2コリント 9:6-15

「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(9:10)

このみことばが意味することは、収穫は自分が蒔く種よりも多いということです。しかし、蒔くことをしなければ、収穫を体験することはできません。信仰の世界と言うのは、そのようなものです。理解できたら信じるというのではなく、信じていくときに理解することができます。ここでは、献金という文脈で語られています。献金の恵みは、大変な状況の中でも信仰をもってささげていくということを実践しなければ体験できない世界です。厳しい状況の中でも捧げて行くときに、まさに、「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる」という世界を体験します。よく言われることですが、一個のりんごの中にある種の数は数えられても、その種から生み出されていくりんごの数を数えることはできません。

2コリント 8:16-9:5

「それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考えているからです。」(8:21)

献金は神に捧げられるものですが、その取り扱いをするのは人です。ですから、パウロは

「主の御前だけでなく、人々の前で正しくあるように心がけているのです。」(新改訳二〇一七)

と言います。教会の運営は、まず何よりも神の御前に正しくなければなりません。ただ、神のみこころを現すことができないような人間中心の運営になるならば、それはもう教会とは呼べません。しかし、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大であることを心がける必要があります。どう取り扱うかに関しては常に説明責任が伴います。いずれにせよ、献金は自発的なものであり、嫌々するものではありません。ですから、パウロはこう勧めます。

「惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらうためです。」(9:5新改訳二〇一七)

※ 神様のあわれみと特別な助けが、北海道にいらっしゃる皆様のうえにありますように、

2コリント 8:1-15

「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。」(1節)

この箇所でパウロが言う「神の恵み」とは「献金」のことです。ここでは特に「マケドニヤの諸教会に」とありますが、ピリピの教会のことです。

「多くの試練や困難のただ中にあったマケドニヤの諸教会が、ひどく貧しいにもかかわらず喜びに満ち、その結果、あふれるほど惜しみなく、他の人々に施すようになりました。」(2節LB)

パウロはピリピ書で彼らのことを言っています。

「贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。」(ピリピ4:17LB)

経済的に困窮している人であっても献金を勧める理由は豊かな報いがあるからです。献金は人や組織ではなく、神に捧げるものだからです。ですから献金は私たちに与えられた神の恵みの世界です。

2コリント 7:2-16

「マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。」(5,6節)

使徒パウロは、私たちとは違う屈強なスーパー・クリスチャンのように考えてしまいます。しかし、彼も、私たちと何も変わらない普通の人でした。不安を感じ、恐れを感じ、落ち込みました。しかし、

「その時、神様は意気消沈しているものを励まし、テトスの帰還によって元気づけてくださいました。」(LB)

とあります。聖書の神は、意気消沈しているものを励ますお方です。興味深いことは、「テトスの帰還によって」とあるように、神は人々を励ますために私たちを用いられるお方です。今日、神は私たちの存在を通して励まそうとしている人がおられます。今日、祈りつつ、誰かに励ましのことばを伝えてみませんか。

2コリント 6:3-7:1

「私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、」(3節)

パウロは自分が伝道の妨げ、周りの人々のつまずきにならないように気をつけてきたと言います。LBではこのように訳しています。

「私たちは自分たちの行動が、だれかをつまずかせたり、主との出会いを妨げたりすることがないように、また、主を非難する口実に用いられないように気をつけています。」

私たちの行動が、だれかが主と出会うことを妨げるのならば、これほど悲しいことはありません。パウロのように細心の注意を払っていても誰かをつまずかせてしまうこともあります。しかし、パウロのような姿勢をもつことは大切なことだと思います。イエス様は、子供たちがイエス様のもとに来るのを妨げようとした弟子たちの行動を怒ったとあります。イエス様との出会いを妨げるならばイエス様は必ず怒られます。多くの方が、主との出会いを体験できますように。

2コリント 5:11-6:2

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(5:17)

「その人は新しく造られた者です」という意味は、「新しい創造」に属する存在となったということです。新改訳二〇一七では別訳として、

「そこには新しい創造があります」

と訳しています。つまり、キリストが再び来られて、すべてが新しくされるその日を待たずして、キリストの中にある人は、すでにその「新しい創造」とされているということです。ですから、後半部分を新改訳二〇一七では別訳としてこう訳しています。

「新しいものが到来しました。」

キリストを信じる者はこのことを再認識する必要があります。私たちは「新しい創造」に在る者であるということを。「新しい創造」に在る者として、聖霊に導かれて、神の栄光をこの地に輝かせることができますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2コリント 5:1-10

「肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(5:9,10)

すべての人は、やがて、キリストのさばきの座に立ちます。しかし、キリストを信じる者たちにとってのさばきの座というのは、賞を受けるさばきの座です。ここで使われている「さばき」という言葉は、オリンピック・ゲームの審判に使われる言葉です。この世で、私たちが良い行いをして、人々から称賛されたら、私たちの報酬はこの地上ですでに受け取ったことになります。しかし、主のために奉仕しても、誰からも評価してもらえないことがあります。それらの報いを、このキリストのさばきの座で受けるのです。「よくやった」と言われるその日まで、主に喜ばれることをしていこうではないでしょうか!

2コリント 4:1-18

「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」(4:1,2)

使徒パウロは、神のみことばを教えることに対して聖なる畏れをもっていました。異端や新興宗教は、平気で神のことばを曲げて話しますが、それは大変恐ろしいことです。LBでは、

「書かれてもいないことを、聖書の教えであるかのように思わせることも、決してしません。」

とあります。神のみことばに対する畏れは、神のみことばを教える立場にある人には必須条件です。聖書はいろいろと解釈できるという人がいますが、そんなことはありません。聖書は、自分が言いたいことにつじつまを合わせるために存在しているわけではありません。聖書には聖書の文脈があります。私たちは聖書に読み込むのではなく、読み取ります。

2コリント 3:7-18

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(3:16-18)

神が私たちに一番求められていることは、主に向くことです。問題やこの世の楽しみに私たちが向いているならば、神が与えようとしている自由を体験することは難しいからです。聖書は言います。

「私たちの指導者であり、教師であるイエス様から、目を離さないようにしなさい。」(ヘブル12:2LB)

ペテロが、イエス様から目を離した瞬間、沈んでいってしまったように、イエス様から目を離してしまうと、私たちは沈んでしまいます。しかし、イエス様の方に向くのならば、聖霊なる神様が必ず私たちの人生を栄光から栄光へ変えて下さいます。

2コリント 2:12-3:6

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(3:6)

旧約聖書には古い契約と新しい契約が出てきます。古い契約は、出エジプトの時、モーセを通して与えられた契約です。イスラエルの人々は、その契約を守ることができませんでした。その結果、イスラエルの人々はバビロンへ捕囚されます。しかし、神は新しい契約を約束しました。それは、聖霊を与え、聖霊に従って生きる生き方です。この新しい契約のために、イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられました。今、誰でも、イエス・キリストを信じる者は、この新しい契約の中に生きます。聖霊によって神の戒めに生きるのです。