pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

雅歌 4章

「花嫁よ。私といっしょにレバノンから、私といっしょにレバノンから来なさい。アマナの頂から、セニルとヘルモンの頂から、獅子のほら穴、ひょうの山から降りてきなさい。」(8節)

 パウロは、新約聖書において、教会とキリストとの関係を花婿と花嫁として描いています。その観点からこの箇所を読むととてもわかりやすく感じます。それは、イエス様が私たちに対してこのように愛を持って呼びかけておられる、ということです。
レバノンは、旧約の時代において異教の民が住む場所(フェニキア人の国)であり、バアル信仰を北イスラエル王国に持ち込んだ悪名高き王妃イゼベルは、フェニキアからイスラエルに嫁いできた人物でもありました。イエス様は私たちをそのような状態から救い出すためにこの地にこられ、『一緒に来なさい。』と、私たちの手をとって脱出させてくださる方です。

雅歌 3章

「没薬と乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上ってくるひとはだれ。」(6節)

 没薬と乳香、この組み合わせを読んで思い浮かべる聖書の場面がないでしょうか。新約聖書のキリスト誕生の時、東方から来た博士たちは救い主への贈り物として黄金、乳香、没薬を携えてきました。没薬とは、実は「ミイラ」の語源となった言葉でもあります。ご存じのように、それは、没薬が死者の埋葬の時に使用されたからです。ですから、そのところからキリストの地上においての使命を、東方の博士たちが理解していた、と考える人もいます。
さて、雅歌のこの箇所において、7節以下は結婚の喜びが書かれています。しかしこの喜びの時に没薬が用いられていることは、結婚が「自分に死ぬ」ことであることを表現していると言えるのかもしれません。今日は主の日。私たちの罪のために死に、葬られ、復活されたイエス様を礼拝しましょう。

雅歌 2章

「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。」(2節)

 谷間のゆりのように、花嫁はいばらの中のゆりのようだと言います。これがイエス様が教会を見る目です。私たちは罪に満ちた世界に存在しています。しかし神様は、私たちにある美しさに目を向けられているというのです。時には、自分たちも汚染されてしまっているように感じる時があります。でも、イエス様は私たちを見て、私たちの美しさを見るというのです。私たちをいばらとは見ないのです。なぜならば、イエス様が私たちのためにすでに十字架の上で死んでくださったからです。イエス様の十字架は自分のためだったと信じ受け入れるならば、私たちはキリストの血潮によって美しくされるのです。たとえ、私たちの汚れが緋のように赤くても、雪のように白くする力があるのです。
「イエス様、あなたの十字架の御業を感謝します。あなたが私たちを特別に見てくださることを感謝します。」

 

雅歌 1章

「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。」(3節)

 雅歌は「歌の中の歌」とも呼ばれますが、夫婦の愛の詩です。聖書は結婚という文脈の中において、夫婦がお互い求め合うことを大切にしています。しかし、それはまた同時に、エペソ5章にあるようにキリストと教会との関係として解釈することも大切です。
今日の箇所を新共同訳ではこう訳しています。

「あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい。」

クリスチャンにとって、イエス・キリストの名前はかぐわしい名前です。「イエス様」とイエス様の名前を口にするだけで、幸せな気持ちになります。イエス・キリストとの人格的な関係があるならば、「イエス様」という名前は特別な名前だからです。

「愛するイエス様、あなたの名前を呼ぶことができる恵みを感謝します。」

コロサイ 4章

「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」(3,4節)

 奥義とは、2:2にこうあります。「キリストご自身にほかならないからです。」(LB)キリスト教とは宗教ではなく、キリストとの関係です。問題は、このキリストとの関係という奥義をはっきりと語るということです。なぜならば、いつの時代も、キリストとの関係を築き上げることを妨げようとする攻撃が存在するからです。ある牧師はこう言っています。「世の中は買い手志向だが、キリスト教会だけは売り手志向。世が求めているものは何かを知るだけでなく、福音がそれを満たすことができるという姿勢が必要。」キリストが、私たちのすべての必要に唯一答えることができるという信仰が大事です。

コロサイ 3章

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(12,13節)

 聖書は、この世で私たちが身につけるものがあると言います。もちろん、神様はありのままの私たちを受け入れてくださったのですが、だからと言って開き直ってしまうのは、聖書が教えている生き方ではありません。具体的に私たちが身につける必要があるのは、不満があっても、互いに忍び合い、赦しあうということです。イエス様がどんなに忍耐され、どんなに赦されておられるかを考える時、私たちもまた、互いに忍耐して、赦し合うという姿勢を身につけていくことが、神様が望んでおられることです。「主よ、私たちにあなたの心を与えてください。」

伝道者 12章

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(13節)

LBではこう訳しています。

「これが私の最終的な結論です。神様を敬い、その命令に従いなさい。これこそ人間の本分だからです。」

つまり、この伝道者の書を通して、ソロモンはこう伝えたかったのです。

「私はすべてをやってみて、人生の答えは、快楽の追求でもなければ、権力の追求でもなく、ましてや、所有物の追求でもなければ、知識の追求でもないことが分かりました。人生の意味は、神への畏れの中にあるのです。」

伝道者の書のキーワードは「日の下」でしたが、それは、神様を抜きに考えるとすべては「空の空」であるということでした。ですから、神を認めて生きることが人生に意味を与え、豊かな人生を歩めると言うことが結論です。今日は主の日。王の王、主の主なる神を礼拝しましょう!

9月の日曜日 September Sundays

 1日(日)  コロサイ1:1 -:8 「そのような愛は」 小山英児牧師 

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC)              (HC)=聖餐式

8日(日)  コロサイ1:9 -:14 「あらゆる力をもって強くされ」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

15日(日)  コロサイ1:15 -:20 「イエス・キリスト賛歌」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

22日(日)  コロサイ1:21 -:23 「踏みとどまり」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

29日(日)  コロサイ1:24 -:29 「栄光の望み」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

伝道者 11章

「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。」(8節)

 LBはこう訳しています。

「長生きしている人は、一日一日をぞんぶんに楽しみなさい。ただし、永遠と比べたら、地上のことはみな空しいことを覚えておきなさい。」

この地上での歩みは、風を追うようなもので、一時的であるということを心にとどめる必要があります。それで、次節で伝道者はさらにこう言います。

「若い人よ。若いことは実にすばらしい。四六時中、青春を謳歌しなさい。したいことは何でもしなさい。欲しいものは何でも手に入れなさい。しかし、自分のしたことはみな、神様の前で申し開きをしなければならないことを覚えておきなさい。」

結局のところ、この地上においても、永遠の神の国と神の義をまず第一に生きること、それが伝道者が伝えたいメッセージです。

伝道者 10章

「もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる。しかし知恵は人を成功させるのに益になる。」(10節)

 新共同訳はこう訳しています。

「なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。」

学ぶことは大切なことであり、継続的なものです。LBはこう訳しています。

「斧の切れ味が悪くなると、力ばかりいるようになります。そんな時には、頭を働かせて刃をとぐことです。」

斧の刃をとぐ時間は、無駄に見えるかもしれませんが、大きな益をもたらします。同じように、学ぶ時間は、無駄に見えるかもしれませんが、大きな益をもたらします。学べば学ぶほど、知らないことに気づき、私たちの生き方にも変化をもたらします。12節には、こう記されています。

「知者の口の言葉は恵みがある、しかし愚者のくちびるはその身を滅ぼす。」(口語訳)