詩篇 49:1-12

「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(49:8)

「たましいの贖いの代価」は自分の生命に関わる償いのことです。

聖書は、すべての人は罪を犯したと言います。

聖書の言う罪とは、刑法の話ではなく、神に背を向けることです。

人は、最初の人であるアダムとエバが、神に背を向け、神が食べてはならないと命じられた善悪の木の実を食べてから、ずっと、神に背を向け続けています。

誰一人、神に「罪の代価」を支払うことはできません。

自分で支払うこともできないですし、他の人のために支払うこともできません。

たましいを贖うための代金は、あまりに高く、あきらめるしかないと言います。

だから、神はそのひとり子イエス・キリストをこの世界に与えられました。

イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかり、死なれることによって、「たましいの贖いの代価」を支払ってくださいました。

それは、「たましいの贖いの代価」を支払うために十分でした。

詩篇 48:1-14

「神よ。私たちはあなたの宮の中であなたの恵みを思いました。」(48:9)

「恵み」と訳された単語(へセド)は、神の信実の愛、変わることのない神の愛を意味します。

それで、パッション訳はこのように訳しています。

「主よ、あなたの宮の中であなたを礼拝するとき、私たちは、私たちに対するあなたの優しさと、あなたの尽きることのない愛を何度も何度も思い起こします。」

何度も何度も思い起こすことを、黙想(meditation)と言います。

もちろん、何を思い出すかが大事です。

不安なことばかり思い出していたら、それは思い煩いになってしまいます。

毎週、私たちは、教会で、共に神に礼拝を捧げるとき、神の信実の愛を思い起こすことが大事です。

神の信実の愛は、イエス様の十字架に表されています。

神の信実の愛を何度も何度も思い起こすために、教会があること、主日礼拝の時間があることを、忘れてはいけないと思います。

詩篇 47:1-9

「神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。」(47:8)

「統べ治めておられる」という単語は、「王となられた」と訳すことができます。

イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえり、天に昇り、栄光の神の御座に着座されました。

だから今、

神は国々の王となられた。神は聖なる王座に着いておられる。」(聖書協会共同訳)

イエス様は、国々の王となられたから、この良き知らせ、この福音を、全世界に出て行って知らせるように弟子たちに命じられました。

イエス様の統治を、この世界に知らしめるようにと言われました。

それは、つまり、今も暗闇の支配に振り回されている、罪ゆえに壊れたこの世界に、神の統治を知らせる必要があるということです。

すべての国々の民が、私たちの王、神にほめ歌を歌うように。

詩篇 46:1-11

「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」(46:10)

日々のルーティンから解放され、日々の義務から解放され、神を神として知りなさいという意味があります。

「やめよ」、「静まれ」と訳される原文のヘブル語は、「そのままに!」「ありのままに!」という、人間的な画策や模索をやめて、ただ神である主に委ねることを意味します。

いわゆる、武装放棄を迫る言葉です。

そういう意味で、日々の生活の中で、自分のよろいかぶとを脱いで、静まって、神が神であることを認識する時間を持つことは大切なことです。

わたしこそ神であることを知れ。

とありますように、ここでは「わたし」が強調されています。

つまり、私たちは「自分が、自分が」という自己中心的な自分を手放して、自分の心の王座から降りて、主なる神を認めて、自分の心の王座に、主イエス・キリストを歓迎する必要があるということです。

詩篇 45:1-17

「あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたの唇からは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。」(45:2)

花婿である王を讃えています。

原文は「麗しい」という単語を重ねているので、パッション訳は「Beautiful! Beautiful!」(美しい、美しい)と訳しています。

ただし、これは外見の話ではないようです。

あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。

とあるように、外見の話ではなく、くちびるから溢れ出る言葉に注目されているからです。

「優しさ」は「恵み」と訳される単語が使用されています。

新約聖書にこういう箇所があります。

人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて」(ルカ4:22)

イエス様のくちびるからは、恵みの言葉が溢れ出ていたと言います。

王の麗しさは、そのくちびるから溢れる恵みの言葉にあると言うように、イエス様の麗しさは、その口から溢れ出る恵みの言葉にありました。

詩篇 44:9-26

「立ち上がって私たちをお助けください。御恵みのゆえに私たちを贖い出してください。」(44:26)

「御恵み」は「信実の愛」と訳せる単語(へセド)が使用されています。

それで、LBでは、

変わらない愛で助けてください。

と訳しています。

メッセージ訳では、興味深いことに、こう訳しています。

そんなに私たちを愛しているなら助けてください!

人は、何を土台にして、神に助けを求めることができるのでしょうか。

自分の功績でしょうか。

自分の中に何か神に助けを求めることができる何かがあるのでしょうか。

聖書が根拠にしているのは、

そんなに私たちを愛しているなら助けてください!

とあるように、神の愛です。

ある学者は

あなたのコミットメントのゆえに」と訳しています。

コミットメントは、日本語に訳すのが難しい単語の一つですが、誠実を尽くすとか、献身するという意味があります。

神のコミットメント、それは、イエス様の十字架に見ることができます。

詩篇 44:1-8

「自分の剣によって彼らは地を得たのではなく自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手あなたの御腕あなたの御顔の光がそうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」(44:3)

ここでは、過去における神の御業が述べられています。

イスラエルという国が誕生できたのも、神の御手の業であることを詩人は明言します。

神の臨在が、彼らが存在できている本当の理由であると自覚しているのです。

詩人は、救いはただ神にあると、神に望みを置いてきたと告白します。

武器などあてにはなりません。そんなものが救ってくれると考えるのは、大きな間違いです。あなただけが、憎しみのかたまりとなっている敵に打ち勝つことができるのです。私はいつも神を誇りました。神にはどんなに感謝しても、感謝しきれません。」(6-8節LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 43:1-5

「どうかあなたの光とまことを送りそれらが私を導くようにしてください。あなたの聖なる山あなたの住まいへとそれらが私を連れて行きますように。」(43:3)

あなたの光とまことを送り、私を導いてください

という表現は、比喩的表現です。

それで、メッセージ訳では、

灯りと羅針盤をください、地図をください、

と訳しています。

ポイントは、

聖なる山への道を見つけること」、

すなわち、神の「臨在の場所」への道を見つけるための助けを求めることです。

私たちは神の臨在の場所への道を見つけるために助けが必要です。

それでは神の臨在の場所への道を見つけるための神の光、灯火とは、何のことでしょうか。

それは、「聖書」のことです。

聖書は言います。

あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」(詩篇119:105)

聖書の御言葉の光なくして、神の臨在の場所を見出すことはできません。

詩篇 42:1-11

「私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。」(42:2)

詩人が求めているのは、今も生きて働いている神の現実です。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」(1節)

とあるように、鹿が慕い求める水は、古く、よどんだ水ではありません。

新鮮で、流れる川の水のイメージです。

新鮮な神の御言葉を、今日、聖書から受け取る必要があります。

なぜなら、私たちのたましいがあえぎ求める神は、今も、生きて働かれている神だからです。

過去存在していたというだけでなく、今も存在しておられ、後に来られるお方です。

キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じです。

私たちは生ける神、キリストを信じています。

イエス・キリストは今生きておられますから、私たちは、生ける神の現実を体験することができます。

私たちのたましいは、生ける神の現実を慕い求めます。

ヨエル 3:14-21

「判決の谷には、群衆また群衆。主の日が判決の谷に近づくからだ。」(3:14)

聖書は、人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっていると言います。

人は皆、神の御座の前に立つ時が来ます。

聖書は言います。

「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」(黙20:12)

その裁きの日、審判の日がまだ来ていないのは、神がひとりも滅びることを望まないからだと言います。

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」(2ぺテ3:9,10)