詩篇 48篇

「神よ。私たちはあなたの宮の中で、あなたの恵みを思いました。」(48:9)

私たちは日常の生活の中で、不安や恐れを思い巡らすことはよくあると思います。

しかし、神の恵みを思い巡らすことはなかなかないのではないでしょうか。

「神の宮」とは、神がおられる場所です。

もちろん、現代の文脈では教会を意味すると思います。

ただ、現在のように教会堂に集まることが出来ない状況においては、日々の祈りの場所と理解することもできると思います。

大事なことは神の恵みを数えることです。

宗教改革の指導者の一人カルヴァンは、歩く総合病院のような人だったと言われます。

二五種類ほどの病気をもっていて、体が痛くて夜も眠れなかったそうです。

眠れないので祈るしかなく、祈るとインスピレーションをいただき、深い霊性の本を書くことができたと言います。

苦痛の中にあっても、神の恵みを思い巡らす時、神の恩寵の世界が必ず開かれます。

詩篇 47篇

「まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。」(47:7)

巧みな歌でほめ歌を歌え」と訳されてきた単語を新改訳2017では「ことばの限りほめ歌を歌え」と訳しています。

原文は「マスキールを歌え」です。

「マスキール」はいくつかの詩篇の表題になっています。

「理解する」という意味がありますが、わかっていません。

音楽的な指示だとも言われます。

いずれにせよ、神を全地の王として、最善を尽くして、神を褒め歌うようにと命じられていることは確かです。

王が意味することは、次節にあるように、

神は国々を統べ治めておられる。」ということです。

人々は自己中心的な人間の統治者たちに疲れ果てています。

私たちの願いは、神(ヤハウェ)ご自身が統べ治めること、王となられることです。

神は神の御子が十字架にかかり死ぬことを通して全地の王となられました。

神を全地の王としてほめ歌を歌うことは、神の御国をこの地に現す大切な方法です。

詩篇 46篇

「主は、地の果てまでも戦いをやめさせる。」(46:9)

神の御国、神の統治は平和です。

この世の終わりに、戦いは終わります。

主なる神が、地の果てにいたるまで戦争をやめさせるからです。

国々は怒り狂い、わめき散らします。」(6節LB)

とあるように、神を認めない地上の国々は戦いに戦いを繰り返します。

しかし、神がその御声を発せられる時、地上の国々は静められます。

その日は遠くありません。

主なる神は言われます。

やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(10節)

武装放棄を迫る預言的な言葉です。

それと同時に、今を生きる私たちにも語られます。

ジタバタするのをやめて、神を神として認めるようにと。

あなたの不安を放棄しなさい。静まって、私が神であることを認識しなさい。」(TPT)

詩篇 45篇

「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公平の杖。あなたは義を愛し、悪を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたに注がれた。あなたに並ぶだれにもまして。」(45:6,7)

今日の箇所はヘブル人への手紙の中で引用されています。

御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。」」(1:8,9)

ヘブル人への手紙の著者のポイントは、子なる神、イエス・キリストの神性です。

「神よ。あなたの神は」というのは面白い表現ですが、イエス・キリストは「神」ということです。

また、他の存在と区別するように、より多くの喜びの油が注がれたとあります。

聖書の神は、三位一体なる神であり、その王座は永遠です。

詩篇 44篇

「自分の剣によって、彼らは地を得たのではなく、自分の腕が、彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの御腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」(44:3)

詩人は先祖たちが語る神の御業を耳にし、神の御手が彼らを救ったことを悟ります。

もちろん、旧約聖書を読むならば、先祖たちが剣をもって戦った事実は変わりません。

しかし、あくまでも神の御業だったことを詩人は確信します。

それで、詩人は祈り、告白します。

私の王、私の神よ。あなたの民に勝利をもたらしてください。その力と御名の威光によらなければ、敵を踏みにじることはできません。」(4,5節LB)

もちろん、私たちがすべき分があります。

しかし、主なる神によらなければ、本当の勝利はありません。

私たちはそのことを認め、すべての栄光を主にお帰しする姿勢が大事です。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

詩篇 43篇

「わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(43:5)

現代社会は私たちを様々なプレッシャーの下に置きます。

私たちは経済的に、人間関係に、仕事にもがいています。

そして、未来に不安を感じています。

プレッシャーをうまく処理できないと、私たちは不安と憂鬱の中に落ちてしまいます。

このような状況から脱出する道が見えないとき、私たちの絶望感は大きくなります。

ダビデは、そのような絶望感の中で、唯一の解決策を思い起こします。

神を待ち望め。

私たちは問題の解決を、自分自身や、他者に求めても、見つけることはできません。

私たちはただ、神の中に希望を見いだすことができます。

問題ではなく、神に自分の思いを向ける必要があります。

神はあなたを愛し、あなたの人生の周りの状況を支配していることを思いだす必要があります。

詩篇 42篇

「私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。いつになれば、私は行って、神の御前に出られのでしょうか。」(42:2)

「あなたは私たちをあなたに向けて造られ、私たちの魂はみもとに安らうまで安んじることはありません」

とアウグスティヌが言ったように、生ける神との関係によってでしか満たされない渇きが、すべての人の内にあります。

ですから詩人は歌います。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(1節)

詩人が伝えたいのは、新鮮な水でなければ満足できないということです。

昔の体験、誰かの体験で満足することはできません。

私たちは今、自分自身で神との時間をもつ必要があります。

イエス・キリストは過去の偉人というだけではありません。

今、生きておられ、私たちは今、御前に出て行くことができます。

イエス様は言われます。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

詩篇 41篇

「私の誠実さゆえに私を強く支えてください。いつまでもあなたの御前に立たせてください。」(41:12)

ダビデの心は複雑でした。

彼を憎み、彼に対して悪を企む人たちがいたからです。

ダビデは言います。

私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが、私に向かって、かかとを上げます。

ダビデは、信頼していた人たちからも裏切りを体験しました。

しかし、ダビデは言います。

「あなたは敵が私に勝ち誇ることをお許しになりませんでした。私は自分があなたの目にかなっていることを知りました。」(11節LB)

誰が悪口を言ったとしても、神が自分を喜んでおられることを知っていたのでダビデは揺らぐことがありませんでした。

彼は何があっても神に対する誠実さを捨てることはありませんでした。

彼の究極的な願いはいつも神の臨在だったからです。

神の臨在だけが彼の本当の必要を満たすことができることを知っていたからです。

詩篇 40篇

「あなたを慕い求める人たちがみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主は大いなる方」と、いつも言いますように。」(40:16)

「主は大いなる方」です。

主なる神を大きくする時、問題は小さくなります。

問題が大きく感じるのは、私たちが主なる神を小さくしているからです。

私たちはいつも、主なる神の偉大さを告白する必要があります。

輝く日を仰ぐ時、月星眺める時、雷鳴り渡る時、森にて鳥の音を聞く時、そびゆる山に登る時、谷間の流れの声を聞く時、この大自然を創造された創造主である神がどんなに偉大なお方か、歌い続ける姿勢が大事です。

そして、私たちは主なる神の偉大な御業を自分だけのものとするのではなく、大きな会衆で分かち合う必要があります。(9,10節)

その日を待ち望みつつ、主の偉大な御名を賛美しましょう。

主は私たちの助け、私たちを救い出すお方です。

詩篇 39篇

「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないように。口に口輪をはめておこう。悪しき者が私の前にいる間は。」(39:1)

「あなたからの疾患を私から遠ざけてください」(11節月本訳)

と詩人が祈るように、詩人は病苦にあったことが考えられます。

その中で、詩人は一つの決心をします。

「私は自分に言い聞かせました。「不平を言うのはやめよう。特に、神を信じない者たちがそばにいる間は。」」(1節LB)

入院をしたり、病に臥したことがあれば理解できる内容だと思います。

詩人は病状が悪化したのか、語らずにいられなくなり、4節以下の祈りへとつながります。

「主よ、地上で生きる年月などわずかであることを私にわからせてください。ここにいるのもあとほんの少しだと、思い知らせてください。」(4節LB)

人間のはかなさを認識することは大切なことです。

しかし、同時にキリストを信じる者には、永遠の世界があることも覚える必要があります。

※ SSCの役員会はまん延防止等重点措置が解除されるまで教会堂を閉鎖する決定をいたしました。皆様の上に神様の特別な守りと助けがありますようお祈りしています。
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