マタイ 26章

「イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」」(26:64)

イエス様の発言に対して大祭司は自分の衣を引き裂いて「冒涜だ!」と言いました。

それは、イエス様が何を言ったか分かったからです。

それは、ダニエル書のメシア預言と関係します。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」(7:13,14)

イエス様はこの「人の子」(メシア)としての預言の成就を宣言されたのです。

イエス様こそ「人の子」(メシア)です。

マタイ 25章

「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」(25:40)

聖書は明確に、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と言います。

すべての人は神の裁きの座の前に立つ日が必ずやってきます。

信仰義認と言われるように天の御国に入れるかどうかはイエス・キリストを信じたかどうかだけが問われます。

しかし、それは私たちのこの世でどのように生きたかはどうでもいいと言うことではありません。

私たちが助けの手を伸ばす必要がある人がいるのは、私たちが信仰の結果としての愛の行為を実践するためです。

聖書は言います。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)

マタイ 24章

「そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。」(24:4,5)

信じ難いことですが、「自分こそが再臨のキリストだ」と平気で名乗る人がいます。

新興宗教の教祖を指して「この人こそキリストだ」と言う人がいます。

イエス様は「惑わされないように気をつけなさい」と言います。

偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。」(24-26節)

イエス様の再臨は「偉大な力と栄光とともに来る」(30節)のであって、私たちは人に惑わされないように気をつけなければなりません。

マタイ 23章

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」(23:23)

23章は当時の宗教指導者層、律法学者、パリサイ人たちへの批判です。

「偽善の」とあるように、批判点は教えそれ自体ではなく、有言不実行、彼ら自身守らない厳格な律法遵守の強要と人に見せるための行いです。

収入の十分の一を捧げる什一献金は聖書が教える大事な教えです。

献金は信仰生活において大事なことですが、それ以上に教えるべきことは、正義、憐れみ、誠実と言う神の御国の価値観です。

献金をおろそかにしてはいけませんが、献金の話ばかりするよりも、伝えなければならない重要な神の御国のメッセージがあります。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

マタイ 22章

「イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」」(22:37-40)

イエス様は一番重要なのは神を愛することだと言いました。

しかし、同じように、「あなたの隣人を自分自身のように」愛することも重要だと言いました。

この箇所は「三つの愛」とも呼ばれます。

自分を愛する人は、隣人を大切にするようになり、また神を愛するようになると言う理解です。

自分を愛するという意味は、自己中心になることとは違います。

神が愛されている自分を、受け入れることです。

感謝する心を培い、知性を豊かにし、霊性を養うことです。

マタイ 21章

「もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」(21:3)

王の入城にふさわしいのは白馬だと思います。

驚くことは、イエス様がエルサレム入城に選ばれたのは子ろば、ちいろばでした。

白馬に比べれば見劣りしますが、それは預言の成就だったと聖書は言います。(5節参照)

ちいろば先生こと、榎本保郎先生はこんなことを言います。

「『主がお入りようなのです』とのお召しを受ければ、自分の事情を訴えないで従っていくのである。それは自分の周りの事情も神にゆだねていくということである。そしてだれが私を支配し、生かし、許す力を持っているかを知り、そのかたを恐れねばならない。」

イエス様に用いていただけること以上に、人にとって幸いなことはありません。

私たちは自分の足りなさではなく、ちいろばさえ用いてくださるイエス様に焦点を合わせる必要があります。

マタイ 20章

「自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」(20:15)

ぶどう園の日雇い労働者のたとえのポイントは、私たちが業績思想という人間的見方に縛られて、神の主権までも犯そうとしていないかというところにあります。

ぶどう園の主人は、朝早く、九時、十二時、三時、五時と労働者を雇いますが、それぞれ一日一デナリ(一日分の労賃)で契約します。

主人は最後に来た人から労賃を支払うのですが、労働時間に応じてではなく、契約通り、賃金を支払います。

朝早くから働いていた人たちはもっと多くもらえると期待していたので、不平を言います。

すると、ぶどう園の主人は、

それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。

と問います。

人は、自分の業績ではなく、神の驚くばかりの恵みによって救われます。

マタイ 19章

「イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」」(19:26)

金持ちの青年に対し、イエス様は言われました。

完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」(21節)

金持ちの青年は、「このことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。」(22節)と言います。

ヨーダーという学者は、これは神(シャロームの経済学)か、抑圧と搾取の「富の経済学」かの選択だと言います。

事実、金持ちの青年とは対照的に、取税人ザーカイは自分の財産を施します。(ルカ19章)

立ち去る者もいれば、神に従う者もいます。

「人は自分の主権者を選ばなければならない。」(ヨーダー)

マタイ 18章

「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」(18:33)

人は人知をはるかに超えたキリストの愛と恵みによってのみ生きることができます。

私たちはキリストの十字架が私たちの罪のためであったことを知っています。

しかし、神がどれほどの犠牲を支払ってくださったのか本当の意味で知っているでしょうか。

神のあわれみを体験した人は、あわれみに生きる人とならなければなりません。

聖書は明確に伝えます。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)

イエス様は主の祈りの中で、日々、私たちにこのように祈るように教えられています。

私たちの罪をお赦しください。私たちも、私たちに罪を犯す者を赦しました。」(6:12LB)

マタイ 17章

「イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」(17:20)

弟子たちが悪霊を追い出せなかった理由を、イエス様は信仰の薄さ(「小信仰」直訳)だと言いました。

十章でイエス様が弟子たちに権威を授け、遣わした時、弟子たちは神の力を体験したはずでした。

「からし種ほどの信仰」とあるように、イエス様の真意は信仰のサイズではないと思われます。

弟子たちは自分たちの信心で追い出せると思い込んでいたのだと思います。

弟子たちは、自分たちではなく、神に働いていただくことを信じ、期待する、生きた真の信仰が必要だったのです。

人にはできないことも、神にできないことはありません。

だから、生ける神に信頼する者には、できないことは何もありません。