2ペテロ 3:1-18

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。」(3:9,10)

「主の日は盗人のように」とは、その日は、思いがけない時にやってくるということです。つまり、私たちはサッカーで言うロスタイムに生きています。いつ、終了の笛が吹かれてもおかしくない時代に生きているのです。神だけがいつ終了の笛を吹くか、決めることができます。イエス様が誕生されてから、二〇〇〇年を経た今も、まだ、笛が吹かれていない理由は、神のあわれみです。ひとりでも滅びることを望まない神は、すべての人が悔い改めることができるように、忍耐されているのです。しかし、その日は必ず来ます。

2ペテロ 2:1-22

「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」(2:7,8)

私たちは、この世に生きていますが、この世に染まる必要はありません。道徳的な堕落が叫ばれるこの世の中で敬虔に生きることを選ぶことは、時には悩まされ、心を痛めるものです。しかし聖書はこの世界に終わりがあることを明確に伝えています。そして、この世界が終わる前に、大患難時代と呼ばれる時が来ることを伝えています。キリストを信じる者は、ロトが救い出されたように、その大患難時代から救い出されます。その日は遠くありません。世界情勢を考えると、確実に、その日に向かっていることを私たちは感じます。だからこそ、堅く節操を保ちキリストを待ち続ける姿勢が大切です。

2ペテロ 1:1-21

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(1:20-21)

聖書は、自分勝手に解釈することを禁じています。自分の好きなように解釈することは認められていません。なぜなら、聖書は神のことばであり、

「聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったもの」(21節新改訳二〇一七)

だからです。文脈を無視して、自分の思いを読み込み、聖書を利用しようとする偽教師に気をつける必要があります。ペテロは偽教師というのは、

「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込んで、自分たちを買い取ってくださった主まで否定しようとします。」(2:1新改訳二〇一七)

と言います。

1ペテロ 5:1-14

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(5:7)

サタンはあなたが一人ぼっちだと信じようとさせます。誰も理解してくれないし、誰も気にもとめていないと信じさせたいのです。しかし、神はあなたのことを理解しています。神はあなたのことを心配しています。あなたを気にかけておられます。どんなに失敗を繰り返しても、どんな問題を抱えていても、神はあなたを見放さず、見捨てません。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」(8,9節新改訳二〇一七)

私たちは否定的な思いに対抗しなければなりません。神はあなたを愛しておられます。

1ペテロ 4:1-19

「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」(4:7)

聖書が書かれた時代よりも、私たちは終わりに近い時代に生きています。ですから、私たちはますます「分別を持ち、身を慎んで祈り」(LB)に励む姿勢が求められています。祈りのために、「分別をもつこと」と「身を慎むこと」が求められていることは興味深いと思います。特に「身を慎む」と訳された単語は、「正気でいる、しらふでいる、節制している」という意味があります。私たちの周りには、祈りを妨げるたくさんの誘惑があります。祈りの時間を確保するよりも、他の何かに時間を奪われてはいないでしょうか?イエス様の再臨がいつあってもおかしくない今、私たちは真剣に考える必要があります。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(8節)
今日は主の日。神の国と神の義を第一にして、共に主に礼拝を捧げましょう!

1ペテロ 3:1-22

「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(3:9)

やられたらやりかえす、それが普通の感情だと思います。しかし、聖書の生き方は違います。私たちは祝福を与えるようにと命じられています。なぜなら、私たちは

「祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

私たちの存在が、神の御国をこの地に現わすものとなるためには、祝福を祈る者となる必要があります。聖書は言います。

「いのちを愛し、幸いせな日々を見ようと願う者は、舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する。」(10‐12節新改訳二〇一七)

私たちは、日々、聖霊の助けを祈り求める必要があります。

1ペテロ 2:4-25

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(4:9)

神が私たちを闇の中から光に召し出されたのは、私たちが神の御業を宣べ伝えるためです。イエス様はご自身を

「世の光」(ヨハネ8:12)

だと言われました。そして、キリストのからだである教会を

「世界の光」(マタイ5:14)

と呼ばれました。教会は、暗闇の中で生きる人たちが、キリストへの道を見出すための光となる必要があります。一人でも多くの人の道を照らす存在となる必要があります。教会の輝きは、あくまでもかしらであるキリストの輝きです。それは私たちのただ中におられるキリストの栄光の臨在です。教会はイエス・キリストの御名を高く掲げるところです。イエス・キリストがまことの世の光です。

1ペテロ 1:1-2:3

「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」(2:3)

二〇一八年もあともう少しで過ぎ去ろうとしています。今年の栄シャロームの年間聖句がちょうどこの箇所でした。主がいつくしみ深い方であることを味わっているならば、主のみことばを慕い求め、成長していく。N・T・ライトという学者がこう言っています。

「クリスチャン生活の中心の一つは、主が恵み深いことを味わうことである。」

「いつくしみ深い」と訳された単語は、「良い、親切な、やさしい、なさけ深い、慈愛深い、思いやりある、恵み深い、」という意味です。つまり、キリスト教の神、聖書の神は、良い、親切な、やさしい、なさけ深い、慈愛深い、思いやりある、恵み深い神であるということです。キリスト者として大事なことの一つは、日々の生活の中で、神を、良い、親切な、やさしい、なさけ深い、慈愛深い、思いやりある、恵み深いお方として、体験することです。

ヤコブ 5:1-20

「そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(5:18)

17節に

「エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。」(新改訳二〇一七)

とあるように、この箇所の背景は列王記第一のエリヤの話です。

「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」」(18:42,43)

つまり、「再び祈ると」という時も、予兆が見えるまでエリヤは熱心に祈り続けたということです。私たちは祈っても何も起こらないとすぐあきらめてしまう傾向はないでしょうか。エリヤも私たちと同じ人。私たちもあきらめずに熱心に祈り続けましょう。

ヤコブ 4:1-17

「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(4:10)

自分があたかも神のように振る舞うことが、すべての問題の根源であるというのが、この章のメッセージです。わがまま、気ままにやりたいがゆえに、戦いや争いは起こると言うのです。ですから、まず、神の前にへりくだることが大事だと言います。神が良い時に、引き上げてくださるから、自分で自分を引き上げてはいけないと言うのです。引き上げるのは神の役割で、私たちの役割は、へりくだることだと言うのです。膝を屈めた人だけが、立ち上がることができます。神を神として認めることが大切です。神は言われます。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(4:6新改訳二〇一七)