エステル記 6:1-8:17

「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。」(6:1)

エステルが一日ずらした結果、王はその夜、眠れなくて、記録の書、年代記を読ませました。その時、ユダヤ人モルデカイの記録を聞きました。王は自分が何もしていなかったことに気づかされます。そして、モルデカイを殺害しようと企んできたハマンに、モルデカイに逆に栄誉を与えるという大ドンデン返しが起こります。これらが一夜にして起こったというところに私たちは心を留める必要があると思います。私たちは不安の中で、眠れない夜を過ごす時も、

「眠っている間に、このように備えて下さる」(詩篇127:2)

神に目を向ける必要があると思います。一夜にして状況を変えることができた神は今も生きておられます。ですから詩人は歌っています。

「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)

エステル記 2:19-5:14

「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(4:14)

神は、私たちひとりひとりに目的をもっておられます。私たちが経験してきたこと、また、今与えられている環境も、すべて神の御手の中にあります。しかし、神は同時に私たちに自由意志を与えられました。神は私たちに目的をもっておられますが、それに応答するかしないかは、私たちの側に任されています。ですから、日々、祈りましょう。
「主よ、あなたは目的をもって私を造られました。ですから、私はその目的に生きたいのです。今日、私が何をなすべきかを教えてください。私はあなたのみこころに従います。」
主が与えられた機会(チャンス)に応答していくことができますように。

エステル記 1:1-2:18

「そこで王は法令に詳しい、知恵のある者たちに相談した。」(1:13)

エステル記のテーマの一つは「神の摂理」です。全ては神のみ手の中で良しとされます。しかし、学ぶべきこともあります。アハシュエロス王が宴会を催し、王妃のワシュティも婦人たちのために宴会を催しました。酒で心が陽気になったアハシュエロス王は、ワシュティの気持ちも考えずに、彼女の容姿の美しさを自慢するために、酒席にくるように命じます。ワシュティが断ると、王は怒り、そして「知恵のある者たち」と相談したとあります。彼らは、妻が夫を尊敬するようにワシュティを追放するように進言しました。しかし、権力で尊敬を勝ち取ることができるはずがありません。アハシュエロス王は結局、自分がしたことを後悔します。私たちは判断に悩む時、「知恵のある者たち」に相談するよりも先に、神に祈ることができます。

ゼカリヤ書 12:1-14:21

「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」(13:1)

メソジスト運動の創始者、ジョン・ウェスレーは、この開かれた泉こそ、「キリストの血潮」だと言います。聖歌の中にこういう賛美があります。

「罪の汚れを洗いきよむるは、イエス・キリストの血潮のほかなし。

イエスの血潮、ほむべきかな。我を洗い、雪のごとくせり」(聖歌447番)

イエス・キリストは、私たちの罪と汚れをきよめるために、あのカルバリの丘の上で、その血潮を流されました。ウェスレーはまた、「エルサレムの住民」とは、福音が語られた人々だと言います。この罪と汚れをきよめる泉、キリストの血潮は、すべての人のために十分なだけ存在しています。一人でも多くの方が、キリストの血潮のきよめを体験できるように、私たちは、キリストの十字架の福音を、一人でも多くの人に伝える必要があります。

ゼカリヤ書 9:1-11:17

「望みを持つ捕われ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。」(9:12)

キリストを信じる者は、キリストが再び来られる(再臨)という希望によって捕えられています。逃れられることはありません。いや、逃れたくありません。私たちが心から願っていることだからです。キリストが再び来られる時、苦しみも、悲しみも、戦いも終わり、すべては正されます。キリストが平和と義をもって治められます。この希望に捕らわれている人に、主は招かれていています。

「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。」(箴言18:10)

主の御名の中に帰る人に、神は倍返しを約束されています。たとえ今、損をしているように感じても、祝福が倍になって返ってくるというのです。私たちは希望が必要です。イエス・キリストの御名の中に希望をもつことができることは、幸いです。

ゼカリヤ書 5:1-8:23

「あなたは金と銀を取って、冠を作り、それをエホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ、彼にこう言え。『万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。」(6:11‐13)

ゼルバベルと共に指導的役割を担ったのが大祭司ヨシュアです。この箇所はメシア預言と呼ばれるもので、やがて大祭司ヨシュアのようにメシアが現れ、神殿を建て直すという預言です。神殿とは天と地が重なり合う場所であり、実は、キリストご自身が十字架の御業によって永遠の神殿となられました。そのような意味で、今、キリストが建て直す神殿はキリストの教会です。私たちは幕屋やエルサレムに神殿を建て直すことではなく、キリストのからだを建て上げることに心を注ぎます。

今日は主の日。アドベント二週目。共に礼拝を捧げましょう。

ゼカリヤ 1:1-4:14

「すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(4:6)

バビロン捕囚からエルサレムに帰って来た時のリーダーが、ゼルバベルです。彼はエルサレムを再建しようと努力しますが、邪魔が入ります。(エズラ四、五章参照)彼は、自分の力のなさに落ち込んだと思います。しかし、神はそんな彼に、「あなたの力ではなく、聖霊によって成し遂げる」と語り、彼はそれで立ち上がります。キリスト教会のはじまりも、まさに、この世的に言えば権力も能力もない、一握りの人々からはじまりました。しかし、聖霊なる神が臨んでくださることによって、全世界へ広がっていきました。聖霊なる神の力は、今も、求める人々に注がれます。私たちもこの地上の信仰のレースを、権力によらず、能力によらず、神の霊によって走り抜くように召されています。

ハガイ1:1-2:23

「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。」(1:8)

ハガイはエズラ記5章にあるように、捕囚から帰ってきた人々に神殿の再建を成し遂げるように、励ましのメッセージを語るために遣わされた人です。捕囚地からエルサレムに帰還したユダヤ人たちは神殿再建を始めたものの、邪魔が入り中断してしまいました。それで、ハガイは主のことばを伝えます。

「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。(中略)それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。」(4‐6、9節)

神の国をまず求めましょう。

ダニエル 11:36-12:13

「この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。」(11:36)

前節まで中間時代のシリアのエピファネスのことに言及していたのに、突然、この世の終わりに登場する偽キリストの話になります。このように時間的に両方が混ざることは聖書の預言にはよく見られます。偽キリストの特徴は、

「どんな神よりも自分は偉いと主張して、まことの神さえも冒涜」(LB)

することです。そしてキリストではなく、自分を拝ませるのです。しかし、

「それも彼の時が終わるまでだ。」

と聖書は言います。神を恐れずに、自分をあたかも神のようにふるまって、なお栄えているように見えても、それは、長続きはしません。

「神の計画は揺らぐことがないから。」(LB)

と聖書は言います。神を神と認め、神の主権を認めて生きることが問われます。

ダニエル 11:2-35

「思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。」(11:35)

11章2節から35節まで、中間時代(旧約聖書と新約聖書の間)のことが預言されています。3節の「ひとりの勇敢な王」は、アレキサンダー大王のことと考えられます。彼の死後、北のセレウコス朝シリアと南のプトレマイオス朝エジプトの戦いの中にユダヤ人たちは翻弄されます。しかも、シリアのエピファネスは、31節にあるように再建された第二神殿に異教の祭壇を築き、神殿を汚します。敬虔なユダヤ人は迫害され、殉教します。詳しい内容はマカバイ記に記されていますが、マカバイ記は聖書には含まれていません。聖霊に導かれて書かれた神のみことばではないからです。ただ、マカバイ記を読むと新約聖書が律法、割礼、安息日、食物規定をどうして否定的に言及しているかが分かります。