マタイ4:23-5:20

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(5:9)

神の子どもは平和をつくる使命があります。平和は単に争いがない状態ということではありません。何も見ず、聞かず、言わずがキリスト者のあるべき姿ではありません。使徒パウロはこう言っています。

「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(2コリント5:18)

私たちは和解の務めが与えられています。人はまず何よりも創造主である神との和解が必要です。神の側は、イエス・キリストの十字架のゆえに「その罪を数え立てずに」(LB)和解のメッセージを委ねてくださいました。私たちは伝える使命があります。

マタイ4:1-22

「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」」(17節)

 

イエス・キリストの宣教、その中心は「天の御国」です。「天」は神の領域です。神の支配が完全に実行されている領域です。イエス・キリストの宣教とは、まさに、この神の領域がこの地に臨んでいるということです。「悔い改め」と訳された単語は、「考え方を変える」という意味です。ですから、イエス様の宣教というのは、聖書が預言してきたように神ご自身が王としてこの世界を治められるから、人間中心の考え方から神中心の考え方に変えなさいと言うことです。

 

※ 本日のSSCの婦人会はお休みです。

マタイ2:19-3:17

「ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。」(3章15節)

イエス・キリストが水のバプテスマ(洗礼)を受けられたことに関して、学者たちは様々な憶測をします。なぜなら、バプテスマのヨハネは「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けています」(11節)と言いましたが、イエス様は罪がないのに悔い改める必要があったのかと。しかし、イエス様が水のバプテスマを受けられたのはご自分の罪のためではなく、「すべての義を成就(完成)するため」(直訳)でした。

マタイ2:1-18

「そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、」(14節)

イエス様の時代に、エジプトのアレキサンドリアにユダヤ人共同体が存在していたことは周知の事実です。ディアスポラと呼ばれる離散ユダヤ人共同体とイエス様の接点をほのめかしているようにも感じられます。もっとも15節の「ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。」というマタイの解説は出エジプトの物語が背後にあることをほのめかしています。イエス・キリストがこの地上で成し遂げられたことは出エジプトであると。私たちを解放するためであると。

マタイ1:1-25

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」(1節)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。心機一転、今年は、新約聖書を共に旅していきたいと思います。新約聖書を読み始める上での最初の難関は系図です。もっともこのイエス様の系図は普通ではありません。女性や外国人や道徳的に問題がある人が含まれています。この系図に、神の愛の大きさを垣間見ることができます。また、イエス・キリストはアブラハムとダビデの子孫であることは重要なポイントです。なぜなら、神はアブラハムとその子孫と契約を結びました。(創世記十五章)聖書が約束したメシア(キリスト)はダビデの子孫とあるからです。(イザヤ書十一章)

ヘブル書 11章

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(6節)

信仰の至上の型は答えを得る前に神を感謝することです。もしかしたら、今、危機的な状況に直面しているかもしれません。あなたが求めている奇跡のために、あなたはいつ神に感謝しますか?神がすでにしてくださったことを感謝することは、お礼です。しかし、先取りして神に感謝することは、信仰です。神がこれからどうなされていくか分からなくても、神がなされていることを感謝しましょう。勝利を見る前に、勝利の歌を歌いましょう。今日は今年最後の主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

2歴代誌 20章

「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。(中略)この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。(中略)恐れてはならない。気落ちしてはならない。」(15-17節)

時として、何かをするよりしないことにはより勇気が必要です。恐れは言います。「そこに突っ立っていないで、何かしなさい!」しかし、神は言われます。「何もしてはいけない。そこにただ立ちなさい。リラックスしなさい。わたしがする。」神の御手に私たちの人生を委ねた時、私たちの戦いは神の戦いになりました。もし、私たちがすべての戦いを戦わなければならないと考えているなら、疲れはててしまいます。神の前に立ちはだかるのをやめましょう。私たちは神ではありません。

2歴代誌 20章

「この者たちは、イスラエルがエジプトの地を出て来たとき、イスラエルがそこに侵入することをあなたがお許しにならなかった者たちです。事実、イスラエルは彼らから離れ去り、これを根絶やしにすることはしませんでした。ご覧ください。彼らが私たちにしようとしていることを。彼らは、あなたが私たちに得させてくださったあなたの所有地から私たちを追い払おうとして来ました。私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」」(10-12節)

神はいつも何をするか、いつするかをご存じです。神は肩をすぼめることも、頭を抱えることもありません。私たちはどうしたらいいか分からない時、分かっていると思う時も、いつも、祈りによって最善を知る神にもっていきましょう。

2歴代誌 20章

「私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜わったのではありませんか。彼らはそこに住み、あなたのため、御名のために、そこに聖所を建てて言いました。『もし、剣、さばき、疫病、ききんなどのわざわいが私たちに襲うようなことがあれば、私たちはこの宮の前、すなわち、あなたの御前に立って――あなたの御名はこの宮にあるからです。――私たちの苦難の中から、あなたに呼ばわります。そのときには、あなたは聞いてお救いくださいます。』」(7-9節)

問題があなたをおじけづけさせないようにしましょう。むしろ、祈りに導かれるようにしましょう。祈りはいつも、あなたの最初の選択であって、最後の頼みの綱ではありません。まず、神がどんなに偉大な方かを思い出すことによって始めましょう。そして、神が何をされたか、神の約束を思い出しましょう。

2歴代誌 20章

「私たちの父祖の神、主よ。あなたは天におられる神であり、また、あなたはすべての異邦の王国を支配なさる方ではありませんか。あなたの御手には力があり、勢いがあります。だれも、あなたと対抗してもちこたえうる者はありません。」(6節)

もし圧倒されているように感じているならば、神がどんなに偉大な方かを思い出しましょう。あなたの人生において神の存在を大きくするならば、問題は小さくなっていきます。恐れはいつも視点の問題です。問題を恐れるのは、神を小さく見てるからです。神が小さく見えるのは、あなたが神から離れているからです。祈りをもって神に近づきましょう。そうするならば私たちの視点は変わります。神に近づけば近づくほど、神の存在は大きくなり、問題は小さくなります。