詩篇 75:1-10

「高く上げることは東からでもなく西からでもなく荒野からでもない。まことに神こそさばき主。ある者を低くしある者を高く上げられる。」(75:6,7)

神こそさばき主。神が公正に裁かれ、統べ治めます。神がある人を立たせ、神がある人をひざまずかせます。ですから、聖書は言います。

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:6)

神は言われます。

「わたしは思い上がった者に、謙遜になるよう警告した。悪者には、傲慢な態度を捨て、強情な生き方もやめよと言った。」(4,5節LB)

私たちはへりくだり、神が必要であることを認める必要があります。神がすべてを正される時が来ます。

詩篇 74:18-23

「どうか、契約に目を留めてください。」(74:20)

旧約聖書と新約聖書の約は、契約の約です。聖書を理解する上で大事なのは、この神との契約です。アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約、そして、聖餐式における杯は、キリストの血による新しい契約を表しています。杯を飲むたびに私たちは、キリストを信じる者は、キリストが流された血潮のゆえにすべての罪が赦されたという契約を覚えます。この契約内容を明確に表したのがヨハネ3:16です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

私たちは、この神との契約の中に生きています。キリストを信じ、水のバプテスマを受けると言うことは、この神との契約書にサインをするということです。

箴言 15:1-10

「穏やかな舌はいのちの木。舌のねじれは霊の破れ。」(15:4)

「穏やかな舌」は、直訳すると「癒しの舌」。

「癒しをもたらす舌は、いのちの木」

という意味だと思われます。私たちのことばは人々の人生を変えます。ですから、メッセージ訳はこのように訳しています。

「やさしいことばは、いやしと助け。痛烈なことばは、痛みと傷。」

ネットにおける誹謗中傷が問題となっていますが、私たちはいのちを与える言葉を使うことを気にかけるように聖書は言います。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)

イエス・キリストは、このように警告します。

「わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。」(マタイ12:36)

詩篇 74:10-17

「神は昔から私の王、この地において救いのみわざを行う方。」(74:12)

詩人は魂の暗闇を体験する中で、神の力を思い起こします。今、見えないからと言って、すべてを否定する必要はありません。知らないことのゆえに、知っていることまで手放す必要はありません。神こそ天地を創造された方であり、統べ治めておられるお方です。神は、今、救いの御業をこの地で行われています。神は、そのひとり子、イエス・キリストを与え、救いの御業を完成されました。まず何よりも、キリストを信じる者は、皆、罪から救われ、永遠のいのちを持ちます。神の宣教、「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」(エペソ一・十)は、今、キリスト者を用いて続けられています。だから、パウロは祈ります。「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ一・十九)

詩篇 74:1-9

「あなたの足を永遠の廃墟に踏み入れてください。敵は聖所であらゆる害を加えています。」(74:3)

私たちは魂の闇と呼ばれる体験をする時があります。詩人のように、

「ああ神よ。なぜいつまでも私たちをお見捨てになるのですか。なぜ、あなたを信じて従う私たちに、こんなにも激しい怒りを向けるのですか。」(1節LB)

と叫ばずにはいられない時があります。まさに、

「こんな状態がいつまで続くのか、だれも知りません。」(9節LB)

このような詩篇が聖書に含まれている理由は、まず、そのような苦悩を体験しているのは「あなただけではない」ということを知るためです。残念ながら、

「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(2テモテ3:12)

また、この詩は、どうやって祈ればよいか分からない、私たちが自分の祈りのことばとして祈るためでもあります。神は私たちの祈りを聴かれるお方です。

詩篇 73:15-28

「しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。私は神である主を私の避け所としあなたのすべてのみわざを語り告げます。」(73:28)

神と共に生きる幸いを、他に比べることはできません。ウェスレーが言うように、神が共におられることは、すべてに勝ります。(The Best of all is God is with us.)神の臨在、神の導き、神の力、神の約束、「あなたは私を諭して導き後には栄光のうちに受け入れてくださいます。」(24節)を知るならば、他の人たちにもこの幸いな知らせを語り告げないではいられません。しかし、詩人は前半部分で、そのことを見失っていました。神に従う生活が苦しみと災いに見えていました。詩人の視点を変えることが出来たのは、神の聖所に入ったからです。(17節)私たちは神の聖所に入る必要があります。今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げることを通して、神の聖所に入りましょう!

箴言 14:25-35

「力ある拠り所は主を恐れることにあり、それは主の子らの避け所となる」。(14:26)

メッセージ訳では、

「神を恐れることが信頼を築き上げ、あなたの子どもたちのために世界を平和とする」

と訳しています。この世界が必要としていることは健全な神への恐れです。神への恐れの欠如がこの世を不安定にし、混乱をもたらします。自分を創られた神が生きておられ、やがて、神の御前に立つ時が来ることを知っているならば、人は自分の行動に責任を持つようになります。27節にはこう記されています。

「主を恐れることはいのちの泉です。その水を飲めば生きる力がわいてきます。」(LB)

神に対する健全な恐れが、私たちに力を与えます。神を恐れることは、いわゆる恐怖を抱くこととは違います。なぜなら、聖書の神は愛なる神であり、私たちを愛し、私たちの罪のために御子イエス・キリストを与えてくださいました。私たちが求められているのはこの神を愛することです。

詩篇 73:1-14

「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。」(73:1)

「いつくしみ深い」と訳された言葉は、英語のGOODにあたる「良い」(トーヴ)という言葉です。詩人が語る土台的真理は「神は良いお方」。私たちの人生には、理解できないことがたくさんあります。この世界が崩れ落ちていくように見えても、混乱し、いっぱいいっぱいになってしまったとしても、この土台的真理‐「神は良いお方」‐を心に留める必要があります。しかし、苦しみの中で、私たちはまったく逆に考えてしまいます。「もし、神様が力あるお方ならば、どうして、こんなことが私に起るのか?」と。詩人も同じような悩みを体験しながら、神の臨在の中で目が開かれます。「やがて私の体は衰え、気力も弱ります。しかし神は、いつまでも変わらず、心の支えとなってくださいます。」(26節LB)神が、万事を益としてくださることをいつも覚えることができますように。

詩篇 72:1-20

「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。」(72:11)

すべての王がひれ伏し、仕えると預言された王こそ、メシヤ、キリストです。聖書は言います。

「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:10,11)

ですから、この「彼」こそ、イエス様のことです。

「彼は、身寄りのない者や貧しい者を保護します。弱っている者や困っている者をあわれんで、助けの手を差し伸べるのです。彼は、虐待されたり痛めつけられたりしている人を、黙って見過ごしにはできません。彼にとって、このような者たちのいのちはとても大切なのです。」(12‐14節LB)

まさに、福音書に出てくるイエス様の姿がここにあります。イエス・キリストこそ旧約が預言してきた王、メシヤです。

詩篇 71:19-24

「私もまた琴であなたをほめたたえます。わが神よあなたの真実を。私は竪琴に合わせてあなたにほめ歌を歌います。イスラエルの聖なる方よ。」(71:22)

賛美のテーマ、私たちが歌う賛美の主題は、「神の真実」です。「真実」と訳された単語は「アーメン」と同じ単語です。詩人は、神の真実をこのように歌っています。

「あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられましたが私を再び生き返らせ地の深みから再び引き上げてくださいます。」(20節)

神は決して私たちを見捨てることも、見放すこともありません。私たちを引き上げてくださる真実なお方です。詩人は、楽器を奏でて神の真実を歌い、告げ知らせると言います。

「ああ、イスラエルの聖なる神よ。私は楽器を奏でてほめ歌を歌い、あなたがどれほど約束に忠実なお方であるかを、告げ知らせます。」(LB)