エゼキエル書 43:1-44:31

「今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。」(43:9)

神殿が意味することは

「彼らの中に住む」

という神の臨在であり、それが、イスラエルの人々が失ったものでした。彼らが神の臨在を失った原因は、神以外のものを神としたことでした。神がどのようなお方か、私たちは聖書を通してのみ明確に知ることができます。ですから、もし、聖書のみことばよりも権威をもつものがあれば、キリストの教会であっても、神の臨在を失う可能性があると言っても過言ではありません。聖書のみことばよりも権威をもつものは、取り除かなければなりません。私たちは、何よりも神の臨在を優先させなければなりません。
「主よ、聖書のみことばを感謝します。
聖書こそ、私たちの信仰と生活の唯一の規範です。

主が、私たちの中に、永遠に住まわれますように。」

エゼキエル 41:1-42:20

「彼はまた、本堂に面して長さ二十キュビト、幅二十キュビトを測って、私に「これが至聖所だ。」と言った。」(41:4)

エゼキエルは、幻によって再建すべきエルサレムの神殿の設計図をいただきました。それは、漠然としたものではなく、非常に詳しく、壮大なものでした。ところがエゼキエルはこの時、捕囚されて、バビロンにいたのです。彼らの状況はそれどころではありません。しかし、神殿は、私たちの可能性の上に建てるものではなく、神の設計図に従って建てるものです。私たちが今建て上げていくべき神の神殿は、教会です。Ⅰコリント3:16には「あなたがたは神の神殿」とあります。教会は私たちの可能性の上に建てるものではありません。私たちは、自分たちの状態がどのようであっても、神の設計図に従って、建て上げていく必要があります。私たちが願うような、私たちが考えるような教会像ではなく、神の設計図に従って建てられなければなりません。

エゼキエル 40:1-49

「それから、彼が東向きの門に行き、その階段を上って、門の敷居を測ると、その幅は一さおで、もう一つの門の敷居も幅は一さおであった。」(40:6)

ユダヤ人たちは、エルサレムに「上って」行くと言います。彼らが神殿につくと、「階段を上って」門の敷居に行きました。まさに彼らは階段を上っていくことによって、神を礼拝することが、引き上げられる体験であることを意識していたのです。神は私たちを引き上げられるお方です。この世界には私たちを傷つけ、貶めるものが多々あります。しかし、神は私たちを礼拝に招き、私たちに語りかけます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

神に礼拝を捧げる中で、賛美と祈りを捧げる中で、私たちの霊も信仰も引き上げられていきます。

エゼキエル 38:1-39:29

「多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる」(38:8)

38章は終わりの日の預言だと考えられています。カルバリ―チャペルのチャック・スミス師は、この38章に出てくる国々は、イスラム圏の国々で、イラン、エチオピア、リビア、そして旧ソ連の南部のイスラム圏の国々を指していると言います。これらの国がやがて結束してイスラエルに攻め入ると言います。9節の「地をおおう雲」は、戦闘機の一団ではないかと言われます。もちろんエゼキエルが戦闘機を知る由もありませんから、彼は「地をおおう雲」としか表現できなかったのだと言います。今の世界情勢は、私たちに対する警告であるということを心に留めたいと思います。

エゼキエル 36:1-37:28

「わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。」(37:24)

イスラエルの国は、ソロモン王の支配の後、北王国と南王国に分断されます。しかし、新しい契約では一つとなると言います。

「わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。」(22節)

彼らを治める「全体の王」、「ひとりの王」、「わたしのしもべダビデ」こそ、ユダヤ人が待ち望んでいた「ダビデの子」、「メシヤ」です。使徒パウロは二つの国を北王国と南王国の枠を超えて理解します。

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

エゼキエル 33:21-35:15

「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。―神である主の御告げ。―」(34:31)

「あなたがたは人間であり、私はあなたがたの神である」(協会共同訳)と主は言われます。神は神であり、人間は人間であることを認識することはとても重要です。神が羊飼いなら、私たちに欠けることは何もありません。しかし、羊飼いが人間であるならば、話は別です。この章ではイスラエルの指導者たちに対する裁きが語られています。指導者を裁くのは、人間ではなく、神であることが分かります。もっとも、神は全能ですが人間は違います。神は遍在されますが人間は違います。人間は神のように対応することはできません。神に期待すべきことを、人間に期待するなら、がっかりしてしまうことは明らかです。私たちが期待すべき、まことの羊飼いはイエス・キリストであることを心に留めたいと思います。

エゼキエル書 32:1-33:20

「あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」(33:9)

伝えられたことにどう反応するかは、その人次第ですが、伝える責任は、伝える側にあります。使徒パウロは「返さなければならない負債を負っています。」と言います。私たちは自分たちの力で人を救うことはできません。しかし、伝えることはできます。「ただ伝えればいい」という姿勢は正しくありません。相手に伝わるように、工夫して伝える努力はすべきです。教会は、あらゆる努力をして何とか福音を一人でも多くの人に伝えようと努めます。直接伝える方法もあれば、橋渡しをするような前伝道もあります。いずれにせよ、「人々にイエス・キリストを指し示すことによって、神に栄光を帰す」ことが私たちの教会の目的です。今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。

エゼキエル書 30:1-31:18

「その日は近い。主の日は近い。」(30:3)

この箇所の「その日」とは、エジプトが裁かれる日を指しています。メッセージ訳ではこう訳しています。

「時間切れ。神の審判の大いなる日は近い。」

神がすべてを正される「裁きの日」は来ます。「主の日が近い」という意識をもって生きることは、聖書が私たちに語っている生き方です。聖書は、この世界の終わりにイエス・キリストが再び帰って来られることを約束しています。その日がいつ訪れるか誰も知りません。しかし、いつキリストが帰って来られてもいいように、良い緊張の中で生きるためにも、いつの時代も「主の日が近い」ことを意識する必要があります。「主の日が近い」というのは、希望をもって生きることでもあります。この世界に神が介入される「主の日が近い」と意識するならば、希望があります。「その日は近い。主の日は近い。」と、信仰的に、前向き、肯定的に生きていくことができますように。

エゼキエル 28:1-29:21

「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」(28:2)

イエス様は

「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

と言いましたが、ツロの問題は富でした。莫大な財産のゆえに自分を神のようにしてしまったのです。しかし、人は神になることはできません。アダムとエバの罪は神になろうと思い上がったことでした。サタンも神になろうと思い上がり落とされました。ここではツロの王に対する預言が、サタンに対する預言に変わります。

「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」(17節)

人が高ぶり自分を神のようにみなすことは、サタンに騙されている状態です。

エゼキエル 26:1-27:36

「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった。』と言ってあざけった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう。」(26:2,3)

ツロは地中海沿岸にある商業都市でした。エルサレムの崩壊を喜ぶツロに対して、神は裁きを宣告します。彼らも紀元前332年、アレキサンダー大王によって滅ぼされます。ここでは、人の不幸を喜ぶ姿勢に対して、神が警鐘を鳴らしているとも言えると思います。たとえそれが自分の競争相手が自滅したということであったとしても喜ぶべきではありません。箴言にもこうあります。

「敵が苦しむのを喜んではいけません。敵が失敗したからといって、うれしがってはいけません。そんなことをしたら主が心を痛め、彼らを罰するのをやめるかもしれません。」(24:17、18LB)