pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ルカ 23:33-43

「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」」(23:34)

ライト教授はこんなことを言っています。

「イエスは、自分の本当の戦いの相手はローマではないと考えていた。(中略)神の力や愛と真っ向から対峙する真の敵とは、神の創造に敵対する力、死と破壊の力、告発する力、そして、全人類も全世界もすべてが腐敗し、朽ちつつあると叫ぶあの『告発者』であった。(中略)イエスの公生涯を通じて私たちが目にするのは、イエス自身が告発されている、ということだ。」

「告発者」をヘブル語で「サタン」と言います。

私たちはここに、イエス様が、人類全体に向けられた告発を一手に引き受け、その身に負ったことに気づく必要があります。

悪のすべての力と告発とをその身に受け止め、自分に対して悪の限りを尽くさせ、それによってその力を使い果たさせ、「告発者」を打ち負かしました。

ルカ 23:13-25

「けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。」(23:33,34)

群衆がいつも正しいとは限りません。

裁きの座につくピラトも、公正に裁く責任を感じていません。

彼の中心的な目的は、暴動を避けることだったからです。

この過ぎ越しの祭りという時を、大きな問題なくやり過ごすことができれば、それで、良かったのです。

ですから、マルコの福音書の15:15節にはこう記されています。

「それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。」

しかし、私たちは正しい審判者である神がおられることを知っています。

やがて、神はすべてを正されます。

ですから、群衆に流されるのではなく、神の真理に立つことができますように。

ルカ 22:39-53

「するとイエスは、「やめなさい。そこまでにしなさい」と言われた。そして、耳にさわって彼を癒やされた。」(22:51)

ペテロはイエス様の真意を見誤り、剣を抜いて、大祭司のしもべに切りかかりました。

イエス様はそんなペテロを止めて、しもべを癒されました。

ペテロはここで5つの間違いを犯しています。

第一番目に、敵を間違えました。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)

第二番目に、武器を間違えました。

「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」(エペソ6:17)

第三番目に、態度も間違えました。

第四番目に、時も間違えました。

裁くのは私たちではなく神の役割です。神が神の時に、必ず裁きを下されます。

第5番目、理由も間違えました。

神のためだと言って、誰かのことを傷つけるのならば、私たちは間違っています。

ルカ 22:1-13

「彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、」(22:9)

イエス様は過越の食事の準備をするようにペテロとヨハネを遣わしました。

彼らは自分たちで話し合ったのではなく、イエス様に「どこに用意しましょうか」と尋ねました。

イエス様は私たちを遣わされるだけでなく、どこに行けばいいのかも示してくださるお方です。

イエス様は言われました。

いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」(10-12節)

ペテロとヨハネは、イエス様が言われた通りに行ってみました。すると、

イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。」(13節)

御言葉を求め、御言葉に生きられますように。

ああ、花粉症

皆さんは花粉症に苦しんでいませんか。

わたしは今年が人生で一番花粉症の症状が酷いです。

アレルギーの薬は一年中飲んでいるのですが太刀打ちできません。

夜中は咳と口の中の痒みで目が覚め、朝はくしゃみと耳の中の痒みに苦しみ、鼻も目もむずむず、顔も絶えず痒い。

どうも一緒に風邪もひいたらしく深い咳にも悩まされ、咳のしすぎで声がかすれ今日の賛美リードができないという有様。

一応試しにかすれ声で少し歌ってみたのですが全くダメでした。

先週1週間は様々な方面から抱えきれないことが次々と襲ってきて、まるで嵐に翻弄される錨の無い船のようでした。

あまりにも色んなことが起こるのでもう、笑っちゃうくらい。

生きてる!という感じがします。

しんどいですが神様の御心を求めて絶えず祈れることは恵みだと思っています。

この世では私たちは旅人であり寄留者。ほんの束の間の日々です。

挫けそうになる時はイエス様の歩んでくださった十字架の道を深く思い、聖霊様の助けを求めながら与えられた信仰のレースを今週も走る(歩く)ことができますように。

祝福を祈ります。
(小山晶子牧師婦人)

詩篇 61:1-8

「私はあなたの幕屋にいつまでも住み御翼の陰に身を避けます。」(4節)

詩人は神を呼び求める中で、遠く離れていると思っていた神が、身近な「避け所」であることを思い出します。

メッセージ訳ではこんな風に訳しています。

あなたはいつも私に息をする場所、すべてから逃れられる場所を与えてくれました。

息苦しさを感じる人生の中で、誰もが、「息をつく場所」を必要としていると思います。

詩人は息をつくことができる場所を神の臨在の中に見出しました。

「幕屋」も、「御翼の陰」も、神の臨在を象徴する表現です。

人は神の臨在の中で、息をすることができます。

コーリー・テン・ブームは、こんなことを言っています。

「もしあなたが、この世界を見回しているなら、悩むことでしょう。もしあなたが、自分の内側を見ているなら、落ち込むことでしょう。もしあなたが、キリストを見上げるなら、安らぎをえるでしょう。」

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 60:1-12

「神は聖所から告げられました。」(60:6)

多くの学者たちは、これを、エルサレムの聖所で、祭司や預言者によって告げられた託宣と考えます。

それで、「聖所から」と訳します。

しかし、前置詞を考えると、「聖所で」、「聖所の中で」、もしくは、「その聖さによって」(by His holiness)と訳す方が自然だと思います。

要するに、神はご自身の聖さに誓って、約束を与えられたと理解できます。

神の御言葉は、ご自身の聖さに誓って語られた言葉であるがゆえに信じるに値します。

神はその約束を忘れることはありません。

必ず、成し遂げられます。

また、神の臨在の中で神が語られるという世界もあります。

教会で、共に聖書を開き、牧師が語る説教に耳を傾ける中で語られるということがあります。

賛美を歌っているとき、賛美の中で語られるということがあります。

祈りの中で、神が語られるということがあります。

詩篇 59:1-17

「私の力よ、私はあなたを見続けます。神が私の砦だからです。」(59:9)

「見続けます」と訳された単語が、一般的に「見張る」「守る」という意味の単語なので、直訳すると「あなたを私は見張ります」となります。

日本語に訳すことが難しい単語です。

聖書協会共同訳では「言葉」という単語を補って、

わが力よ、私はあなたの言葉を守ります

と訳しています。

「見続けます」ということは、神からの救いをじっと待ち望むことです。

信仰の創始者であり、完成者である、イエス様から目を離さないということです。

「私の力」は、「生きる力」を与えてくれるという意味があります。

それでLBは、「私の力の源」と訳したのだと思います。

頑張るだけではどうにもならないことがあります。

イエス様は私たちに力を与える「助け主」を遣わしてくださると約束してくださいました。(ヨハネ14:26参照)

私たちは聖霊なる神様から日々力をいただく必要があります。

詩篇 58:1-11

「こうして人は言う。「まことに正しい人には報いがある。まことにさばく神が地におられる。」」(58:11)

3つのポイントがあります。

一つの目のポイントは、「社会への影響」です。

「人々は言おう」というところをLBは「だれの目にも明らかになるのです」と訳しています。

神の勝利は、自分だけでなく、社会全体へ影響を与えるものになります。

私たちは自分個人の問題だと思ってしまうのですが、祈りの中で見ることになる神の勝利は、自分だけに収まることはありません。

社会全体へ影響を与えることになります。

周りの人たちは、祈りを聞かれる主なる神を見ることになります。

二つ目のポイントは、「正しい者には報いがある」ということです。

正しく生きることが無意味に思えてしまうような社会であっても、神を恐れ、正しく生きようとする者に、神は必ず報いてくださいます。

三つ目のポイントは、「さばく神が、地におられる」という確信です。

詩篇 57:1-11

「私のたましいよ。目を覚ませ。琴よ。竪琴よ。目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。」(57:8)

表題に

ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに。

とあるように、1サムエル記22章がこの箇所の背景にあると考えられています。

ダビデがこの「洞窟の時」を乗り越えることができた理由の一つは、洞窟の中で確信をもって、賛美を歌うことができたからです。

ダビデの

さあ、歌って夜明けを待とう。」(LB)

という姿勢は、獄中にいたパウロとシラスが、真夜中ごろ賛美を歌っていたという使徒の働き16章の内容を彷彿とさせます。

歌って夜明けを待とう。

という姿勢が、神の奇跡をもたらします。

ダビデは「洞窟にいたとき」に、この賛美の歌を歌いました。

夜明け前、まだ、何も見えない時に、ダビデはこの賛美の歌を歌ったのです。

そして、その賛美の歌声は世界中へと広げられていきました。

神の栄光は全地であがめられています。