1列王記 6:1-7:22

「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行ない、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。」(6:12)

神殿を建てている間にも、神はソロモン王に重要な現実を伝えました。それは、建物を建てることよりも神との関係の方が重要ということです。神のために建物を建てることは素晴らしいことですが、人は建物を建てることによってではなく、神との関係によって祝福されます。これは何度も思い起こす必要があります。神のためにいろいろなことをすることができますが、イエス・キリストとの関係が最優先です。親が子供にどんな高価なものを与えても、親子関係をないがしろにしたら意味をなさないように、神のためにどんな事業をすることよりも、イエス・キリストとの関係が重要です。

1列王記 3:16-5:18

「どうか、私のために、レバノンから杉の木を切り出すように命じてください。私のしもべたちも、あなたのしもべたちといっしょに働きます。私はあなたのしもべたちに、あなたが言われるとおりの賃金を払います。ご存じのように、私たちの中にはシドン人のように木を切ることに熟練した者がいないのです。」(5:6)

ソロモンは「神のために神殿を造るのだから無料で奉仕しなさい」とは言いませんでした。しかも、「あなたが言われるとおりの賃金を払います。」と、支払いを惜しむこともありませんでした。なぜなら、神のために神殿を造ることに対してそれだけの価値を認めていたからです。私たちは価値を認めているものに対して、その価値に見合うものを支払うものだと思います。私たちは日々、何に価値を見いだし、何に支払いをしているでしょうか。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:21)

1列王記 2:13-3:15

「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(3:9)

神はソロモン王に言いました。

「何なりと望むものを求めよ。そうすれば与えよう」(5節LB)

彼はそれに対して、神の民を治めるための自分の経験や能力の不足を表明して、「聞き分ける心」、「判断力」(LB)、「理解する心」(NKJV)を求めました。原語は「聞く心」。人々に聞く心、神から聞く心という意味。神はソロモンが自分のことではなく神の民のことを考えた答えに喜び

「望まなかった財産と名誉も与えよう」(13節LB)

とおっしゃられました。私たちも、まず、自分のことではなく、神の国を求める姿勢をもちたいと思います。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

1列王記 1:1-2:12

「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。」(2:2)

ダビデの時代、「復活」という概念はありませんでした。「死」というのは神の領域であり、人にはどうすることもできない領域でした。それでダビデは、「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」と言いました。しかし今、イエス・キリストが死の力を打ち破りよみがえられましたから、栄光の保証があります。私たちがこの肉体を離れる日、私たちは神のみもとにいます。(Ⅱコリ5:8参照)私たちは、「子どもたちよ、私はこれから主のみもとにいく。主と共にいることは本当に素晴らしい!」と言うことができます。永遠のいのち、栄光の望みがあります。ダビデがソロモンに語った勧めは私たちにも適用できます。

「強くあれ。あなたが造られた目的に生きなさい。神があなたに語ることを行ないなさい。」(メッセージ)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル記 23:8-24:25

「しかし王はアラウナに言った。『いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。』」(24:24)

ダビデは神に命じられたとおりアラウナと言う人の打ち場に行き、そこに祭壇を築くためにその場所を購入しようとしました。(ここに神殿が建てられます。)アラウナは無料でその場所を提供することを進言します。無料で手に入れることができるという話は、ダビデにしたら悪い話ではないはずです。しかし彼は言います。

「いや、ただで受け取るわけにはいかない。ぜひ、売ってもらいたい。何の犠牲も払わずに焼き尽くすいけにをささげたくはないのだ。」(LB)

ダビデは、「犠牲」(いけにえ)の意味を理解していました。犠牲を払わない、いけにえはありません。神は私たちの犠牲を受けるのにふさわしいお方です。

2サムエル 22:1-23:7

「私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(22:30)

ある注解書でこう訳しています。

「私の神と一緒ならば、私はどんな壁も飛び越えることができる。(WBC)」

ダビデは、「神様と一緒ならば、どんな壁も飛び越えることができる」と晩年に告白しています。それは逆を言えば、いろいろな壁に頭をぶつけてきたという意味でもあると思います。ダビデはいろいろな壁にぶつかって、自分の小ささを体験する中で、膝を屈めることによって神が一緒なら大丈夫ということを確信していきました。リッチ・モーリンズというクリスチャン・シンガーがこんな歌を歌っています。

「委ねることが自然にできない。あなたが与える私に必要なものをとるよりも、むしろ本当は欲しくもない何かのためにあなたと戦ってる。それで、何度も頭を壁にぶつけ、崩れ落ち、膝をかがめる・・イエス様、私を抱きしめて。葉っぱのように揺らいでるから。」

2サムエル 20:1-21:22

「ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。」(21:1)

ダビデはイスラエルの国の危機的な状況を見て、

「時間をかけて祈った」(LB)

と言います。これがキリスト者の姿勢です。すべての問題に、必ずしも原因があるとは限りません。しかし、この日本の国が、社会的、経済的、道徳的、霊的な問題に直面しているのに、私たちは見て見ぬふりをするべきではありません。神はソロモン王に言いました。

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(Ⅱ歴代誌7:14)

神の御顔を求め、この日本の国のために主のみこころを求めて、呼び求めましょう。犯人探しではなく、主の前にへりくだり祈る人が求められています。

2サムエル 18:19-19:43

「アヒマアツは低地への道を走って行き、クシュ人を追い越した。」(18:23)

ダビデ王のもとに、ヨアブは最初、クシュ人を伝令で遣わしました。しかし、勝利の報告をどうしても伝えたかったアヒマアツは、ヨアブに頼み込んで、自分もダビデのもとに行くことを許可してもらいました。後から出発したアヒマアツは、低地への道を走って行ったので、クシュ人を追い越してしまったと聖書は言います。クシュ人はエチオピア人のことです。スポルジョン師はこう言います。

「私の霊の旅はどうであろうか。労苦を重ねて自らの行いという丘に登り、屈辱と自己の決断の谷に下っていないだろうか。それとも私は、『信じて、生きよ』との平坦な道を走っているだろうか。・・・この箇所を読んで気づくことは、もし人がささいな問題で争っているならば、他の者に追い越されるということである。」

2サムエル 16:15-18:18

「アブシャロムとイスラエルの民はみな言った。「アルキ人フシャイのはかりごとは、アヒトフェルのはかりごとよりも良い。」これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。」(17:14)

どんなに優れた助言があったとしても、それが実行されるとは限りません。神が介入される時、人は何もできません。最終的には、神のみこころが行われます。ですから、どんなにこの世界の情勢が不透明であっても、過度に恐れることなく、神に信頼する必要があります。最終的な決定権は神にあります。

2サムエル 15:13-16:14

「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(16:12)

息子のアブシャロムの反乱に、王国を捨てて泣きながら逃げるダビデに、前の王のサウル家の一族の一人、シムイはののしります。ちいろば先生こと榎本師はこんなことを言っています。

「誤解や中傷は私たちの人生にはつきものである。それは決して特別なものではない。ところが私たちはこうした被害を受けるとき、なんとか早くそれが解消するようにとやっきになる。しかし、自分をのろう者を抹殺したからといって、それで問題が解決するわけのものではない。・・・神への信頼、神による勝利を確信する者だけが、耐えることができ、耐えることができる者だけが勝利にあずかることができるのである。」

「悪いことをされても仕返ししてはいけません。主があなたを救うのを待ち望みなさい。」(箴言20:22LB)