詩篇 59:9-17

「私の力よ私はあなたを見続けます。神が私の砦だからです。」(59:9)

ダビデが逆境の中で発見したことの一つは、人生の力、力の源である主を見続けるということです。そして、朝ごとに私たちの力、神を賛美することです。私たちが逃げてよい逃げ場は、賛美を住まいとしておられる神だけです。神のもとへ身を避けるなら、ダビデと同じように歌うようになります。

「しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。神は私のとりで、私の恵みの神であられます。」(59:16,17)

詩篇 59:1‐8

「どうか目を覚ましここに来て見てください。」(59:4)

神は私たちの力、砦、苦しむ時、そこにある助けです。しかし、神を信頼することは容易な人生へのレシピではありません。逆に、いろいろな反発を体験することさえあります。この詩の作者、ダビデは脅威の中にありました。表題を見ると、「ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに。」とあります。このような状況下でダビデがまずしたことは祈ることでした。ダビデは神の救いを確信します。「私には咎がないのに」(4節)と言うように、ダビデには身に覚えがないのに、ダビデは攻撃を受けていました。私たちも、時として、身に覚えがないのに逆境を体験することがあります。ですから、ダビデのように苦難の時に主を呼び求めることが大切です。

「主よ、目を覚まして、よくごらんください。そして助けの手を差し伸べてください。」(LB)

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 58:1-11

「力ある者よ。ほんとうに、お前たちは義を語り、人の子らを公正に裁くのか」(58:1)

テレビや新聞で報道される国内外の事柄から家庭や学校など身近な所に至る出来事まで、私たちは自分の価値観で物事を判断し、裁く傾向にあると思います。多くの場合、自分は正しいと思い、正義感に燃えてジャッジをするのですが、果たしてそれは本当に正しい判断なのでしょうか。自分の育ってきた環境だけがすべてではなく、視点も様々です。私たちは何かを判断する場合、もっと謙遜になるべきではないでしょうか。私たちは神ではありませんから当然不完全であり、間違いも犯します。そんな欠けのある私たち人間が、自分の判断、ジャッジは絶対に正しい!と思うことに関して聖書は警告を与えているのです。58篇の最後はこう締めくくられています。

「まことに、さばく神が、地におられる。」

公平に裁くことが出来るのは神だけです。この神を恐れましょう。

箴言 11:19-28

「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」(10:25)

リビングバイブルでは今日の箇所をこう訳しています。

「物惜しみしない人が裕福になります。人を潤すことで、自分も潤うのです。」

寛大に生きることは、聖書的な生き方です。聖書に、こういう箇所もあります。

「気前よくささげる人は、大きな祝福を受ける。」(Ⅱコリント9:6現代訳)

与える人は与えられるというのが聖書が教える霊的な法則です。もちろん、献金の話だけではなく、笑顔や祝福などを惜しみなく人々に与えている人が、大きな祝福を受けます。なぜなら、「気前よく与える」というのは、神のご性質でもあるからです。神は、物惜しみすることなく、私たち一人一人に今日も寛大に与え、私たちを潤してくださっているからです。

「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)

詩篇 57:7-11

「神よ私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。私のたましいよ目を覚ませ。琴よ竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。主よ私は国々の民の間であなたに感謝しもろもろの国民の間であなたをほめ歌います。」(57:7-9)

神は礼拝者を捜しておられます。イエス様も言われました。

「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」(ヨハネ4:23新改訳二〇一七)

それは、ダビデのように、気分が良くても悪くても、心を揺るがすことなく、主をほめたたえ、礼拝する者です。個人的にだけでなく、国々の間でとあるように、公共の場でも堂々と主の御名をあがめることです。なぜなら、

「あなたの恵みは大きく天にまで及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。」(10節新改訳二〇一七)

詩篇 57:1-6

「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。」(57:2)

誰に呼び求めるかはとても大事なことです。私たちが呼び求めるお方は、いと高き方、神です。力ある偉大なる創造主です。「光あれ」と言われ、光を創造されたお方です。このお方は、キリストを信じる者に関わってくださり、すべてを成し遂げてくださいます。聖書は言います。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(ピリピ1:6新共同訳)

神は私たちに始められた善い業を成し遂げるために必要なすべても備えてくださっています。ですから、この神を信頼して、

「わたしをあわれんでください」

と呼び求め、

「滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避け」(1節新改訳二〇一七)

ていきましょう。

「私は、天におられる神、奇跡を行ってくださる神に叫びます。」(LB)

詩篇 56:1-13

「神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」(56:4)

「みことばを、ほめたたえます。」というのは、聖書が礼拝の対象という意味ではなく、聖書のみことば、特に神の約束のゆえに、神をほめたたえるという意味です。私たちの信仰の土台は、聖書のみことば、神の約束です。感情ではなく、聖書のみことばが何と言っているかを優先させます。「肉なる者」という日本語は一般的ではありませんが、人のはかなさを象徴しています。預言者イザヤは、こう表現しています。

「すべての人(肉なる者)は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。」(イザヤ40:6,7)

ダビデは大変な状況、大変な問題に直面してきましたが、この視点をもっていたので、乗り越えることができたことを心に留めたいと思います。

箴言 11:9-18

「直ぐな人の祝福によって、町は高く上げられ、悪しき者の口によって、破壊される。」(11:11)

私たちの人生は、自分の家族や自分のコミュニティだけでなく、自分の町、自分の国にも影響を与えます。11節をリビングバイブルではこう訳しています。

「神を信じる市民が良い影響を与えているうちは町は栄え、悪者たちによって道徳が腐敗すると、町はたちまち衰えます。」

具体的に箴言が教えることは、

「人を中傷して回る者」(12節)は愚かであり、「賢い人は不必要なことは話しません」(LB)と言います。もちろん、それは今話題のSNSも含まれると思いますが、

「信頼できる人はうわさ話を口にしません。」(13節LB)

いずれにせよ、

「人に親切にすると心が豊かになり、思いやりのないことをすると気持ちがすさみます。」(17節LB)

「悪いことをしてもうけた金はすぐになくなり、正しいことをして得た報酬はいつまでも残ります。」(18節LB)

詩篇 55:12-23

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(55:22)

この詩は、ダビデが、彼の息子、アブシャロムに反乱を起こされたときに書いたと言われます。彼の側近であったアヒトフェルが、この時、彼に敵対しました。ダビデにとって、息子だけでなく、側近の反乱は、精神的にもショックだったと思われます。しかし、そんな状況の中で、彼は立ち止まり、言います。

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。」

神に重荷をおゆだねする時、平安が来ます。ですから、預言者イザヤもこう言います。

「主を信頼し、いつも主のことに思いをはせる者を、主は何の心配もないように守ってくださいます。どんなときでも、神である主に信頼しなさい。あなたの永遠の力は主のうちにあるからです。」(イザヤ26:3,4LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 55:1-11

「主よ彼らの舌を混乱させ分裂させてください。私はこの都の中に暴虐と争いを見ています。」(55:9)

残念ながら、私たちが生きる都市の中に、悪の力が働いているのを見ます。詩人は言います。

「ああ私に鳩のように翼があったなら。飛び去って休むことができたなら。ああどこか遠くへ逃れ去り荒野の中に宿りたい。嵐と疾風を避けて私の逃れ場に急ぎたい。」(55:6-8)

どこか安全な場所に逃避したいという誘惑は理解できるのではないでしょうか。しかし、私たちは、逃げずに、悪に立ち向かわなければなりません。聖書は言います。

「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)

ダビデは、主の介入を祈り求めています。祈りは善をもって悪に打ち勝つために、不可欠です。祈りの手を挙げ続けましょう!