ピリピ 4章

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(6,7節)

不安というのは、神ではなく、恐れに焦点を合わせることです。そして、不安は何も解決しません。不安はただ問題を大きくするだけです。不安になればなるほど、平安を失っていきます。聖書は祈りが信仰への小道だと言います。祈りだけが、物事を適切な視点に置くことができる方法だからです。
もっとも祈りは願いだけではありません。「感謝をもってささげる祈り」もあります。「すべての事について、感謝しなさい。」とあるように、プラスに見えることも、マイナスに見えることも感謝できますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

(リック・ウォーレン師の『祈りの四〇日』から)

祈りの四〇日

二〇一四年八月十二日、創世記一章から一日一章続けてきたデイリーデボーションも、先週、十一月十六日で六六巻終わりました。二〇一八年の新年からまた、仕切り直していきたいと思います。それまで、リック・ウォーレン先生の「祈りの四〇日」という四〇日間のデボーションから共に祈りを黙想していきたいと思います。

黙示録 10章

「七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。」(4節)

聖書には、明らかにされた真理と隠された真理があります。申命記29:29にも、こう記されています。

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」(口語訳)

まず、私たちは明らかにされた真理、たとえば、「イエス・キリストを自分の救い主として信じる人は誰でも救われる」ということは、私たちに属することとして握り締める必要があります。しかし、同時にグレー・ゾーンと呼ばれる隠された部分があることも認めて、神に属するものとして受け止めることも大事です。私たちは知らないことがあるゆえに謙遜になれます。

今日は宗教改革記念日。500年前の今日、ルターはヴィッテンベルクの城教会の門の扉に95カ条の提題を貼り出されたと伝えられています。

(宗教改革記念礼拝のメッセージはこちら

突然のできごと

その知らせはあまりにも突然でした。
私の母校東京基督教大学の学長であり、小山牧師が博士論文でお世話になっている小林高徳(たかのり)先生が出張先のアメリカで天に召された、というのです。心筋梗塞で救急搬送され、ご家族が急遽アメリカへと向かわれたのですが到着前に息を引き取ったのことでした。61歳。あまりにも急な地上での別れに私たちはいまだそのショックの中から立ち上がれずにいます。優しくて、知的でいつも笑顔で私たちを迎えてくださった本当はすごい先生。すごい先生なのに偉ぶったところがまったくなく、気さくで温かい励まし手でもありました。そんな小林先生がこの春卒業する学生に向けて語った言葉を紹介します。

「今の時代は恐らく、『大学を終えたら、自信をもって自分の信じた道を行きなさい。』と語られるのだと思います。しかしむしろ、自分を捨て、自分の十字架を負って、キリストに従うという道を謙遜に歩んでいただけたらと思っています。どんな働きであろうともです。」

(小山晶子牧師婦人)

亀と教会

皆さんにかわいがっていただいているお陰で、亀のジェニーはこの夏これまでとは比べ物にならない速さで大きく成長しました。小さな鼻の穴につぶらな瞳。頭と首を撫でてやると、うっとりと心地よさそうにしていてますますかわいくなっています。亀はご存知のようにヤドカリとは違い 柔らかい部分と甲羅が一緒に成長していきます。甲羅だけがそのままということはありませんし、柔らかい部分が成長せずに甲羅にすっかり隠れてしまうということもありません。固い部分と柔らかい部分は文字通り一体なのです。そんな亀の性質をじっと眺めているうちに、教会とはこういうものなのではないかと思いました。固い人、柔らかい人、目や耳、爪。ゆっくりゆっくり、一緒に成長しながらある時は目に見えて大きくなったりする。それが教会のあるべき姿なのではないかと思ったのです。甲羅だけが大きくなっても、柔らかい部分だけが成長しても意味がありません。わたしたちも亀のようにいろんな部分を抱えながらゆっくりと成長できればと願ってやみません。 (小山晶子牧師夫人)

ミカ書 3章

「しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、」(8節)

ミカは、当時のイスラエルの指導者や預言者の堕落を指摘した後に、こう言いました。

「しかしわたしは主のみたまによって力に満ち、公義と勇気とに満たされ、」(口語訳)

イエス様は、弟子たちに言いました。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)

この力こそ、預言者ミカが体験した力です。この力こそ、私たちが今必要としている力です。私たちはどんなにこの力を体験することが必要でしょうか。この力を求めることよりも、他の何かで誤魔化そうとしていないでしょうか。聖書は言います。

「泣くのも悲しむのも、聖霊が上から私たちに注がれるまでです。そして、悪い荒地に作物は育ち、肥沃な地は森となる。」(イザヤ32:15MSG)

私たちは聖霊に満たされる必要があります。聖霊を求めましょう。

もも

先週夫の反対を押し切り、ちょっと奮発して桃を2つ購入しました。とはいうものの、口腔アレルギーの私には食べることのできないもので(だから反対された)でも、私以外の家族は食べることができますし、特に次男は果物が大好きなので、という理由で強引に購入したのです。が、これがリンゴ並みに硬い!時間をおいてみたものの改善は見られず。硬くてもおいしければいいのですが、ほんの小さなかけらを口に入れてみると甘みもなく、ほんの少し桃の香りがするだけ。仕方ないのでそれを切って保存袋に入れ、とりあえず冷凍庫へ入れてみました。二日後、夕飯にカレーを作ることにしたとき、その桃のことを思い出しました。わたしはお肉を柔らかくするためにバナナを使うのですが、同じ酵素がある桃でも代用できるのではと思い、一緒に煮込んでみたところ大成功でした。お肉が柔らかくなり、とてもおいしいカレーができたのです。視点を変えるって楽しいな、と思いました。神様に視点を変えていただき、新たな発見がある楽しい一週間でありますように。  (小山晶子牧師夫人)

めんどうくさい

若い世代と話していて最近特によく耳にする言葉に「めんど!」という言葉があります。めんど!は「面倒くさい」という言葉の略語だと思われます。ただ、「面倒」はもともとほめるという意味のある「めでる」という言葉から派生したという説もあるらしく、日本語は奥が深いなあと改めて感じています。さて、どうしてこんなことを書いているかというと今朝のデボーションの箇所であったカナの婚礼のところを今日一日黙想していたからです。ぶどう酒がなくなり、水がめに水をいっぱいにしなさいと言われた水くみの人たちは恐らく「面倒くさい」ことをしたのだと思います。面倒とは「手間がかかったり解決が容易でなく煩わしいこと」。現代は待つことが難しい、我慢ができない時代だと感じています。すぐに結果が欲しい、答えが欲しい。でもイエス様の御業は「面倒くささの中」に現わされることがあることに心を留めることは大切なことだと感じたのです。面倒くさいことから逃げていたらせっかくの祝福を見逃してしまうかもしれません。
(小山晶子牧師夫人)

大波小波

あっという間に一か月が過ぎ、7月最後の日曜日を迎えました。あさってからは八月。すっきりしないお天気が続き、湿度も高くてなんだか身体が重だるい気がします。皆さんはいかがお過ごしですか? わたしはタイトル通り、大波小波が繰り返す日々です。病気ではなくとも、わたしたちは心の振り子の振れを感じながら過ごしているのですが、それと信仰を結び付けて罪責感の中に生きているクリスチャンが多いのではないかと思います。つまり、自分の調子の良い時は神様に愛されていると感じ、自分が落ち込んで思うように動くことができないと、こんな自分を神様は愛してはくださらない、と思うのです。自分の弱さを感じた時に初めて、わたしたちは「無償の愛」の本当の意味を知ることができるのかもしれません。そして「弱い時に強い」という御言葉を体験できるのではないかと思います。そう考えると、私自身の今の状態は悪いことばかりはないと思うのです。こんな自分でも、神様の目には貴い存在であると思えることはとてもとても幸せです。
(小山晶子牧師夫人)

はじまりました

先週木曜日からいよいよ会堂の修繕工事が始まりました。あっという間に足場が組まれ、外壁と屋根が高圧洗浄機で綺麗になり、作業は梅雨明けの猛暑の中今日も続けられています。足場の関係で、しばらくは駐車しづらくなると思いますが、どうぞご勘弁ください。実は教会堂を建てるにあたり、予算の関係で表からは見えない外壁の一部に違う種類のものを使用してあります。それが今回、すべて同じ色で塗りなおすので、ようやくどこから見られてもいい状態になることを個人的には非常に喜んでいます。汚れたものの上に新たに塗りなおす、ではなくきれいに汚れを取ってから塗るという作業に信仰生活と共通するものを感じています。高圧洗浄機で壁の汚れを洗い流すように、私たちの心に溜まっていった汚れをイエス様の血潮によって洗い流していただき、日々主の前に新たな気持ちで立つことができればどんなにすがすがしく幸いだろうかと思うのです。教会の外壁がどんどんきれいになるように、教会に集う私たちもまたきよめられていきたいものです。 (小山晶子牧師夫人)

はやいもので

きょうは献堂15周年特別礼拝。
毎年献堂時期を迎えるたびに感謝の思いでいっぱいになりますが、節目の年は特に感動します。それはこの場所が私にとってのエベン・エゼルだからです。『主がここまで導いてくださった』とヤコブが記念の石を置いたように、この会堂を見るたびに、集うたびに、礼拝を捧げるたびに、祈るたびにそれを何度も何度も思い起こすことのできる場所。でも20年近く前、そんな思いを全く描くことも出来なかった時期に与えられた御言葉。『山に登り、木を運んできて宮を建てよ。』これを語るまでの牧師の苦悩をつい昨日のことのように思い出します。この場所に移ってから多くの人が来、多くの人が去っていきました。その喜びと痛みの中に「教会の頭はキリストである」ことを思い知らされる日々の繰り返しでもあったように思うのです。聖霊様の喜ばれる群れであることを求めつつ、聖霊様の流れに身をゆだねてあとどれくらいかはわかりませんが与えられたこの教会での自らの使命を全うしていきたいと願います。  感謝しつつ。(小山晶子牧師夫人)