詩篇 127篇

「実に、主は愛する者に眠りを与えてくださる。」(127:2)

大自然を前に、人は人の力を超えた神の存在を意識します。

壮大な建築物は、人間の業ですが、その背後にも、神の働きを認めるように詩人は言います。

「もし、神の恵みが建てる者を助けなければ、彼らは家を建てるために無駄な労働をすることになります。」(1節TPT)

すべての人間の営みの背後に神の働きがあります。

自らの能力や努力に加えて、様々な要因が協力的には働かなければ、事はそう簡単に運ぶものではありません。

だから聖書は言います。

あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの父祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである。」(申命記8:17,18)

詩篇 126篇

「主よ、ネゲブの流れのように、私たちを元どおりにしてください。」(126:4)

ネゲブはイスラエル南部にある乾燥地域のことです。

この地域には、乾季には水が無く、雨季には激流となる涸谷(ワディ)がいくつもあります。

「ネゲブの流れのように」とは、まさにこのワディのように劇的な転換を期待した祈りのことです。

月本氏は「私たちを元どおりにしてください」を「われらの命運を転じてください」と訳しています。

砕かれて、神を求める時、神が答えてくれます。

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。」(5節)

私たちが求める主なる神は、生ける神、主イエス・キリストです。

主は祈りに答えて、私たちの涙を喜びに変えてくださいます。

泣きはらした目も、喜びの叫びに変わります。

マイナスはプラスになります。万事は益となります。

それを見て、人々は言うようになります。

「主は彼らのために、驚くべきことをなさった。」(2節LB)

詩篇 125篇

「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。揺るぐことなくとこしえにながらえる。」(125:1)

私たちの心は、ちょっとした状況の変化にも動揺しやすいところがあります。

すぐ、不安になってしまうことがあります。

「シオンの山のよう」という意味には主の臨在に対する意識があると思われます。

シオンの山には、神の臨在の象徴である神殿があったからです。

主が共におられるという主の臨在を認識することが不安に対する処方箋ということだと思います。

主を信頼する人は、シオンの山のように、どのような状況でも動じません。エルサレムがその周囲の山々に守られているように、主もご自分の民を取り囲んで、守ってくださいます。」(1,2節LB)

私たちの主は、私たちを取り囲んで守ってくださるお方です。

ですから、どんな状況でも動じないと詩人は言います。

詩篇 124篇

「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」(124:8)

「もしも、主が私たちの味方でなかったなら」(1節)

と考えるだけで恐ろしくなります。

すべてをご存じで、私たちを気にかけ、愛してくださっている神を信じるからこそ、私たちは安心して日々生きることができます。

私たちはイエス・キリストの十字架を通して確信をもつことができます。

神の側から私たちの手を離すことはありません。

しかし、私たちの方が、神の御手を振りほどき、自分勝手な道を突き進むならば、神と敵対して歩むことになります。

ですから、わたしたちは自分が今どこにいて、どこに向かっているのかを日々確認する必要があります。

神とともに、歩む時にパウロが語ったこの約束は確かに私たちとともにあります。

「神が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

「助けの手は、天地をお造りになった主から伸べられます。」(8節LB)

詩篇 123篇

「まことに、しもべたちの目が主人の手に向けられ、仕える女の目が女主人の手に向けられるように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれんでくださるまで。」(123:2)

私たちの視点はどこに向けられているでしょうか。

詩人は、

「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。」(1節)

と言います。

残念ながら、自分の都合のよいように動いてくれる神を自分の下に見下げても、人は神を見出すことはできません。

神は私たちのしもべではなく、私たちが神のしもべだからです。

私たちは、自分の人生の主人として、神を見上げる必要があります。

「しもべたち」、「仕える女」とあるように、キリスト者として成熟することは、キリストのしもべとして生きることを学ぶことでもあります。

キリストのしもべは祈ります。

「キリエ・エレイソン」(主よ、あわれんでください。)

詩篇 122篇

「「さあ主の家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。」(122:1)

「都上りの歌」という意味は、エルサレムの神殿に巡礼するのに歌われた歌ということです。

「さあ主の家に行こう。」と人々が言ったことに、詩人は喜びを爆発させたという歌です。

「主の家」である神殿は神の臨在の象徴です。

人々はそこで神を礼拝し、賛美と祈りをささげました。

現在エルサレムには神殿はなく、いたるところに戦争の傷跡が残っています。

神の臨在の象徴であった都が、傷だらけであるという現実は、イエス様がエルサレムを見て涙を流されたことを思いださせ、私たちの心を絞めつけます。

エルサレムの平和のために祈れ。」(6節)

とありますが、エルサレムはもちろんのこと、世界の平和のためにも祈りたいと思います。

また、神の臨在の象徴という意味では、教会は「主の家」です。

多くの人々が、「さあ主の家に行こう。」と言うリバイバルを信じて、祈りましょう。

詩篇 121篇

「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」(121:2)

人間は神にはなれません。

すべての必要に人は答えることはできません。

人はまどろむこともあれば、眠ることもあるからです。

しかし神はまどろむことも、眠ることもありません。

私たちは神に期待する必要があります。

自分の期待に答えてくれる人を探すのではなく、神を求めることが大切です。

また、人ではなく神に助けを求めるように励ます必要があります。

詩人は山に向かって目を上げました。

目の前に立ちはだかる、問題の山の前に、「私の助けはどこからくるのだろうか」とつぶやかずにいられないような心境だったのです。

そんな中で詩人はこの山さえも造られた創造主なる神に心を向けます。

目の前に立ちはだかる問題も、神の許可なくして存在することはないのであれば、神はその問題を解決することができるはずです。

何よりも聖書の神は奇蹟の神です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 120篇

「苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった。」(120:1)

120篇から134篇までは、「都上りの歌」と表題が付けられています。

「巡礼の歌」(A Pilgrim Song)とも訳されますが、エルサレム巡礼の時に歌われたと考えられています。

詩人は「苦しみのうちに」あったと言います。

それは6,7節にあるように、

平和をきらうこの者どもと暮らすのには疲れました。私は平和を愛しますが、彼らは戦いを好みます。彼らのどなり声に、私の声もかき消されてしまいます。」(LB)

ということだと思われます。

この地上で生きる限り、このような問題は尽きません。

大事なことは詩人がとった信仰の行動です。

苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった。

主を呼び求めるならば、主は必ず答えてくださいます。

巡礼者は主を呼び求める必要を認識し、主の宮へと向かいました。

私たちも同じ姿勢が求められています。

詩篇 119篇169-176(ת)

「私の唇に、賛美が湧きあふれるようにしてください。あなたが私に、あなたのおきてを教えてくださるからです。」(119:171)

169節からは「タウ」(ת)から始まるアルファベットの詩です。

ヘブル語最後のアルファベットです。

主のみことばを学ぶならば、主に賛美を捧げずにはいられなくなると詩人は言います。

聖書を学んで、主への賛美の歌が溢れないならば何かが間違っています。

あなたが私に、あなたのおきてを教えてくださるから」と詩人が言うように、私たちに教えるのは聖霊です。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

神の御言葉を深く学べば学ぶほど、聖霊が私たちの教師として、私たちに教えてくださるならば、唇に、賛美が湧きあふれるようになるものです。

詩篇 119篇161-168(ש)

「あなたのみおしえを愛する者には、豊かな平安があり、つまずきがありません。」(119:165)

161節からは「シン」(ש)から始まるアルファベットの詩です。

165節は「シャローム」(שָׁל֣וֹם)という単語からはじまります。

主の御言葉を愛する者には豊かな「シャローム」(שָׁל֣וֹם)があると。

まず、何よりも神との平和(シャローム)が約束されています。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)

そして、心の平安も約束されています。

志の堅固な者を、あなたは全き平安(シャローム・シャローム)のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」(イザヤ26:3)

神の御言葉を何よりも愛し、慕い求めることから「シャローム」は始まります。

あなたの御言葉を愛する人たちには、このような大きな平安と幸福が訪れ、気分を害することはない。」(TPT)