昭和世代と平成世代

来年5月1日に皇太子が天皇に即位することが正式に決まったということで、この日が来年に限って祝日になるそうですね。わたしの誕生日を日本中で祝っていただくようでなんだか申し訳ないです(すみません、ジョークです)。

昭和世代、平成世代に新たな世代が加わって比較すると興味深い内容になりそうです。〝24時間働けますか?”に象徴される昭和世代。〝みんな違ってみんないい“”ゆとりですが、何か?〟に象徴される平成世代。ほんの数十年で私たちを取り巻く状況も、考え方も、価値観もものすごいスピードで変化していきます。教会も様々な世代で構成されています。戦中戦後を必死で生き抜いてきた人、家族との時間も取れないまま働きずめだった人、バブルを経験した人、就職氷河期だった人、ゆとり教育ど真ん中だった人等々。パウロの手紙を読んでいると、初代教会にも似たような状況があり、摩擦があったことが分かります。相手の立場に立って物事を見ることの大切さを歳を重ねるごとに私自身も感じています。皆さんは、いかがですか?  (小山晶子牧師婦人)

1テサロニケ 1:1-2:16

「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(2:13)

聖書は「神のことば」です。この手紙の著者は使徒パウロですが、聖霊なる神様がパウロに霊感を与えてこの手紙を書かせたと、神のことばとして受け入れることが大切です。そして、この神のことばは、当時のテサロニケの人々のうちに働かれただけでなく、今も、信じる私たちのうちに働いています。LBでは後半部分をこう訳しています。「事実、この神のことばは、信じる者の生活を一変させるものです。」神のことばには力があります。ですから、信仰をもって聖書を「神のことば」として読むことに意味があります。神のことばは力があり、信じる私たちのうちに働いているからです。

ああ、おいしい

港南台バーズの中に新しいお店がオープンしました。国内外から様々な食材を集めた見るだけで楽しい「北野ACE(エース)」という店です。成城石井やカルディとかぶる感じもあるのですが、フロアが広く商品が見やすいので落ち着いてショッピングが楽しめます。驚いたのはナッツ類・ドライフルーツ類の豊富さとレトルトカレーの種類の多さ。売り場棚の半分全てがレトルトカレーだったことには圧倒されました。でも、本当に感動したのは276円のごま高菜漬けです!まあ、おいしい。おいしいにもいろいろあると思いますが、とにかくめっちゃおいしいです!恐らく北野エースのオリジナル商品だと思うのですがご飯が進むこと、進むこと。皆様是非お試しください。味わうって、大切ですね。だって確信をもって紹介できるから。罪が赦され、永遠の命をいただけるって本当に素晴らしいんだよ!イエス様のこともそんな風に、確信をもって人々に伝えるためには私たちがまずしっかりとその事実を味わうことから始めなければいけませんね。   (小山晶子牧師婦人)

カレーライス

日米で牛肉とオレンジ輸入自由化が1988年に合意に達するまで、少なくとも我が家において牛肉が食卓に上るということはあまりなかったように記憶しています。瀬戸内海で育ったせいか魚を食べることが多く、今振り返ってみても印象に残っている母の料理に牛肉が使われていた記憶はほとんどありません。しかし、そんな我が家でも唯一絶対に牛肉以外使うことがなかった料理がカレーライスです。ですから、日本のカレーライスには牛肉だとずっと思っていました。ところが先日ある番組で“関東ではポークカレー、関西ではビーフカレー”と聞き驚きました。関東育ちの家族に聞いてみたところ、関東ではポークカレーが一般的であることを聞きさらにびっくり。知りませんでした。今日の食事会は、これでもか!というくらい牛肉が入ったカレーです。食事をしながら教会を共に建てあげるために時間をとることは楽しみでもあり、喜びでもあります。バナナが入った牛肉カレーをどうぞお召し上がり下さいませ。ポークカレーが好きな人、ごめんなさい。 (小山晶子牧師夫人)

エペソ 4:1-16

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(4:1-3)

私たちはご利益のためではなく、キリストに召された者としてふさわしい生き方が求められています。具体的には、

「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保」つこと

です。これが、この地上に神の御国を現すためにふさわしい生き方です。与えられた限りのあるこの世での人生をどのように過ごすか、どのように生きるか、聖書はすでに示しています。もちろん、一朝一夕に実現する話ではありません。時にはうまくいかないこともあると思いますが、方向性をはっきりすることは大切なことです。そして、聖霊なる神は必ず生きる力を与えてくださいます。

関西弁になる前に

昨日はイーストフェローシップデイで行うHOPカフェの買い出しのため、朝から並木のコストコに行ってきました。待ち合わせ時間より15分以上早くついてしまったので、入り口近くのベンチ目指して下りエスカレーターに乗りました。すると、私の真後ろに子連れの家族が。かなり距離が近かったので会話が聞こえてしまいます。どうやら今日はその幼い息子さんの誕生日らしく、何を食べようか、などと楽しそうな会話が聞こえてきます。ところが、当の本人はあまりの嬉しさのせいか調子に乗ってしまいジャンプしたり、エスカレーターのベルトにつかまって遊んだり。お母さんが何度かやさしく注意していましたが、次第に口調が厳しくなり、最後にこう言ったのです。『あんた、ええかげんにしいよ!』関西弁や、、、。やっぱり関西人は怒ったら関西弁になるんやな、、、。非常に親しみを感じつつ、こう思いました。“ああ、神様が関西弁になる前に注意されたことはちゃんと直さななー。“神様の忍耐の中で、子どもである私たちは育てられているのですね。
(小山晶子牧師夫人)

ガラテヤ 5:7-26

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(5:15)

ガラテヤのクリスチャンたちは、互いに、いがみ合ったり、非難し合っていました。手紙全体から想定できることは、ガラテヤのクリスチャンたちは、ユダヤ民族のしるしであった、割礼や食物規定などの「律法の行ない」によって、神との関係に安心感をもっていました。この「律法の行い」が皮肉にも踏み絵となり、互いを裁き合う結果になっていました。割礼を受けたら一流、割礼がなければ二流。パウロは、クリスチャンのしるしは「律法の行い」ではなく、「聖霊の内住」だと訴えます。神が望んでおられることを一言でまとめるなら、「互いに愛し合うこと」だと言います。パウロの「皮肉」が聞こえてくるように感じます。「それでは、本当に律法を守っているとは言えないですよ。」

ガラテヤ 4:21-5:6

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(5:6)

「キリスト・イエスにあって」ということは、キリスト・イエスの中にあるということです。キリスト・イエスの中に在るかどうかが大事であり、割礼の有無ではありません。割礼はキリストの立場を決定しません。「愛によって働く信仰」ということは、「愛が働いてその存在を発揮する信仰」という意味があります。神がイエス・キリストを遣わして私たちに永遠のいのちをもたらしてくださったその動機は、「愛」でした。私たちの信仰というのは、この神の愛を通して働くものです。ですから、パウロはこのように祈っています。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ三・十九)信仰が働くためには、キリストの愛を知る必要があり、キリストの愛を知るためには、「祈り」が必要です。

戻りたい過去

皆さんは戻りたい過去がありますか。
先日長男とこの話になりました。さかのぼって戻ってやり直したい時代があるか、という話の中で私にも長男にもそんな過去がないということが判明し、笑ってしまいました。結論は「今が一番いい」というところでしょうか。あの時ああすればよかった、こうすればよかった、あんな経験しないほうが良かった、あんなこと言わなきゃよかった。わたしにもそんな思いがないわけではありません。けれどもその失敗や痛み、後悔、その一つ一つが今の私に至るために必要なことだったと思うのです。何よりも、全てを働かせて益と変えてくださる主にお任せできることは本当に幸いなことだと思います。実は今も、大きな試みの中にいます。でもこの出来事もやがて益となることを知っているのです。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがあることをこれまでの歩みの中で学び、体験的に知っています。皆さんの今の痛みもやがて喜びへと変えられていくことを信じます。
(小山晶子牧師夫人)

2コリント 12:1-10

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(12:9)

パウロには問題がありました。多くの学者は、目の問題だと考えていますが、はっきりと分かってはいません。神は彼を用いて多くの人をいやされましたが、彼はいやされませんでした。「いやしてください」と何度も祈った彼に神はただこう言いました。

「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」(LB)

私たちに弱さがあるからこそ、神の力が輝きます。自分に足りなさがあるからこそ、神の偉大さが現されます。マイナスは必ずプラスになります。

「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(10節)