詩篇 49:1-20

「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(49:8)

この世の人生が終わる時、イエス・キリストの十字架の贖いの御業のゆえに、神は私を受け入れてくださいます。

「たましいは余りにも高価なので、この世の富をいくら積んでも買い戻せません。」(8節LB)

しかし、キリストは私たちの身代わりとなって十字架にかかられ

「完済した!」

とおっしゃられました。ですから、キリストを信じるだけで神が受け入れてくださいます。神のひとり子という贖いの代価は、人間の努力では決して払えるものではありません。ですから、使徒ペテロも言います。

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18,19)

キリストの尊い血潮のゆえに神に受け入れていただいていることを認識し、感謝できますように。

詩篇 48:9-14

「神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。」(48:9)

私たちは日常の生活の中で、不安や恐れを思い巡らすことはよくあると思います。しかし、神の恵みを思い巡らすことはなかなかないのではないでしょうか。「神の宮」とは、神がおられる場所です。もちろん、教会を意味すると思いますが、このように教会堂に集まることが出来ない状況で、日々の祈りの場所と理解できると思います。大事なことは神の恵みを数えることです。宗教改革の指導者の一人カルヴァンは、歩く総合病院のような人だったそうです。二五種類ほどの病気をもっていて、体が痛くて夜も眠れなかったそうです。眠れないので祈るしかなく、祈るとインスピレーションをいただき、深い霊性の本を書くことができたと言います。苦痛の中にあっても、神の恵みを思い巡らす時、神の恩寵の世界が必ず開かれます。

詩篇 48:1-8

「主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。」(48:1)

聖書の神は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方です。

「どれほどことばを連ねても、たたえ尽くせません。」(LB)

この偉大なお方、

「神ご自身が、エルサレムの守りに就きます。」(3節LB)

と言います。エルサレムに住むことが幸いと言うよりも、神がエルサレムに住まわれることが幸いと言うことです。偉大な神は、住まわれる神です。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)

子なる神イエス・キリストは、私たちの間に住まわれています。そして、聖霊なる神は私たち一人一人の内に住まわれています。

「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」(ローマ8:26)

今日は主の日。共に三位一体なる神をほめたたえましょう。

箴言 10:1-10

「不義によって得た財宝は役に立たない。義のわざは人を死から救い出す。」(10:2)

十章からは「ソロモンの箴言」とありますが、テーマに沿ってと言うよりは、ランダムに箴言が収集されています。それぞれ、選択肢は明確です。

知恵か愚かさか、

善か悪か、

いのちか死か。

選ぶの私たちであり、それに伴う結果があります。

2節をLBは、こう訳しています。

「悪いことをしてもうけた金はすぐになくなります。どこまでも正しく生きることが幸福のかぎです。」

その理由は3節にあります。

「正しく生きている人を、主は飢えさせません。悪人は、せっかくもうけた金を主に取り上げられます。」(LB)

神はご覧になっておられます。ですから、たとえ今、悪人がもうけているように見えたとしても、主に信頼し、正しく生きるように心がけましょう。主は必ず祝福してくださいます。

詩篇 47:1-9

「まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。」(47:7)

イスラエルの神は全地の王です。王が意味することは、次節にあるように、

「神は国々を統べ治めておられる。」

ということです。人々は自己中心的な統治者たちに疲れ果てていました。人々の願いは、神(ヤハウェ)ご自身が統べ治めること、王となられることでした。イザヤ書にこうあります。

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。」(イザヤ52:7)

イエス・キリストが十字架にかかられた時、この預言が成就しました。神は神の御子が十字架にかかり死ぬことを通して王となりました。復活は罪と死の支配が打ち破られたことを証明しました。神を王としてほめ歌を歌うことは、神の御国をこの地に現す大切な方法です。

詩篇 46:1-11

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(46:10)

「やめよ」と訳された単語を、口語訳は「静まって」、新共同訳は「力を捨てよ」と訳しました。「戦うのをやめなさい」(TEV)と訳しているものもあります。いずれにせよ、私たちは日常を離れて、神を見上げる時間が必要です。いろいろな不安をやめる時間が必要です。日常のノイズから離れて静まる時間が必要です。一生懸命がんばっていることをストップする時間が必要です。そして、神が神であることを認める時間が必要です。自分を中心にして世界が回っているのではないことを認める時間が必要です。天地万物を造られ、支配されている神が生きていることを認める時間が必要です。

詩篇 45:10-17

「そうすれば王はあなたの美しさを慕うだろう。彼こそあなたの主。彼の前にひれ伏せ。」(45:11)

初代教会は、キリストと教会の関係を今日の詩篇に見るような花婿と花嫁の関係で理解してきました。キリストは教会を愛され、教会はキリストを主としてひれ伏します。それでは、キリストが慕う教会の美しさとは何のことでしょうか?それは自然の美しさ、外見の美しさということではないようです。

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)

と聖書は言うからです。実際、教会の歴史も、残念ながら決して美しいとは呼べないものです。それでもなおキリストが美しいと慕うのはどうしてでしょうか?それは、

「神がご自分の血をもって買い取られた」(使徒20:28)

からということもあると思います。

「栄光の望み」(コロサイ1:27)

聖霊が働かれているということもあると思います。驚くばかりの恵みであることには間違いありません。

箴言 9:13-18

「浅はかな者はみな、ここに来なさい」と。」(9:16)

9章には、

「浅はかな者はみな、ここに来なさい」

という招きが二回出てきます。

一つ目は、4節で、知恵が招きます。もう一つは、今日の箇所で、「愚かな女」(13節)が招きます。つまり、知恵と愚かさは、日々、私たちを招き、私たちは日々選択が迫られているということです。しかも、その私たちの選択がいのちか死へと私たちを導くと言います。

知恵は言います。

「浅はかさを捨てて、生きなさい。分別のある道を、まっすぐに歩みなさい」(6節)。

それに対し、愚かさは言います。

「盗んだ水は甘く、こっそり食べるパンはうまい」(17節)。

結局のところ、その生き方の違いは主を恐れるかどうかということです。ですから、聖書は言います。

「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」(10節)

詩篇 45:1-9

「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。」(45:6,7)

今日の箇所はヘブル人への手紙の中で引用されています。

「御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」」(1:8,9)

ヘブル人への手紙の著者のポイントは、子なる神、イエス・キリストの神性です。「神よ。あなたの神は」というのは面白い表現ですが、イエス・キリスも、「神」と言うことです。また、他の存在と区別するように、より多くの喜びの油が注がれたとあります。聖書の神は、三位一体なる神であり、その王座は永遠です。

詩篇 44:13-26

「だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。」(44:22)

使徒パウロは、迫害の中にある教会の現実を表現するために新約で引用します。

「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。」(ローマ8:36)

この世の権力者たちの前に、「ほふられる羊」のようになすがままの状態のようであるかもしれないと。しかし、詩人とパウロとの間には大きな違いがあります。詩人は、その苦しみの意味を理解することができず嘆きを歌にしています。しかし、パウロは言います。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(37節)

イエス・キリストは十字架によって勝利をとられました。私たちはキリストの中で、本物の勝利を体験します。今日はイースター。主は確かによみがえられました!

※ 今日はイースター、イエス・キリストの復活をお祝いする日です。YouTubeのライブ配信を通して、共にキリストの復活をお祝いしましょう。