エレミヤ書 7:30-9:16

「彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」(8:11)

LBでは、今日の箇所をこう訳しています。

「彼らは、実際には平安がないのに、すべてがうまくいくと保証する。こうして、わたしの民のひどい傷に、効き目のない薬を塗っている。」

私たちの時代の問題の一つは、まさに、手軽ないやし、効き目のない薬を塗っているということだと思います。一人一人が神に心を注いで祈り求めることよりも、手軽なレシピを提供しようとします。聖書を開いて神のみことばを待ち望むよりも、手軽な助言を与えようとしてしまいます。本当のいやし、効き目のある薬は、イエス・キリストとの直接的な関係から流れてきます。私たちが本当にすべきことは、私たちの必要に唯一答えることができるイエス・キリストを指し示すことです。

エレミヤ書 6:1-7:29

「あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。」(7:4)

神は

「偽りのことばを信頼してはならない」

と言います。当時のエルサレムの人々は神殿がエルサレムにあるから自分たちは大丈夫、安全だと思っていました。しかし、それは偽りのことばを信頼していると言います。どんなにエルサレムに神殿があっても、神を神として、神のみことばに聞き従う姿勢がなければ滅びると言います。神は言われました。

「次のことを守らなければ、ここにいることはできない。悪い思いと行いを捨て、人には公正に接し、みなしご、やもめ、外国人をだましたりしないこと。人殺しをやめること。偶像を拝んで自分を傷つけるような愚かなまねはしないこと。」(5,6節LB)
偽りのことばに振り回されないためにも、私たちはしっかりと聖書のみことばを学ぶ必要があります。

エレミヤ書 1:1-2:30

「だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、――主の御告げ。――あなたを救い出すからだ。」(1:19)

神は決して偽の口実を通して人を呼ばれることはありません。神はエレミヤに、わたしの方法に従えば、何の問題もなく簡単にやり遂げられるとは言いませんでした。逆に、戦いがあると言いました。

「彼らを怖がるな」(17節LB)

とありますが、恐れるような状況に直面することも伝えています。しかし、同時に神は約束されました。

「彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。」

なぜなら、

「わたしがあなたとともにいて、必ず救い出すからだ。」(19節LB)

神を恐れない人に神が語られることを語ることは勇気のいることです。エレミヤは涙の預言者と呼ばれました。涙を流して人々に神に立ち返るように勧めたからです。しかし、人々からあざけられ、迫害されました。それでも語り続けました。神が共にいて、救い出したからです。

イザヤ書60:1-62:12

「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」(60:19,20)

終わりの日、やがてもたらされる新しい天と新しい地の預言がここにあります。ヨハネの黙示録にも、こういう箇所があります。

「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(21:23)

神の栄光に輝く都、それが、永遠の天の都です。それは、キリストの永遠の支配を意味し、私たちの嘆きや悲しみが終わる日を意味しています。ですから、キリストの支配を歓迎できない人にとっては、天国は苦痛だと思います。だから、キリストの支配を歓迎する人だけが天国に行けるのだと思います。

イザヤ書 57:14-59:21

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(57:15)

協会共同訳ではこう訳しています。「打ち砕かれた人、低められた人と共にいて、低められた人の霊を生き返らせ、打ち砕かれた人の心を生き返らせる。」自分でへりくだることもありますが、へりくだらされることがあります。自己卑下したり、自分をかわいそうに思うことはへりくだることではありません。自分は神が必要な存在であると認め、神と共に生きることがへりくだることです。自ら、神を神、人は人と認められれば良いのですが、時として、低くされることを通して、打ち砕かれることを通して体験する時があります。しかし、神は低められた人の霊を生き返らせ、打ち砕かれた人の心を生き返らせるお方です。

イザヤ書 55:1-57:13

「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(55:1)

聖書の神は「出て来い」と私たちを招かれる神です。イエス・キリストも言いました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

どんな問題であったとしても、キリストのもとに来るなら、キリストが解放を与え、安らぎを与えてくださいます。さらにこうおっしゃられました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

キリストのもとに行くならば、解放だけでなく、生ける水の川、聖霊に満たされ、私たちの内から溢れるようになり、自分の周りの人までも祝福するようになります。

イザヤ書 51:17-54:17

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」(52:7)

聖書が言う「良い知らせ」(福音)とは、『あなたの神が王となる。』と告げ知らせることです。四つの福音書すべてに、イエス・キリストが十字架に架かられた時、その罪状書きに

「ユダヤ人の王」

と書いてあったことが記録されています。神はキリストが十字架に架かられることによって王となられました。復活を通して死のとげは切り取られました。よみがえられたイエス様は言われました。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)

福音とは、十字架の御業を宣べ伝えることです。
今日は、主の日。共に主に礼拝を捧げ、福音を宣べ伝えましょう。

イザヤ書 47:1-49:7

「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。」(47:13)

この箇所はバビロン帝国に対する裁きの預言です。バビロン帝国は占星術が発展していた国でした。バビロンの人々は占星術者、呪術者たちに伺いを立てるのですが、それぞれが違う助言をして、混乱していました。そして、結局のところ、

「自分さえ救えないのだから、とても頼りにはならない。」(14節LB)

ということが起きていたのです。占いは聖書が禁じていることであり、私たちは気をつける必要があります。しかし、占いではなくても、助言する者が多すぎると、私たちは混乱してしまいます。他者に助言を求めることは決して悪いことではありませんが、まず、まことの神に祈り求め、みことばに耳を傾ける必要があります。

イザヤ書 44:24-46:13

「わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。」(45:2)

イエス・キリストは弟子たちに

「さあ、ついて来なさい」(マルコ1:11LB)

と言われました。ついていくためには、キリストの後ろを歩く必要があります。信仰生活は、キリストの後ろを歩くようなものです。キリストが前に進んでいるならば、険しい地は平らに、青銅のとびらは打ち砕かれます。さらにこの次の3節にはこんな約束があります。

「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」

キリストの後ろを歩いていくならば、隠された財宝、だれも知らない富が与えられるという世界もあると言います。私たちはキリストの後ろを歩いているでしょうか?それとも、キリストを見失っているでしょうか?

イザヤ書 43:1-44:23

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(43:4)

私たちを造られた神は、誰がなんと言おうとも、私たち一人一人は高価で尊い存在だと言います。残念ながらこの世界は、私たちの存在を肯定するよりも、否定することの方が多いと思います。悪魔というのは、私たちの存在、人格を否定することによって攻撃します。しかし、たとえ「誰も望んでいない」と言われたとしても、「神が望まれたから」私たちは今、存在しています。神にとって、私たち一人一人はかけがえのない存在なのです。神は私たち一人一人に将来と希望を与える目的をもっておられます。悪魔はその目的に私たちが生きないように、私たちの存在を否定しようとします。ですから、揺らぐことのない神の御言葉をしっかりと握りしめる必要があります。生産性、効率性、有用性といった価値観にしばられず、神が言うから人は生きているだけで尊いと受け入れるべきです。