ヘブル 7章

「このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。」(7:1)

「メルキ」は「王」、「ゼデク」は「義」で「義の王」。

「サレム」は「平和」で「平和の王」。

このメルキゼデクの話は、創世記13、14章に出てきます。

アブラハムは敵と戦い、勝利した後、帰る途中にメルキゼデクに遭遇します。

この時、アブラハムは十分の一を捧げます。

メルキゼデクは謎の多い人物ですが、王であると同時にいと高き神の祭司でした。

イエス様はダビデの子孫であり、王の家系、ユダ族の出身でした。

祭司家系のレビ族の出身ではありません。

しかし、このメルキゼデクのように、王であり祭司であると言います。

イエス様は永遠に存在されるので、永遠に王であり祭司です。

「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(7:25)

ヘブル 6章

「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。」(6:10)

神は私たちがこの地上でどのように生きているかに関心を持っておられます。

聖書ははっきりと言います。

あなたが困っているクリスチャンを助けることで示したすべての愛を、そしてあなたがそれを続けていることを、神はよく知っています。」(10節MSG)

そして、私たちの愛の行為は私たちを堕落から守り、報いを受けることができるようにすると言います。

私たちは、あなたがたがこの世にあるかぎり人を愛し続けて、十分な報いを受けることができるようにと願っています。最後まで希望を持ち続けるなら、信仰生活が怠惰に流れたり、無関心に陥ったりすることはありません。」(4-6節LB)

ヘブル 5章

「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、」(5:8,9)

聖書の言う神は三位一体(父、御子(キリスト)、聖霊)の神です。

キリストは子なる神であるにも関わらず、私たちと同じように、苦しみの中で従順を学ばれました。

それは、キリストを信じ、キリストに従う全ての人の永遠の救いの源となるためでした。

キリストの「十字架の死にまで従われ」(ピリピ2:8)たキリストの「信実」が人を救います。

救いは神の恵み、贈り物です。

人は無償で受け取ることができますが、それはイエス様がすべてを支払ってくださったからです。

キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(7節)

ヘブル 4章

「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(4:14-16)

私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」(1節)

とあるように救いを軽く扱ってはいけません。

みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。」(2節)

とありますが、神の御言葉は信仰をもって受けとめる必要があります。

私たちの慰めは、私たちと同じように人となられ試練にあわれたイエス様は私たちの弱さをよく知っておられるということです。

ですから、恵みの御座に近づきましょう。

ヘブル 3章

「ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(3:1)

「使徒」が意味することは、神によって遣わされたお方ということです。

「大祭司」が意味することは、神との永遠の関係を可能としたお方ということです。

このお方を「考えなさい」と聖書は言います。

この箇所でイエス様の特徴としてあげられているのは「忠実」です。

人はイエス・キリストの「十字架の死にまで従われ」(ピリピ2:8)た、その「忠実」(信実)さのゆえに救われます。

しかし、残念ながら、「心が悪に染まって信仰をなくし、生ける神から離れる」(12節LB)人がいます。

だから聖書は言います。

「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。」(13節)

神に心を閉ざすことなく、イエス様のことを考えることができるように、励まし合うことができますように。

ヘブル 2章

「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(2:14,15)

ヘブル書2章には明確に救いとは何かが記されています。

どうしてイエス・キリストは人となり、死ななければならなかったか。

天使たちを助け出すためではなく、人を救うためだったからこそ、すべての点で私たちと同じようにならなければならなかったと聖書は言います。

自ら試練と非常な苦しみを体験された主イエスだからこそ、試練にあえいでいる私たちを助けることがおできになるのです。」(18節LB)

こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。」(1節)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヘブル 1章

「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。」(1:1,2)

旧約聖書を読むと、神が様々な方法で語られたことがわかります。

主であるわたしは変わることがない。」(マラキ3:6)

とありますから、今も同じように神が語られることもあります。

しかし、終わりの時代である今、究極的な啓示は、神の御子、イエス・キリストによって与えられました。

ですから、私たちは今、イエス・キリストによって解釈する必要があります。

御子は、神を完全に反映し、神の性質を刻印しています。御子は、ご自分が言うことですべてをまとめられます。力強い言葉です!」(3節MSG)

ピレモン

「私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。」(6節)

パウロの切なる祈り、それは、パウロとピレモンが共有している福音、「信仰の 交わり」が、意味のあるものであって欲 しいということです。

「交わり」とは、仲間、パートナーとなるということです。

神の国がこの地に現されるために、私たちは協力し合う必要があります。

協力し合うためには、違いを認め合う必要があります。

それぞれに、神のご計画がある ことを認めて、違いを尊重することがで きなければ、協力し合うことはできませ ん。

「自分と違う」と思っても、互いの存在を尊重しあうことはできると思います。

「信仰の交わり」の目的は、「キリスト」です。

私たちの「信仰の交わり」が、キリストを指し示すものとなっているかどうか、それが、私たちがいつも問う必要があることです。

テトス 3章

「また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。」(3:2)

信仰生活で大切なことは、

人の悪口を言ったり、けんかをしたりせず、やさしい態度で、すべての人に礼儀正しく接する」(LB)

ことです。

その理由は神の救いです。

神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」(5節)

私たちは自分が努力して、頑張って、救われたのではなく、神の恵みによって救われたのだと言うことをいつも心に留めたいと思います。

使徒ペテロは言いました。

私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」(使徒15:11)

テトス 2章

「また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。」(2:7,8)

パウロはテトスに、教会のリーダーたちが今まで何をしてきたか、どのようにしてきたかについては語りません。

それよりも、品格(キャラクター)の形成に関する内容が綴られます。

あなたは、教えられた真理にふさわしい生き方を人々に教えなさい。」(1節LB)

年配の男の人には、自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように。」(2節)

年配の女の人には、神に仕えている者にふさわしくふるまい、人を中傷せず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。」(3節)

若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。」(6節)