-11:40

「エフタは主に誓願を立てて言った。『もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。』」(11:30,31)

エフタの物語は悲劇です。彼は愚かな誓願を立てました。勝利を得させてくださるなら、自分を最初に迎えてくれる者を全焼のいけにえとして捧げると。彼を最初に迎えたのは、愛する一人娘でした。
イエス様は言われました。

「だから、『はい、そうします』か、『いいえ、そうしません』とだけ言いなさい。それで十分です。誓いを立てることで約束を信じてもらおうとするのは、悪いことです。」(マタイ5:37LB)

祈る時に軽率に誓う必要はありません。ただイエス様の御名によって祈ればよいのです。