1歴代誌 26:20-27:34

「ダビデは二十歳以下の人々は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである。」(27:23)

当時の人口調査の理由は、兵士の数を数えるためです。ですから神が人口調査を禁じた理由は、イスラエルの人々がマン・パワーに依存して、神に頼らなくなることを危惧したからです。残念ながら、人は計算できる範囲内に生きていると、祈りがなおざりになっていく傾向があります。計算できますから、祈っても祈らなくても同じに見えてしまうのです。しかし、自分の頭で計算できない時、私たちは必死で祈ります。祈ることしかできないからです。いつも自分の計算できる範囲内に自分を置くならば、安定はするかもしれませんが、祈りがなおざりになって、霊的な部分が弱くなっていきます。教会も計算できる範囲内で活動するようになると衰退します。計算できない信仰の冒険の世界に挑戦する姿勢も大事です。

1歴代誌 24:1-26:19

「また、ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。その奉仕に従って、仕事についた者の数は次のとおりである。」(25:1)

賛美しながら預言するということが、ダビデの時代に行われていたことは明らかです。それはつまり、賛美の中で神が語られるということを意味しています。立琴と十弦の琴とシンバル(ドラム?)とありますから、騒がしい音楽の中で神が語られたことが分かります。賛美の歌には二つの種類があります。神に直接歌う「垂直」の賛美と、預言的な神の言葉を人々に語る「水平」の賛美です。昔からこの両面が大切にされてきたことを心に留めることは大事なことだと思います。賛美を歌う時、神に直接歌うのですが、賛美の歌を通して神が語られることがあります。ですから礼拝の中で賛美の時間と言うのは大事な時間なのです。

1歴代誌 22:2-23:32

「見なさい。私は困難な中にも主の家のために、金十万タラント、銀百万タラントを用意した。また、青銅と鉄はあまりに多くて量りきれない。それに、木材と石材も用意した。あなたが、これらにもっと加えてほしい。」(22:14)

ダビデは何の痛みもなく神殿建築のための資金を用意したわけではありません。

「困難な中にも」

と言います。マケドニヤにあるピリピの教会も、

「困難な中にも」

主のために捧げた教会です。パウロは言います。

「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(Ⅱコリント8:2)

そんなピリピの教会に、神は一つの約束を与えられました。

「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

「困難な中にも」主に捧げる人に、主は必ず報いてくださいます。

1歴代誌 19:1-22:1

「しかし、ダビデ王はオルナンに言った。『いいえ、私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。』」(21:24)

ダビデは王でしたが、祭壇を建てるためにオルナンから土地を搾取することはしませんでした。さらにオルナンから「すべてを差し上げます。」と言われたのにも関わらず、ダビデは自分が十分な金額を支払って買いたいと主張しました。オルナンから買わなければ、それはダビデの捧げ物ではなく、オルナンの捧げ物になるからだと言いました。このダビデの姿勢は神への捧げ物に関して私たちに大切なことを伝えていると思います。ダビデは神に捧げ物をすることを特権だと考えていたことは確かです。ダビデは神から何かを得ることよりも、神に捧げることに心を留めていました。無償で捧げる犠牲(いけにえ)はありません。

1歴代誌16:37-18:17

「こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」(18:6)

ダビデは行く先々で勝利を体験しました。聖書は、その理由を、ダビデと共にいた神が彼に勝利を与えられたからだと言います。聖書はこの現実を何度も伝えています。ピリピ人への手紙にもこう記されています。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(4:13)

結局のところ私たちにとって大切なことは、何をするかよりも、いかに生きるかということです。イエス・キリストと共に生きるならば希望があります。ですからイエス・キリストは今日も私たちに語ります。

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)

イエス・キリストと共に歩むことができる人生は、祝福です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1歴代誌 15:1-16:36

「ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、主の名によって民を祝福した。」(16:2)

まず神に礼拝をささげてから、様々な働き、奉仕、ミニストリーがあります。この順序が狂ってしまうときに問題が起きてきます。そもそも、神に礼拝を捧げることなくして、人々を祝福することはできません。

「すべての良いもの、完全なものは、光を造られた神様から来る」(ヤコブ1:17LB)

からです。まず、神の国と神の義を第一に求める中で、私たちは祝福の基となれます。「祝福する」と訳されるギリシア語は、「良い」と「言葉」が組み合わされた単語です。「感謝する」とも訳されます。使徒パウロはクリスチャンの言葉に言及してこんなことを言います。

「みだらな会話や下品な冗談は、あなたがたにふさわしくありません。むしろ、互いに神の恵みを心にとめて、感謝しなさい。」(エペソ5:4LB)

祝福のことばを語る者となりますように。

1歴代誌 12:23-14:17

「私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」(13:3)

「神の箱」、それは神の臨在の象徴でもありました。しかしサウルの時代、それはほったらかしにされていました。神はサウルを王として選び、サウル王はイスラエルの国を建国し、権威者となりました。しかし、彼にとって「神の箱」などどうでもよかったのです。彼にとっての神は、その程度の存在だったのです。「あってもなくてもいい」、その程度の信仰だったのです。私たちはどうでしょうか。私たちにとって神に礼拝を捧げることは、どの程度の意味があるでしょうか。礼拝を捧げても、捧げなくてもいい、その程度のものでしょうか?神に礼拝を捧げることを顧みずにきてしまったならば、今、ダビデたちのように心を一新(考え方を新たに)しようではありませんか。まず、神の国と神の義を第一に求めようではありませんか。

1歴代誌 11:1-12:22

「ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、彼とともに全イスラエルに対する彼の王権を強固にし、イスラエルについての主のことばのとおりに、彼を王とした人々である。」(11:10)

イエス・キリストは「ダビデの子」と呼ばれました。ダビデの王権は、神からの王権で、預言者サムエルがダビデに油を注いだ時点で、彼は王でした。しかし、ダビデの勇士たちが彼の王権を強固にし、彼を王としたと言います。イエス・キリストは十字架で私たちのために死なれた時、暗やみの力に対して勝利をとられました。復活というのはその証拠です。イエス・キリストが王であることには変わりはありませんが、私たちはこの地上において、イエス・キリストの王権を強固にしていく使命があります。そのためには、まず、口先だけではなく、自分自身が日々、イエス・キリストを王として生きていく必要があります。

1歴代誌 9:1-10:14

「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」(10:13,14)

サウル王の一番の問題、それは、主に尋ねなかったことだと聖書は言います。祈りはキリスト教の核心です。なぜならば、一番大切なことは神との関係を育むことだからです。日々の生活の中で、

「主よ、導いてください」

と祈りによって尋ね求めることは本質的に大切なことです。そして、聖書のみことばに耳を傾け、その箇所を黙想します。

「主よ、この箇所から、あなたは私に今、何を語ろうとしているのでしょうか?」

と思い巡らします。主は、言われます。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)

主を恐れることが知識のはじめ、主を軽く見てはいけません。

1歴代誌 7:1-9:1

「ヨナタンの子は、メリブ・バアル。」(8:34)

8章はベニヤミン族の家系、サウル王の家系が記されています。サウル王は戦死し、彼の家系で唯一残るのがメリブ・バアル、すなわち、メフィボシェテです。ダビデとヨナタンの友情のすばらしさは、ヨナタンの死後、メフィボシェテに注がれました。そして、彼の子孫は祝福され、発展していきます。ここに神の恵みを見ます。メフィボシェテの祝福は、ただ、その父ヨナタンのゆえでした。同じように、私たち人類の祝福はみな、イエス・キリストにかかっています。イエス・キリストのゆえに、私たちの人生は祝福へと変わるのです。ですから、イエス・キリストを信じて、神の子として新生することがとても重要なのです。

「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29)