詩篇 27篇

「もしも私が生ける者の地で主のいつくしみを見ると信じていなかったなら──。」(27:13)

時として、キリスト教信仰を、死後の保険のように考える人がいます。

もちろん、キリストを信じるならば天の御国に入ることができます。

しかし、それは、この地上では神のすばらしさ、良さを見ることができないという厭世的な信仰とは違います。

ですから、詩人は言います。

私は信じます。生ける者の地で主の恵みにまみえることを。」(13節協会共同訳)

私たちは、生きているこの地でも神の恵み、いつくしみを体験することを信じなければなりません。

ですから詩人は言います。
いらだってはいけません。主を待ち望みなさい。主は必ず来てくださり、あなたを救ってくださいます。勇気を出しなさい。主を待ち望みなさい。主はきっとあなたを救ってくださいます。」(14節LB)

詩篇 26篇

「感謝の声を響き渡らせて語り告げます。あなたの奇しいみわざのすべてを。」(26:7)

神が私たちに求めておられることは、感謝の歌声を響き渡らせることです。

神の不思議な御業のすべてを語り伝えることです。

ダビデは言います。

あなたの恵み(ヘセド・信実の愛)は私の目の前にあり、あなたの真理(エメット・真実)のうちを私は歩み続けました。」(3節)

神の信実の愛を見失わないように、神の真実のうちを歩むように気をつけてきたと言います。

そして何よりも、主の宮、神の臨在を愛してきた(8節)と言います。

主の宮は感謝の歌声が響き渡る場所であり、神の奇しい御業を語る場所です。

そのような場所に神の栄光は現され、人々はそのような場所を愛します。

教会は議論する場所ではなく、そのように神の栄光がとどまる場所です。

詩篇 25篇

「主を恐れる人はだれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。」(25:12)

主はいつくしみ深く正しくあられます。それゆえ罪人に道をお教えになります。」(8節)

「いつくしみ深く」と訳された単語はトーヴ、「良い」(Good)です。

神は良いお方であるがゆえに歩むべき道を教えてくださるということです。

さらに主は

拒絶された者に手を差し伸べる」(9節MSG)

お方だと言います。

辱められることは辛いことです。

しかし、そんな人に手を差し伸べられるお方だと言います。

だから、主を恐れることが大切だと聖書は言います。

主を恐れる人はどこにいますか。主はその人に、最善のものを選ぶ秘訣を教えてくださいます。」(12節LB)

私たちの目はどこに向いているでしょうか。

主を恐れ、主を見上げましょう。

私の目はいつも助けを求めて、主に向いています。私を救い出せるのは、主おひとりだからです。」(15節LB)

詩篇 24篇

「門よおまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。栄光の王が入って来られる。」(24:9)

ダビデは、神の臨在を象徴する契約の箱が、エルサレム神殿に入ってくることを意識して、この詩を書いたと思われます。

しかし、これはまた預言的な意味も含んでいます。

神の御子イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城される日を、預言していると考えられます。

さらに、イエス・キリストはこう約束されました。

しかり、わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)

イエス・キリストは再び、この地に来られます。

メッセージという訳では今日の箇所をこう訳しています。

目を覚ませ、寝ぼけている町よ!

目を覚ませ、寝ぼけている人々よ!

栄光の王が入ってくる準備は整った。

その日は遠くありません。

栄光の王、イエス・キリストは再び来られます。

詩篇 23篇

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(23:1)

誰が自分の人生の羊飼いであるかはとても重要なことです。

キリストは言いました。

わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)

私たちが、日々の生活の中で優先して耳を傾け、その後についていっている存在が私たちの人生の羊飼いです。

それは、人とは限りません。

ある種の哲学や思想、また、富や名誉などの可能性もあると思います。

イエス・キリストはおっしゃられます。

わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」(ヨハネ10:14)

イエス・キリストが自分の羊飼いであるならば、乏しいことはありません。

なぜなら、キリストは私たちのことをすべてご存知な上で導いてくださるからです。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

(県内のコロナ感染者が急激に増加しているため、本日の主日礼拝は10:25より配信のみとなります。)

詩篇 22篇

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず、遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。」(22:1)

詩人の体験からも、信仰者が神の不在を感じることは、今も昔も変わらない一般的なことであることを知ることができます。

信じていても見捨てられたように感じる時があります。

賛美を捧げていても疑いをもってしまう時があります。

聖書を読んでいても、暗闇を感じてしまう時があります。

イエス・キリストが十字架で救いの御業を成し遂げる時に、この詩人と同じ祈りを捧げたことは注目に値します。

キリストがこの箇所を口にされたことを通して、私たちは今、不在と感じるその所に、神は確かに存在され、神の御業が確かに成し遂げられていたことを知ることができます。

逆境は、神が私たちを見捨てられたということではなく、このことを通して神の栄光が現わされるということです。

ですから、詩篇22篇は主への賛美で閉じられます。

詩篇 21篇

「主よあなたの御力のゆえにあなたがあがめられますように。大いなる御力を私たちは歌いほめ歌います。」(21:13)

私たちの信じている神は、力ある神です。

死の力を打ち破るほどの力あるお方です。

LBでは今日の箇所をこう訳しています。

ああ主よ、この賛美をお受けください。御力を賛美しているのですから。私たちは主の力強いみわざをたたえて、賛美の歌を歌いましょう。

私たちは神の力強いみわざを歌うように促されています。

神の御力をたたえて、賛美の歌を歌うことは、聖書が教えていることです。

さらに、7節にこうあります。
王は主により頼んでいるので、つまずいたり倒れたりすることは絶対にありません。あらゆる神々にまさる神の変わらない愛に、頼りきっているからです。」(LB)

「変わらない愛」と訳された単語が「へセド」、「信実の愛」です。

神の「信実の愛」、十字架の御業による新しい契約に生きることができますように。

詩篇 20篇

「ある者は戦車を、ある者は馬を求める。しかし私たちは、私たちの神、主の御名を呼び求める。」(20:7)

新改訳三版までは「誇る」という動詞が補われてきましたが、動詞は末尾の「唱える」だけです。

「確信を持つ、頼る」とも意訳できます。

「主の御名」は、神のご性質を示します。

「主の御名」を「呼び求める」、「頼る」ということは、神を「いと高き神、ご覧になる神、全能の神、義なる主、勝利の主、ここにおられる主、癒し主、羊飼いなる主、備え主、聖め主、万軍の主、平和の主」と、確信することです。

困難な時、どうして私たちは神よりも人からの助けを期待し、思うような助けを得られないと苛立つのでしょうか。

祈って神の導きを待ち望むよりも、人の助言に走ってしまうのでしょうか。

神がどういうお方であるか、確信する必要があるのではないでしょうか。

主の名は堅固なやぐら。正しい人はその中に駆け込み、保護される。」(箴言18:10)

詩篇 19篇

「主のおしえは完全でたましいを生き返らせ主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。」(19:7)

聖書のみことばとは何かがここで並べられています。

聖書のみことばは第一に「完全」です。

聖書以外の場所に人は神のことばを求めるべきではありません。

第二に、聖書のみことばは「たましいを生き返らせ」ます。

聖書のみことばは、人生を立て直す力があります。

第三に、聖書のみことばは「確か」です。

確実で、信頼できます。

第四に、聖書のみことばは私たちを「賢く」します。

箴言にこういう箇所があります。

では、どうしたら賢くなれるのでしょう。まず主を信じ、主を大切にすることです。」(箴言1:7LB)

聖書のみことばには力があります。

なぜならば、今生きておられる神のみことばだからです。

主を信じ、主を大切にする人は、主のことばである聖書のみことばに耳を傾けます。

詩篇 18篇

「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ、御前への叫びは、御耳に届いた。」(18:6)

この詩篇は、ダビデが晩年、自分の生涯を回顧して記したと言われます。

彼の人生は波乱万丈でした。

サウル王に命を狙われたり、息子のアブサロムに命を狙われたり。

しかし、そんな中で彼は人生の秘訣を見出しました。

それは、主を呼び求めること、祈ることでした。

壁にぶつかった時、キリスト者は祈ります。

祈りに追い込まれることはすべて良いことです。

もちろん、苦しみがなくても祈ることは大事です。

ダビデは「主は生きておられる。」(46節)と歌います。

祈りに追い込まれることを通して、神が本当に生きておられるということを体験したのだと思います。

イエス様も言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。」(ヨハネ16:23)