pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

詩篇 66篇

「私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ 私たちを連れ出されました。」(12節)詩人にとって、人生は困難なものでした。しかし、今、神は詩人を「よく潤され た地」(MSG)に導き出されました。荒野を通り抜け、渇きをいやす水を飲む時、生き返る心地がします。礼拝とは、キリスト者にとっては、そのようないの ちを与える水のようなものです。

「教会は、キリスト様の体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリスト様の霊が満ち溢れる場所です。」(エペソ1:23LB)

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川 が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)

生ける神に賛美と礼拝を共に捧げるその場所こそ、聖霊が満ち溢れる場所であり、生ける水の川が流れ出る場所です。神は私たちを、賛美と礼拝の場に導かれています。

詩篇 66篇

「私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。」(12節)

 詩人にとって、人生は困難なものでした。しかし、今、神は詩人を「よく潤された地」(MSG)に導き出されました。荒野を通り抜け、渇きをいやす水を飲む時、生き返る心地がします。礼拝とは、キリスト者にとっては、そのようないのちを与える水のようなものです。

「教会は、キリスト様の体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリスト様の霊が満ち溢れる場所です。」(エペソ1:23LB)

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)

生ける神に賛美と礼拝を共に捧げるその場所こそ、聖霊が満ち溢れる場所であり、生ける水の川が流れ出る場所です。神は私たちを、賛美と礼拝の場に導かれています。

詩篇 65篇

「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。」(4節)

使徒パウロは言いました。

「キリスト様のうちにある無限の富が外国人にも分け与えられる、という喜ばしい知らせを伝える者として、特に選ばれたのです。」(エペソ3:8LB)

私たちはみな、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに神に近寄せられました。私たちは神の家の良いもので満ち足りるように召されています。ですから私たちは、神が私たちに与えようとしている無限の富、様々な富を探求していく必要があります。神の無限の富は、祈りを通して与えられます。祈り求める中で、神の無限の富の良いもので、私たちは満ち足りることを体験します。祈り求めなければ体験できない世界があります。

「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」(12節)

詩篇 64篇

「彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦い言葉の矢をはなっています。」(3節)

 私たちを傷つけるものは目に見える凶器だけではありません。苦い言葉、「情け容赦ないことば」(LB)は、わたしたちを傷つけ、落ち込ませ、絶望の淵へと追いやります。思いやりのない言葉は、私たちを苦しめ、立ち上がることを妨げます。しかし、人を生かすのもまた言葉です。生きたことば、命と愛に満ちた言葉は私たちを絶えず前向きな気持ちにし、励ましてくれます。ですから聖書は言います。

「悪意ある言葉を口にしてはいけません。ただ相手に益となり、助けとなること、また、祝福を与えることだけを話なさい。」(エペソ4:29LB)

言葉を発する時、自分の感情や思いをぶつけるのではなく、その言葉が本当に相手の益となるかということを一呼吸置いて考えることも大切です。信仰的、肯定的、前向きな言葉を用いることができますように。

詩篇 63篇

「私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。」(2節)

 教会に集い、天を見上げ、イエス様に求めます。

「私は、あなたの力と栄光を見るために、今日、教会に来ました。あなたの臨在に飢え渇いています。」

「教会は、キリスト様の体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリスト様の霊が満ち溢れる場所です。」(エペソ1:23LB)

神様はご自身の力と栄光を現わす場所を探しておられます。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9)

私たちが賛美と礼拝を通して、神と心を一つにしていく時に、神は栄光と御力を現わしてくださいます。それは1節にありますように、

「私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」

というほどの神の臨在に対する飢え渇きから始まります。

「主よ、あなたに飢え渇きます。」

詩篇 61篇

「私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです」(4節)

 「幕屋」が意味していることは、神の住まいです。私たちはやがて、天の御国で神と共に住みます。しかし、それはこれから後の話というだけではありません。イエス・キリストは私たちに「御国が来ますように」と祈りなさいとおっしゃられました。これは神の住まいが天にあるように、この地にもあるように祈りなさいという意味です。イエス・キリストの誕生は、神の幕屋がイエス・キリストを通して人類に与えられたことを意味します。そしてイエス・キリストの十字架と復活は、この幕屋を地上にもたらしました。具体的には、詩篇22:3にこう書いてあります。

「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」

賛美と礼拝は、神のリビング(Living・生きておられる)・ルームです。私たちが、賛美と礼拝を神に捧げる、そのただ中に、神はおられます。

詩篇 60篇

「神によって、私たちは力ある働きをします。」(12節)

 「神によって」は「神の中で」(in God)とも訳せます。自分がどの位置にいるかが、私たちの人生に影響を与えます。ダビデは、自分を神の中に置くことによってベストを尽くすことができました。自分を神の中に置くことを意識することは大切なことだと思います。私たちは

「神の中に生き、動き、また存在している」(使徒17:28)

のです。このことを意識して生きていくかどうかが、私たちが力強く生きていくために重要です。人にはできないことも神にはできます。神の中に生きているならば、私たちの能力を超えたすばらしいことを期待することができます。それは、自己満足の世界ではなく、神の御国をこの世界に体現していくことです。イエス・キリストの十字架と復活を通して、神の御国がこの世界にはじまっていることを体現する人生です。

「主よ、あなたの御国が現わされますように。」

詩篇 59篇

「しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。神は私のとりで、私の恵みの神であられます。」(16,17節)

 私たちが逆境の中にいるときの一番の処方箋は、神様を賛美することだと言います。表題を見ますと、

「ダビデ殺害を謀るサウル王の配下に包囲された時、ダビデの書いた詩」(LB)

とあります。私たちも、四方八方を問題に囲まれたように感じられる時、ダビデのように朝ごとに神様を賛美することが大切です。私たちが逃げてよい逃げ場は、賛美を住まいとしておられる神様だけですから。神様のもとへ身を避けるなら、ダビデと同じように歌うようになります。

「ああ、私の力そのものの神様」(LB)

と。

「主よ、朝ごとに、あなたを賛美することができますように。」

詩篇 57篇

「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。」(2節)

 誰に呼び求めるかはとても大事なことです。私たちが呼び求めるお方は、いと高き方、神です。力ある偉大なる創造主なるお方です。「光あれ」と言われ、光を創造されたお方です。このお方はまた、キリストを信じる私たちに関わってくださり、私たちのためにすべてを成し遂げてくださるお方です。聖書は言います。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(ピリピ1:6新共同訳)

つまり神は、私たちに成し遂げるために必要なすべても備えてくださっているということです。ですから、この神を信頼して、呼び求めていきましょう。

 

「主よ、あなたの御名を呼び求めます。どうぞ、私のために、成し遂げてくださいますように。」

詩篇 56篇

「神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」(4節)

 「みことばを、ほめたたえます。」というのは、聖書が礼拝の対象という意味ではなく、聖書のみことば、特に神の約束のゆえに、神様をほめたたえるという意味です。私たちの信仰の土台は、聖書のみことば、神の約束です。感情ではなく、聖書のみことばが何と言っているかを優先させます。「肉なる者」という日本語は一般的ではありませんが、人のはかなさを象徴しています。預言者イザヤは、こう表現しています。

「すべての人(肉なる者)は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。」(イザヤ40:6,7)

ダビデは大変な状況、大変な問題に著面してきましたが、この視点をもっていたので、乗り越えることができたのだと思います。「どんな時も神を信頼し、神のみことばを優先できますように。」