pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

Ⅱコリント 5章

「肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(9、10節)

  すべての人は、やがて、キリストのさばきの座に立ちます。しかし、キリストを信じる者たちにとってのさばきの座というのは、賞を受けるさばきの座です。ここで使われている「さばき」という言葉は、オリンピック・ゲームの審判(ジャッジ)に使われる言葉です。この世で、私たちが良い行いをして、人々から称賛されたら、私たちの報酬はこの地上ですでに受け取ったことになります。しかし、主のために奉仕しても、誰からも評価してもらえないことがあります。それらの報いを、このキリストのさばきの座で受けるのです。「よくやった」と言われるその日まで、主に喜ばれることをしていこうではないでしょうか!

Ⅱコリント 4章

「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」(1,2節)

 使徒パウロは、神のみことばを教えるということに対して聖なる畏れをもっていました。異端や新興宗教は、平気で神のことばを曲げて話しますが、それは大変恐ろしいことです。LBでは、「書かれてもいないことを、聖書の教えであるかのように思わせることも、決してしません。」とありますが、神のみことばに対する畏れは、神のみことばを教える立場にある人には必須条件です。聖書はいろいろと解釈できるという人がいますが、そんなことはありません。聖書は、自分が言いたいことをつじつま合わせるために存在しているわけではないからです。聖書には聖書の文脈がありますし、聖書は聖書に解釈させることが大原則です。

Ⅱコリント 3章

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊で
す。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のお
おいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へ
と、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働
きによるのです。」(16-18節)

私たちが一番求められていること、それは、主に向くことです。問題やこの世の
楽しみに私たちが向いているならば、神様が与えようとしている自由を体験する
ことは難しいことでしょう。聖書は言います。「私たちの指導者であり、教師で
あるイエス様から、目を離さないようにしなさい。」(ヘブル12:2LB)ペテ
ロが、イエス様から目を離した瞬間、沈んでいってしまったように、イエス様か
ら目を離してしまうと、私たちの人生は沈んでしまいます。しかし、イエス様の
方に向くのならば、聖霊なる神様が必ず私たちの人生を栄光から栄光へ変えて下
さいます。

Ⅱコリント 2章

「あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。」(7節)

 日本人は道徳観が比較的に高い国民だと思います。そのため、それぞれが持つ倫理規準に達さない人を切り捨てやすいという側面もあると思います。しかし、それはイエス様がしたこととは違います。イエス様はご自身の規準で人々を裁くことはありませんでした。逆に、裁く人を裁かれました。同じようにキリストのからだである教会にいつも必要なのは恵みの雰囲気です。教会は恵みのビニルハウスである必要があります。神の前に悔い改める人が、切り捨てられるのではなく、回復できる場所である必要があります。使徒パウロは言います。「今はむしろ、赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、余りの悲しみと絶望に打ちひしがれて、立ち直れなくなるかもしれません。」(LB)神様は私たちを切り捨てたいのではなく、回復したいのです。

Ⅱコリント 1章

「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(9節)

 使徒パウロはアジアで体験した苦しみに言及し、自分の無力さを痛いほど思い知らされ、自分の許容範囲を超え、死を覚悟したと言います。ところがパウロはこのように告白します。「しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」(LB)パウロは、自分ではどうすることもできないがゆえに、神様だけに頼ることを強制的に学んだと言うのです。神様は時に、私たちが自分自身ではなく、神だけにより頼むことを学ぶために、私たちにはどうしようもないような状況に追い込まれることを許可します。私たちはいつになったらパウロのように謙そんになって、キリストを離れては何もできない(ヨハネ15:5)と認めることができるのでしょうか。

※ 本日の第三礼拝(18時から)は英語礼拝。ジョンT宣教師が来られます!

ルツ 4章

「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。」(13節)

  誠実なボアズは、正当な手続きを経てルツをめとることにします。それは、ボアズよりも権利のある親類が「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。」(六節)と言ったように、彼の財産を失う危険を伴うものでした。ボアズはまさにすべてを捨ててでも、ルツを贖ったのです。イエス様は言われました。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)ボアズにとっては、ルツは宝のようなものであり、彼は彼女のためにすべてを捧げました。ボアズはキリストの象徴であり、ルツはキリストの花嫁である教会の象徴だと言われます。キリストは私たちを贖うためにその命を捧げてくださいました。

ルツ 3章

「彼は言った。『あなたはだれか。』彼女は答えた。『私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。』」(9節)

ルツは義母のナオミの言うとおりにすべてを行いました。ナオミはボアズが彼女に「すべきことを教えてくれる」と言いました。しかし、ルツはボアズに対して自分の意志で、自分から『妻にして欲しい』(「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください」の意味)と頼みました。ルツはナオミに利用された被害者ではありません。彼女自身が望んだのです。神のご計画の中に生きるということは、それは盲目的に従うこととは違います。盲人のバルテマイにイエス様が「わたしに何をしてほしいのか。」(マルコ10:51)と言われたように、神様は私たちに「何をして欲しいのか」と尋ねてくださるお方です。

ルツ 2章

「モアブの女ルツはナオミに言った。『どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。』すると、ナオミは彼女に、『娘よ。行っておいで。』と言った。」(2節)

 スポルジョンの「朝ごとに夕ごとに」にこの箇所についてこんなコメントが書いてあります。「力を落として悩むクリスチャンよ。来て、今日、広大な神の約束の畑で落ち穂を拾え。そこにはあなたの願いを満たすたくさんの約束がある。(中略)落ち穂はあなたの目の前に置かれている。それを拾い集めよ。恐れるな。ただ信ぜよ。これらのすばらしい約束をつかみ、黙想によってもみがらを取り去り、喜びをもってそれを食べよ。」ルツの信仰は受動的ではなく行動的でした。ルツは落ち込んで、ナオミと一緒にあわれみをただ待っていたわけではありませんでした。私たちも聖書を開いてみことばを食べていく必要があります。

ルツ 1章

「そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。」(6節)

 ナオミとその家族は約束の地、ベツレヘムに住んでいましたが、ききんがあったので異教の神々の地、モアブに移り住んでしまいました。問題と言うのは、そもそも私たちが膝を屈めて、神様に祈り求めるためにあります。しかし、ナオミたちは、神様に祈り求めることよりも、手っ取り早い解決を求めて、約束の地を離れてしまいました。その結果、彼女はすべてを失ってしまいました。すべてを失ったナオミは、主を待ち望む者に必要を満たされる神の現実を耳にします。「すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。」(詩篇145:15)驚くことは、神様のもとに戻ってきたナオミに、神様は回復を始められたということです。

Ⅰコリント 16章

「主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願ってい
ます。」(7節)

 使徒パウロは、自分の宣教旅行計画をコリントの教会の人々に伝えるのです
が、こう付け加えました。「主がお許しになるなら。」ヤコブの手紙の中にこう
いう箇所があります。「明日どんなことが我が身に起こるか、どうして分かるで
しょう。・・・ですから、こう言うべきです。『主がお許しくださるなら、私
は、あのこと、このことをしよう。』」(4:14,15LB)神の民として、私
たちは未来に関してこのような柔軟な姿勢を持つ必要があります。自分の計画に
こだわって、神の介入を受け止めることができないのは、寂しいことです。神様
は私たちの人生を最善に導きたいと願っておられます。自分の願いに固執せず、
柔軟に対応していく必要があります。ある牧師はこう言います。「幸いなるか
な、柔軟な人。その人は、折れることはない。」
「主よ、柔軟な心を与えてください。」