詩篇 119篇153-160(ר)

「みことばのすべては真実です。あなたの義のさばきはことごとくとこしえに至ります。」(119:160)

153節からは「レーシュ」(ר)から始まるアルファベットの詩です。

「すべて」と訳された単語は元来「頭」(ローシュ)を意味する単語です。

それで、パッション訳ではこう訳しています。

あなたのみことばの総計は、絶対的な真理となります。

聖書のみことば、創世記から黙示録まで、絶対的な真理です。

聖書のみことばは神の霊感によって書かれています。

ただ、断片的にではなく、全体的に学ぶ必要があります。

使徒パウロはエペソの教会の長老たちに言いました。

私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。」(使徒20:27)

詩篇 119篇145-152(ק)

「私は夜明け前に起きて、叫び求めます。あなたのみことばを待ち望んでいます。」(119:147)

145節からは「コフ」(ק)から始まるアルファベットの詩です。

「夜明け」は祈りの時です。

祈りはじめる時、暗い夜に光が差し込み、私たちは夜明けを体験します。

祈りは叫び求めるという側面と、「あなたのみことばを待ち望んでいます。」という両面性があります。

神に訴えるだけでなく、静まって聴く時間も大事です。

静まって、主よ、お語りくださいと聖書を開く中で、みことばが与えられます。

詩人は言います。

ああ主よ、ひたすら祈り続ける私にお答えください。私はあなたのおきてに従います。」(145節LB)

主の御名を呼び求め続けることは、神の御言葉を守ることと離して考えることはできません。

詩篇 119篇137-144(צ)

「あなたのさとしは、永遠に義です。私に悟らせ、私を生かしてください。」(119:144)

137節からは「ツァデー」(צ)から始まるアルファベットの詩です。

神は義(צַדִּ֣יק)なるお方であり、そのなされることも義です。そして神の言葉も義です。

あなたが生きるようにと言われた道(方法)はいつも正しい。」(MSG)

だから、詩人は歌います。

私は取るに足りない存在で、人からさげすまれていますが、戒めだけは大事に守っています。」(141節LB)

詩人は、弱く、小さな存在であるがゆえに、軽んじられているように感じていました。

しかし、それでも神の御言葉を大切にし、生きていくことを宣言します。

これが信仰者の歩みです。

詩篇 119篇129-136(פ)

「あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれに目を留めます。」(119:129)

129節からは「ぺー」(פ)から始まるアルファベットの詩です。

詩人は神のみことばを「不思議な御業」(ペラオート)と呼んでいます。

あなたが与えるすべての言葉は奇跡(ミラクル)の言葉」(MSG)

だと言います。

なぜなら、

みことばの戸が開くと、光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。」(130節)

難しいと敬遠せずに、みことばを学びはじめるならば、

「光が輝き、普通の人が、その意味することが分かる」(130節MSG)

ようになります。

そして、みことばが開かれる時、みことばに生きるようになります。

みことばによって私たちの歩みは確かなものとなります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 119篇121-128(ע)

「あなたの恵みによって、あなたのしもべを取り扱ってください。私にあなたのおきてを教えてください。」(119:124)

121節からは「アイン」(ע)から始まるアルファベットの詩です。

「恵み」と訳された単語は、今年のキーワード、「へセド」、「信実の愛」です。

それは、契約を守られる神の信実の愛です。

ですから、この箇所が語っていることは、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、主なる神は私たちを取り扱ってくださるということです。

私たちは神の信実の愛、聖書の御言葉の約束に従って扱われます。

だから、私たちは祈ります。

「どうか、あなたにお仕えする身である私に、すべての点であなたの規範に照らして考える知恵を、お授けください。」(125節LB)

聖書は信仰と生活の唯一の規範です。

日々、聖書の御言葉に照らして考える知恵を私たちは必要としています。

詩篇 119篇113-120(ס)

「私は、二心のある人たちを憎み、あなたのみおしえを愛します。」(119:113)

113節からは「サメク」(ס)から始まるアルファベットの詩です。

「二心」は、日本語では「浮気心」というような意味で、分裂、不一致という意味があります。

LBでは

神に従おうかどうしようかと迷う優柔不断な人々を、私は軽蔑します。私は、あなたの教えを愛する心を貫きます。

と訳しています。

私の肉はあなたへの恐れで震えています。」(120節)

という表現は、

「律法が理念や観念としてではなく、血肉と化していることを示唆する」(月本氏)

と言います。

神の御言葉を単なる理念や観念として捉えるのではなく、信仰と生活の唯一の規範として、血肉と化することは重要です。

聖書を単なる理念や観念として捉える「二心のある人たち」は聖書から「迷い出る」(118節)と言います。

しかし、詩人は

あなたの教えを愛する心を貫きます」(113節LB)

と言い、祈ります。

詩篇 119:105-11(נ)

「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」(119:105)

105節からは「ヌン」(נ)から始まるアルファベットの詩です。

「ともしび」(ネール・נֵר)はランプのことで、当時は、一端を高く尖らせた土器碗が用いられました。

それはつまずかないように、足下を照らす小さな光です。

一歩一歩を照らすような光です。

パッション訳はこのように訳しています。

真理の輝く光は、私の選択と決断を導きます。あなたの御言葉の啓示は、私の道を明らかにします。

真理の輝く光は、足もとは照らしますが、ランプですので、遠くまではよく見えないようです。

今日と言う一日を生きていくのに十分な光ですが、毎日、照らしていただく必要があります。

ですから、聖書を分かった気にならずに、日々、聖書の御言葉に耳を傾ける必要があります。

イエス様は言われます。

一日一日を力いっぱい生きなさい。」(マタイ6:34LB)

詩篇 119:97-104(מ)

「私にはあなたの戒めがあり、見極めができます。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。」(119:104)

97節からは「メーム」(מ)から始まるアルファベットの詩です。

聖書を読むことが偽りの道から私たちを守る方法です。

詩人は言います。

あなたの戒めから受ける真の知恵と理解力のおかげで、私はまちがったすべての教えを退けることができました。」(LB)

また、聖書を読むことによって私たちは「人生を理解します」(MSG)。

マックス・ルケード牧師は「幸福は感情ではなく、決断です」と人生を理解します。

前向き、肯定的、信仰的に生きることを決断することが人生を好転させます。

明るく、元気で、のびのびと生きることに決めることが人生を好転させます。

それが聖書の戒めです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサ5:16-18)

詩篇 119篇89-96(ל)

「もし、あなたのみおしえが私の喜びでなかったら、それなら私は、私の苦しみの中で滅んだでしょう。」(119:92)

89節からは「ラメド」(ל)から始まるアルファベットの詩です。

主の教え(みことば)を喜びとしていなかったら、

私は失望の果てに滅んでいたことでしょう。」(LB)と詩人は言います。

神の啓示である聖書を喜びとしていなかったら、大変な状況が来た時、自分はあきらめていただろうと言います。

時代を超えて信仰の先輩たちは詩人と共に告白するでしょう。

どんなことがあろうと、戒めだけは手放しません。その教えによって、喜びと健康を回復していただいたからです。」(93節LB)

神の御言葉を手放さなければ、神の御言葉によって、喜びと健康は回復します。

詩人は言います。

私は人間のすべてに限界を見るが、地平線はあなたの命令を収められない。」(96節MSG)

詩篇 119:81-88(כ)

「私のたましいはあなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。」(119:81)

81節からは「カフ」(כ)から始まるアルファベットの詩です。

「待ち望む」とあるように、待つことは、希望を持つことです。

私たちは神の御言葉、神の約束に希望を持つように聖書は言います。

しかし、詩人は言います。

私はあなたの救いを待ち続けて、疲れてしまいました。それでもなお、助けてくださるというお約束に期待しています。」(81節)

信じていても、疲れてしまうことがあります。

大事なのは、「それでもなお」という信仰の世界です。

詩人は言います。

私は疲れ果て、煙の中の革袋のようにしぼんでしまいました。しかしなお、あなたのおきてを慕い求めます。」(83節LB)

疲れ果て、気力も失いかけていたとしても、それでもなお、神の御言葉、聖書を読み続ける、そこに希望があります。