レビ記 21:1-22:33

「また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえを主にささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。」(22:21)

いけにえをささげるときに、それは傷のないものでなければいけないと神は言われました。そのように言わなければ、人は残り物や、どうでもいいものを捧げるという傾向があることを知っていたからだと思われます。自分にとって痛くも痒くもない物を捧げると言う姿勢は神を敬っているとは言えません。神はアクセサリーではなく、王の王、主の主なる偉大なる神です。もっとも、究極的に傷のないささげ物は、神がすでに捧げられました。それは、イエス・キリストです。イエス・キリストの十字架の御業のゆえに私たちは救い、癒されます。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

レビ記 19:1-20:27

「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(18節)

律法学者の

「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコ12:28)

という質問に対して、イエス様は、まず、申命記6:5

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

を引用し、その次に今日の箇所、

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」

を引用します。何があっても、この二つの命令を大切にすることが、キリスト教会の根幹だと言われたのです。

教会はまず、神を愛するために存在しています。礼拝、賛美、祈りは、教会の最優先事項です。そして、教会は互いに愛し合うために存在しています。共にキリストのからだである教会をこの地に建てあげることを神は願われています。最後に教会はこの世界を愛するために存在しています。神はこの世界を愛し、ひとり子を与えられました。

レビ記 17:1-18:30

「あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。」(18:3,4)

日本には「郷に入れば郷に従え」という諺がありますが、英語にも「ローマにいる時は、ローマ人がやるようにしなさい。」というのがあります。その場所のしきたりを尊重することは大切ことです。しかし、「皆がしているから、良くないと分かっていても自分もしなければならない」というピア・プレッシャー(仲間からの圧力)は別問題です。私たちは聖書の民として、今をいかに生きるかを聖書から学ぶ必要があります。聖書の物語を自分の物語として生きていくことが大事です。

レビ記 15:1-16:34

「主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。」(16:2)

聖なる神が現れる時、罪ある人はその前で死んでしまいます。ですから大祭司であっても、自分のためにいけにえを捧げて、様々な規定にしたがって、聖所に入る必要がありました。しかし、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださった時、

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マルコ15:38)

とあります。今、イエスの十字架の御業のゆえに聖書は言います。

「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

レビ記 14:1-57

「祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。」(14:4)

この章はツァラアトがきよめられるときの教えです。感染者がきよめられるということはありえないことでした。しかしキリストは多くの感染者をいやされました。ある時は、10人の感染者に言いました。

「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」(ルカ17:14)

彼らは行く途中でいやされたと聖書は言います。祭司たちはきよめられる者のための規定が書いてあることを知っていても、使う時がくるとは思いもしなかったのではと思います。この手続きはキリストが来られていやしが行われることの預言だったと言えるかもしれません。ある先生はこの箇所の杉の木は十字架、緋色の撚り糸はキリストが流された血を象徴していると言います。

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

レビ記 13:1-59

「ある人のからだの皮膚に腫れもの、あるいはかさぶた、あるいは斑点ができて、からだの皮膚にツァラアトに冒された患部が現れたときは、彼を祭司アロンのところか、アロンの子らで祭司の一人のところに連れて来なければならない。」(13:2新改訳二〇一七)

第三版、新改訳二〇一七でツァラアトと訳された単語を、聖書協会共同訳では

「既定の病」

と訳しています。このように解説しています。

「『ツァラアト』はその語源も意味も明らかではない。『ツァラアト』は祭儀的な汚れという観点から人や物について書かれている。人について用いられている場合には、何らかの皮膚の疾患を指すが、病理学的にはいかなる病気であったか明瞭ではない。」

はっきり分かっていないものの、罪の象徴として聖書には取り扱われています。キリストは彼らを汚れていると宣言するためではなく、彼らに触れ、彼らを癒すために来られました。

レビ記 11:1-12:8

「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。」(11:2)

食物規定は、イスラエルの民が、他の民とは区別されていることを示すものでした。もちろん、学者たちが指摘してきたように、バクテリア、寄生虫、ウィルス、毒素などの問題から彼らを守る役割もあったと思います。イエス・キリストは旧約聖書を成就されました。ですから、聖書は言います。

「イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。」(マルコ7:19)

イエス・キリストが成し遂げられたことを無視して食物規定に縛られないように、聖書はさらにこう記しています。

「食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」(Ⅰテモテ4:3-5)

レビ記 9:1-10:20

「さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。」(10:1,2)

聖なることに携わる時は、聖なる畏れをもつ必要があります。どんなに教会の敷居を低くしたとしても、聖なることに対する畏れを忘れてサークルのようになってしまうならば、神はそのような教会を祝福されることはありません。そのように異なった火を捧げるような働き人を、神は裁かれずにおられることはありません。神は恵み深いお方ですが、同時に聖なるお方です。私たちはそのことをしっかりと受け止めて、聖なる畏れをもって神に仕える必要があります。
今日は主の日。聖なる畏れをもって、共に主に礼拝を捧げましょう!

レビ記 7:11-8:36

「和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ、そのうちの少しでも朝まで残しておいてはならない。」(7:15)

感謝を表す和解のいけにえとしてささげた動物の肉は、その日のうちに食べるように規定されています。いけにえとして神に捧げるのですが、その一部は神殿で働く祭司たちのものになりました。その他は捧げた人とその家族と友人がいただきました。神に捧げるのですが、そのことを通して自分だけでなく自分の家族や友人までもが祝福をいただくことができると言う霊的な原則をここに見ることができます。私たちは主の日(日曜日)ごとに礼拝を神に捧げます。神に感謝を捧げることを通して、自分だけでなく、家族や友人までもがその霊的な祝福に預かることができるという世界があることを心に留めたいと思います。

レビ記 5:14-7:10

「祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。」(6:14)

ちいろば先生こと榎本師は、

「祭壇の火を燃え続けさせるために、祭司は朝ごとにたきぎが積み重ねられなければならなかったように、私たちの信仰の火が常に燃え続けるためには、私たちも朝ごとに霊のたきぎなる聖書をわが内なる祭壇にうずたかく積み上げねばならない。」

と言います。救いは神の一方的な恵みの世界ですが、私たちは日々、神との関係を築くために聖書を読み、祈る習慣を身につける必要があります。聖書も読まず、祈ることもせず、信仰の火が消えかかってしまっていることを、神のせいにするわけにはいきません。もちろん、日々の生活の中で神を優先させるためには、様々な戦いがあります。神の恵みを軽んじることがありませんように。