エペソ 3章

「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」(3:19)

「人知をはるかに超えた」ことを「知る」ことは、矛盾した表現です。

「キリストの愛」を知ることは人間の認知機能を超えていて、祈らなければ開かれない世界です。

前節に「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり」とありますように、信仰の共同体、教会で共に礼拝を捧げなければ開かれない世界です。

「キリストの愛」を知ることによって人は本来あるべき姿、神のイメージに生きることができます。

ですから、「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」(20節)に、共に祈りましょう。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

エペソ 2章

「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(2:21,22)

21節も22節も「この方(=キリスト)の中で」という言葉で始まっています。

そして、「主の中で聖なる宮になる」と「聖霊の中で神の御住まいとなる」ということばで、それぞれ閉じられます。

神殿も神の御住まいも、天と地が交わる場所ということです。

それは「キリストの中」、イエス・キリストとの関係の中にあると言います。

教会、キリストを信じる者たちが集っているその場所は、天と地が交わる場所です。

共に集まり、共に礼拝を神に捧げるこの場所、この中で、人はイエス様にお会いすることができます。

賛美は天に属するものです。

私たちが賛美に満ち溢れる時、天はこの地に来ているのです。

エペソ 1章

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(1:23)

キリストは「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」です。

どんなものでも、どんなやり方でも、満たし続けるお方です。

人は満たされる必要があります。

イエス・キリストだけが、「すべてのことを、あらゆる方法で」満たしてくださるお方です。

教会は、このキリストが「満ちておられるところ」です。

アルゼンチンのリバイバリスト、フレーソン先生はこんなことを言っています。

私のミニストリーでは、神のみことばを説教することを通して、祈りと賛美によって、会衆を神の臨在の中に、神と顔と顔を合わせられるようにしている。これが起こるとき、私たちは神のきよさに直面し、目に見える形で砕かれる。私たちは神の臨在によって震える。神の前に誰もそのままの状態ではいられない。器が壊れるとき、油注ぎが流れ、神の油注ぎが私たちの人生を変える。

ガラテヤ 6章

「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」(6:5)

「重荷」と訳された単語は、兵士が行進の時にかつぐ「リュックサック」などに用いられる単語です。

人にはおのおの負うべき「リュックサック」があると言います。

ともすると、自分だけがこの「リュックサック」を背負っている気がしてしまうことがあると思います。

しかし、心配しなくても、一人一人に神がちょうど良い重さの「リュックサック」を与えていると聖書は言います。

しかし、現実を見ると、ひとりでは負いきれないような重荷があるように見えます。

このような大荷物、重くて負担になる「重荷」を5節とは違う単語で2節で次のように使用しています。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。

互いに祈り合い、励まし合い、具体的に助け合うことを通して、キリストの律法を成就するために、そのような重荷があることを心に留める必要があります。

ガラテヤ 5章

「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」(5:25)

聖書は言います。

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(22,23節)

どうやって人は「御霊の実」を結ぶことができるのでしょうか。

パウロの答えはこれです。

もし、聖霊によって生きているならば、聖霊によって歩もう。」(25節・私訳)

ライト教授はこのように言います。

人格はゆっくりと形づくられるもの。準備ができていない木に、どんなに実をつけるように強いてもダメなように、誰かの人格を強いることはできない。その人は、何度も何度も、素晴らしい人格が形づくられるための道徳的な筋肉や技術を発達させることを選択しなければならない。

「聖霊の実は一夜にしてならず」と言うことです。

時間がかかります。

ですから、これは聖霊によると言うことを理解する必要があります。

ガラテヤ 4章

「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(4:19)

ある聖書学者はこう言います。

「パウロは、ガラテヤの人たちの中にキリストが見える形で生きているのを見たいと願っている。–彼らの生き様の中にキリストの似姿が現されることを見ることを」。

私たちの生き様の中に「キリストの似姿」が現されているでしょうか。

聖書は言います。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)

つまり、大事なことはキリストから目を離さず、聖霊に働いていただくことです。

キリストから目をそらすならば、「あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。」(20節)となってしまいます。

ガラテヤ 3章

「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(3:28)

哲学者のソクラテスは、毎日、このように言っていました。

「感謝すべき幸運、三つの祝福がある。一つは、獣ではなく、人間として生まれたこと。次は、女性ではなく、男性に生まれたこと。三つ目は、野蛮人ではなく、ギリシア人であること。」

使徒パウロがそのことを知っていた可能性はありますが、人が、イエス・キリストとの交わりの中に入ってくるならば、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由人であろうと、男性であろうと女性であろうと、差別はもう存在しないと言います。

違いがなくなるということではありません。

イエス・キリストの十字架のもと、すべての人は同じ地面に立っているということです。

キリストの中で、人種(race)、社会的地位(social status)、性別(gender)の優劣はありません。

ガラテヤ 2章

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(2:20)

イエス・キリストの十字架の御業が私たちが生きる原動力です。

私たちが神のために生きるのは、キリストと共に十字架につけられているからです。

キリストが私たちのために死んでくださり、聖霊によって私たちのうちに住んでくださるので、私たちは信仰による歩みをするのです。

ゴードン・フィーという聖書学者はこう言っています。

「キリストが私のうちに生きておられる」という意味は、キリストの霊、聖霊なる神様がキリストを信じる者のうちに生きておられるということです。

キリストを心の中に歓迎する時、人は「三位一体なる神」を体験します。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ガラテヤ 1章

「しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、」(1:15,16)

「御子を私のうちに啓示することを良しとされた」という意味は、神はご自身をイエスとしてパウロに啓示されたということです。

あたかも神がパウロにこう言っているようです。

パウロ、

あなたはずっと勘違いしてきた。

あなたは十分

知性的な神学を持っていた。

あなたはとても熱心だった。

しかし、

大事なことはわたしにあなたを愛させること、

祝福させること。

あなたの役割は

わたしを信じ、

祈り、

従うこと。

わたしは

イエスにあって

わたし自身をあなたに示した。

聖書の神は、父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神です。

神は、キリストを通してご自身を私たちに現されます。

2コリント 13章

「私たちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になること、このことも私たちは祈っています。」(13:9)

パウロの祈り、それは第一に、彼らが「どんな悪も行うことのないように」(7節)ということでした。

パウロは自分の評判よりもコリントの教会の人たちのことが気がかりでした。

9節をLBではこう訳しています。

自分たちは弱く軽蔑されても、あなたがたがほんとうに強くなってくれれば嬉しいのです。最大の願いと祈りは、あなたがたが霊的に整えられた者になってくれることです。

パウロの祈り、それは彼らが「霊的に整えられた者」「完全な者」となることでした。

訳された単語は「成熟」や「回復」を意味します。

つまり、パウロの祈りは人々の霊的な回復、教会のリバイバルでした。
パウロは言います。

私たちは、真理に逆らっては何もすることができませんが、真理のためならできます。」(8節)

不可能は挑戦となり可能となります!