使徒6:1-7:19

「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(四節)

教会は人々が期待するような完全な場所ではありません。互いの弱さ、欠けを補い合うことに意味がある集まりです。教会は互いに愛し合い、赦し合い、補い合うことによって建て上げられていくようになっています。教会が誕生してすぐ信徒の中に対立が生まれました。使徒(教職者)たちは、聖霊に満ちた評判の良い信徒リーダーたちにこの問題を委ねて、自分たちは祈りとみことばの奉仕に専心することにしました。もし、使徒たちが問題に振り回されていたら、本質である「祈りとみことば」はなおざりになった可能性があります。謙遜に考えれば、一人で何でもできないことは明らかです。私たちは謙遜になって、助けられ、助けつつ前進する必要があります。

今日は主の日。共に集まり、主に礼拝を捧げましょう!

使徒 5:12-42

「しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」彼らは彼に説得され、」(5:39)

間違った正義感ほど恐ろしいものはありません。当時の宗教指導者たちは、使徒たちを迫害することが正しいことだと疑わなかったために迫害しました。それに対してガマリエルの発言は冷静です。

「もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」

私たちも時として、冷静にガマリエルのことばを噛みしめる必要があります。自分が正しいと思って行動していることが、神に敵対する行為かもしれないという冷静さを持つ必要があります。主は言われます。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ43:19)

使徒 4:23-5:11

「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。」(4:24)

初代教会の特徴の一つは祈りです。彼らはお金もコネも知恵もありませんでした。彼らは問題にどう対処しようかと話し合いを重ねたのではなく、心を一つにして祈りました。ここに初代教会の力がありました。四方八方ふさがれているように見えても、天は開いています。天地万物を造られた神は今も生きておられ、私たちの祈りに耳を傾け、私たちの小さな祈りを用いて、大いなる御業を行われます。問題は祈るためにあります。私たちは自分の知恵を過大評価せずに、謙遜になって神を求め、祈る必要があります。

「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(31節)

心を一つにして、神に向かい、声を上げるなら、聖霊に満たされます。

使徒 4:1-22

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(12節)

グローバル化の影響もあり、私たちは他宗教との共存を真剣に考えなければならない時代に生きています。信教の自由は国家として保障され、互いに尊重される必要があります。それは受動的にも保障されるべきですが、能動的にも保障される必要があります。私たちは自分たちの信仰を公にすることも保障される必要があります。他宗教を信じる人たちを尊重しつつも、私たちはイエス・キリスト以外には救いはないことを公に告白し続ける必要があります。イエス・キリストを信じなければ人は救われないということは聖書が語る真理であり、本質だからです。LBはこう訳しています。「この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。」

使徒 3:1-26

「神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」(26節)

ウィザリングトンという学者がこんなことを言っています。

「イエスはありのままのあなたを愛しているが、そのままで受け入れてはいない。イエスはあなたを変えたい。」

もし、私たちがこの世の価値観のままに生きているならば、必ずふるいにかけられる時がきます。私たちが神の国の価値観に立ち返るようにされます。聖書は言います。

「愛する皆さん。この地上では、あなたがたは単なる旅人であり、一時の滞在者にすぎないのですから、あなたがたのたましいに戦いをいどむ、この世の快楽から遠ざかりなさい。」(Ⅰペテロ2:11LB)

神がまず、神の御子、イエス・キリストを遣わしてくださいました。神の国の価値観に生きることを選択できますように。」

使徒 1:23-2:21

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」(2:1)

「五旬節」が原文のギリシア語でペンテコステになります。ペンテコステの特徴は、「皆が同じ場所に集まっていた」(新改訳二〇一七)。二〇世紀初頭にアメリカ、ロサンジェルスのアズサ・ストリートで起きた出来事もまさにこれでした。黒人も白人もアジア人も、男性も女性も皆が同じ場所に集まり、聖霊に満たされる体験をしました。今も、世界各地でリバイバルと呼ばれる現象が起きる時はいつも、教団教派の壁を越え、民族主義の壁も越え、キリストにあって同じ場所に集まって、神様の素晴らしい御業を体験しています。「大事なことはキリストの御名がこの日本で崇められることである」と六〇年ほど前にオランダの神学者は日本の教会に訴えました。私たちもその日を夢見て、本質は一致、本質以外は寛容、すべてのことは愛をもって協力し合っていくことができますように。

使徒 1:1-22

「そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていた・・・」(15節)

聖霊が臨んで初代教会が誕生する直前、百二十名ほどの人が一緒に集まって祈っていました。教会はそこからはじまりました。私たちの教会では、この箇所から百二十名礼拝を祈り求めています。百二十名ほどの人たちが礼拝に集まり、共に祈り、賛美し、礼拝を捧げていく中で、神様が必ず素晴らしいことをなされると信じます。集まることに意味があることは次のイエス様の言葉からも明らかです。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19,20)

今日は主の日です。共に集まり、主に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 21:1-25

「ペテロは彼を見て、イエスに言った。『主よ。この人はどうですか。』イエスはペテロに言われた。『わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。』」(21,22節)

私たちはすぐ周りと比較してしまう傾向があります。ペテロもそうでした。彼はイエスから、彼の人生に迫害が待ち受けていることを告げられた時、「ヨハネはどうなのですか?」と尋ねました。イエスの答えは、「ヨハネにはヨハネの使命があるのだから、あなたはヨハネと自分を比べるのではなく、わたしにただ従ってきなさい」ということでした。これは信仰生活においてとても大事な姿勢です。「あの人がこうするから、私もこうしよう」、「あの人がこうしないから、私もしない」というのは、イエスが望まれている信仰姿勢ではありません。神との一対一の関係を築くことを求められています。

ヨハネ 20:10-31

「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。」(22節)

キリストの復活は「新しい神の週」が始まったことを証しています。

「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(23節)

という意味は、今までとはまったく異なった生き方のことです。今までの「やられたらやり返す」というような古い生き方ではなく、「愛と和解、癒しと希望」をもたらす新しい生き方のことです。イエスはこの新しい世界に生きるためには、聖霊が必要であることをよく知っていました。それで、弟子たちに息を吹きかけて、

「聖霊を受けなさい。」

と言われました。イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた神の国に生きていくために、聖霊の力が必要です。それで初代教会から伝わる祈りは「聖霊様、来てください」です。今、聖霊に満たされるように祈りましょう。

ヨハネ 19:28-20:9

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(19:30)

「完了した。」

という単語は、

「完済した」

という意味です。請求書に書く

「支払済み」

という単語です。請求書は、すでに処理されました。支払いは終わりました。イエスの十字架の御業は完璧でした。「完了した」というのはまた、

「完成を告げられた」

という意味もあります。創世記の2章で、神が天地万物を創造された後、このように記されています。

「それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。」(創世記2:2)

イエス・キリストの十字架の死は、神がなさっていた新しい創造のわざの完成でもありました。ですから、使徒パウロもこのように言います。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者(新しい創造)です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)