マルコ 13章

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(13:31)

この世にあるものは移ろいやすく、そびえたったビルでさえ、いともたやすく壊されて、また、新しい建物が建築されています。

永遠に続くかと思われる制度も、ふとしたことで崩壊します。

哲学も思想も、時代と共に変化し続け、その証拠として世代間に溝ができています。

考え方が変化しているのです。

しかし、聖書は時代を超え、文化を超え、今も、神のことばとして、多くの人々の心を捉え、変え続けています。

どんなに聖書を批判する人がでてきても、その批判者やその批判の内容は廃れて生きますが、聖書は変わらずに多くの人々の心を捉えて離しません。

私たちを愛する神は今も生きておられ、私たちに今も語り続けておられます。

「こはげに古き教えなれど、日々新しき歌とぞなる」(聖歌525)と言う賛美の通りです。

マルコ 12章

「皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(12:44)

イエス様はこの乏しい人が「生きる手立てのすべてを投げ入れた」のを見ていたと言います。

イエス様は乏しい人が捧げることを引き止めることをしませんでした。

それは、捧げることを通して、天の窓が開かれ、祝福されることを知っていたからです。

乏しい中でも捧げたピリピの教会の人々に使徒パウロはこのように言います。

贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。」(ピリピ4:17LB)

精一杯捧げる人々に対して、聖書は約束を与えています。

また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(4:19)

マルコ 11章

「そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」(11:9)

イエス様がエルサレム入城をされる時、群衆は「ホサナ」と叫びました。

「ナ」は英語の「プリーズ」に相当する語で、「ホサ」は「お救いください」と言う意味があります。

ですから、「ホサナ」は「お救いください。お願いします」と言う意味です。

もちろん、「お救いください。お願いします」と言う対象は「救い主」以外にあり得ません。

それで、「ホサナ」は賛美の叫びの定型句となりました。

「祝福あれ」も賛美の叫びの定型句です。子ろばに乗られた理由は、旧約聖書の預言の成就だからです。

娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)

イエス様は預言された王として入城されたのです。

マルコ 10章

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」」(10:42-45)
権力主義は神の御国のあり方ではありません。

聖書的ではありません。

聖書が教えるリーダーシップは人々に仕える逆三角形です。

自分の利益のために人を動かすのではなく、一人一人の利益のために導くというものです。

キリストは自分のために弟子を犠牲にしたのではなく、自分のいのちを与えられました。

マルコ 9章

「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」(9:40)

弟子のヨハネはイエス様に言いました。

先生。あなたのお名前を使って悪霊を追い出している人を見かけました。でも、私たちの仲間ではなかったので、すぐにやめさせました。」(38節LB)

するとイエス様は驚くことにこう言われました。

やめさせることはありません。わたしの名によって奇跡を行いながら、そのすぐあとで、わたしに逆らう者はいないのですから。わたしたちに反対しない者は、味方なのです。よく言っておきますが、あなたがたがキリストの弟子だと知って、水一杯でも飲ませてくれる人は、必ず報いを受けます。」(39-41節)

キリスト教会は残念ながらこのイエスの真意を心に留めることなく些細な違いのゆえに分裂を繰り返し、対立してきました。

教団教派の仲間意識を超えて、私たちはキリストにあって互いを味方として認める必要があります。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

マルコ 8章

「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。」(8:2)

今日の箇所で、イエスは群衆が食べるものがないことに同情してこう言います。

この群衆に対して、私は腸のちぎれる想いがする。」(岩波訳)

イエスは、私たちが様々な問題に直面している姿を見て、「腸のちぎれる想いがする」と言われるお方です。

イエスは私たち一人一人のことを、心にかけていてくださいます。

三日間、教え続けただけでなく、その後、人々の具体的な必要を満たされました。

極端な人は「「食べ物」なんて、この世的なものは、どうでもいい」と言います。

しかし、イエスが主の祈りの中で

私たちの日ごとの糧(必要な糧)を、今日もお与えください。」(マタイ6:11)と祈るように教えられたように、イエスは私たちの日常の必要も気にかけておられます。

群衆は食べて満腹した。」(8節)とあるように、必要を全て満たしてくださいます。(ピリピ4:19参照)

マルコ 7章

「するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」」(7:27)

イエスのこのギリシヤ人の女の人に対する対応は、本当に冷たくて、私たちがイメージするイエスらしくない対応だと思います。

私たちが知らなくてはいけないことは、イエスは単なるミラクル・パフォーマー(奇跡を行う人)ではありません。

イエスの奇跡が意味したことは、旧約聖書で約束されてきた神の国がもたらされるということでした。

だから、今日の箇所で「まず」という言葉が示すことは、ユダヤ人以外の異邦人の時はやがて来ますが、今は、ユダヤ人への使命が優先しているということです。

イエスは、単に、奇跡を行うためではなく、聖書が預言した通りに、まず、「ユダヤ人の王」として、全ての人の救いのために死ぬために来られました。

マルコ 6章

「みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。」(6:50)

イエスは今日も

しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。

と、おっしゃられます。

私たちは、弟子たちと同じように、数々の主の恵みを忘れ、不安や恐れという向かい風のために漕ぎあぐねているように感じることが多々あります。

そんな時は、イエスを認識することも、存在を感じることもできないかもしれません。

弟子たちは、イエスを「幽霊」(49節)と思ったとあります。

幽霊と訳された単語は「ファンタジー」(空想、幻想)の語源となった言葉です。

人生の嵐の中で、イエスの存在が、空想話のように感じてしまう、たわごとのように感じてしまう、そんな時があると思います。

それでも、イエスの存在を認め、歓迎する時、風はやみ、前進する自分を見ることができます。

マルコ 5章

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(5:34)

この女性は儀式的に穢れた状況でしたので、公の場でイエスにお願いすることはできませんでした。

しかし、本来ならばイエスへ近づくことを妨げる群衆が、彼女にとっては、逆に知られずにイエスに近づくことができる助けになりました。

「さわることによって癒される」ことは奇妙な現象です。

しかし、ここに大事なメッセージがあります。

群衆のような問題が押し寄せてきていても、イエスの後ろにいくスペースはあり、手を伸ばして、さわることができるというメッセージです。

「恐れと信仰」が混ぜ合わさった中でも、手を伸ばし、イエスに触れる時、神の力が解き放たれます。

もちろんイエスの力が彼女を救いました。しかしイエスは、どんなに私たちの信仰が弱くても、【信仰】が神の力と私たちをつなぐと言われます。

マルコ 4章

「さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。」(4:35)

キリストと共にある人生に、波風が立たないとは、聖書は約束しません。

そもそも弟子たちはイエスの「向こう岸へ渡ろう」というみことばに従って船出したのです。

波風が立っているのは神のみこころに逆らっているからではなく、従っているからかもしれません。

しかし、イエスと共にあるならば、イエスがそうされたように、どんな嵐の中でも、父なる神の臨在の中で、安心して枕をすることができます。

なぜならば、神はどんな嵐をも静めることができる、すべてを治めておられるお方だからです。

そして驚くことに、神は私たち一人一人を愛しておられ、気にかけておられるからです。

イエスが「何とも思われないのですか。」という弟子たちの問いかけに、応じられたという意味は、私たちのことを、思われているということ以外の何ものでもありません。