pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ルカ 7:36-50

「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」(7:47)

今日の箇所は、新共同訳の方が分かりやすいと思います。

「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」

「多く愛したから、多く赦された」ではなく、「多く赦されたから、この人は多く愛しました」という意味です。オンヌリ教会のハ先生が、生前、ラブソナタでこんなことを言っていました。「罪をやめることよりも大切なことがある」。私は通訳が間違ったのかなと正直思いました。その後、こうおっしゃられました。それは、「イエス様ご自身に来ることです」と。「その時、わたしはあなたを変える。あなたの人生を新しくする。いやし、あなたの人生の本当の目的を与え、あなたの人生に喜びを与える。あなたの人生に新しいはじまりを与える。」

ルカ 7:11-35

「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。」(7:22)

私たちは、とかく、見えていないもの、聞こえないものに心が奪われやすいと思います。

「どうして、こういうことが起こらないのだろうか?」

「この教会ではどうして、あの教会に起こるようなことが起こらないのか?」

「どうして、私には、あの人に起こるようなことが起こらないのだろうか?」

「隣の芝は青い」と言いますが、イエス様は、「あなたが今、見ていること、聞いていること、」即ち、

「起こっていないことではなく、今、起こっていることに目を留め、耳を傾けるように」

と私たちに語っています。なぜなら、イエス様が

「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17)

と言われたように、今も、イエス様は、私たちひとりひとりの人生に働かれているからです。

ルカ 6:37-7:10

「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。」(6:47)

ある神父がこんなことを言っていました。

「キリスト教に出会っても、キリストに出会っていない人もいる。

キリスト教の中にいても、キリストに出会ったことのない人たちの集まりにもなりうる。」

「それを行なう」ということにだけ焦点を合わせてしまうならば、そうなる危険があります。キリスト教文化は広めても、キリストがいないということがあり得ます。イエス様はまず、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き」とおっしゃられました。自分の理想をキリストに押し付けるのではなく、キリストのもとに行き、キリストに聴く姿勢が必要です。イエス・キリストとの個人的、人格的な関係が何よりもまず必要です。

ルカ 6:12-36

「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」(6:12)

イエス様は山に登り、神に祈りながら弟子たちを選ばれました。イエス様が、選ばれた人々は、はっきりいって、それにふさわしいとは、決して呼べない人たちでした。「イエス様、あなたは確かですか?本当に、祈られて決められたのですか?」と言いたいようなメンバーでした。実際、彼らは、イエス様を見捨てて、逃げてしまったような人たちでした、人生の中で、私たちはいろいろな決断に迫られることがあります。しかし、祈って、祈って、祈って決断したことであるのならば、万事を益としてくださると約束された神に信頼して安らぐことができます。商品ならばクーリング・オフができますが、人生にはできないことが多々あります。イエス様がそうであったように、大事な決断をする前には、「祈って、祈って、祈って決断する」という方法は、聖書が進めている決断方法です。

ルカ 5:33-6:11

「イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。」(6:3)

「読まなかったのですか」という表現が意味していることは、「あなたがたの聖書解釈は間違っている」ということです。安息日というのは、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと、禁止事項で人々を縛るために与えたわけではないということです。ここで、ダビデが例として出てきているところにも意味があります。神はダビデを

「わたしの心にかなう者、わたしの意志に完全に従う者だ」(使徒13:22LB)

とおっしゃられました。つまりダビデは神の真意を理解していたから、律法に縛られることなく行動することができたというのです。

今日は主の日。神の真意を理解できるように、共に礼拝を捧げましょう!

ルカ 5:17-32

「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。」(5:17)

イエス・キリストがこの地上でなされた働きの一つは、

「主の御力をもって、病気を直しておられた」

ということです。ルカの福音書を書いた、ルカと言う人は、お医者さんでした。(コロサイ4:14参照)ですから、特に、キリストが病気を癒されたということに興味があったのだと思われます。興味深いことに一般の人よりも医者の方が「神のいやし」に興味があるようです。いやしの伝道集会に、有名な病院の医者の方がおられてびっくりしたことがあります。しかし考えてみますと、日夜「病気を治す」ことに心を注いでいるのですから、興味があって当然なのかもしれません。神は今も、いろいろな方法で病気を癒されます。

ルカ4:38-5:16

「するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。」(5:5,6)

ペテロは何もしなかったわけではありません。夜通し働きました。だから、もう無理だと思ったのです。しかしペテロは、自分の考え方を優先しないで、

「でもおことばどおり」

と、イエス様に従い行動したときに、神の栄光を見ました。私たちはやらない理由を考えることは得意です。ペテロが、「プロの私たちが、夜通し働いてダメだったのですから、無理ですよ」と切り捨てたとしても、私たちは当然だと思います。「でも」、ペテロが、イエス様の「おことばどおり」網を下ろしたから、神の力を体験することができました。私たちは「でもおことばどおり」という信仰が必要です。

ルカ4:14-37

「イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」」(4:21)

4章18,19節はイエス様のこの地上における目的宣言文と言われます。これらの目的がイエス様が来られたことによって実現したと言われました。5つの目的があります。

第一番目は、「貧しい人々に福音を伝える」ため。

第二番目は、「捕らわれ人に赦免を告げる」ため。

第三番目は、「盲人に目の開かれることを告げる」ため。

第四番目は、「しいたげられている人々を自由にする」ため。

第五番目は、「主の恵みの年を告げ知らせる」ため。

イエス・キリストは、今も、聖霊なる神様の力をイエス・キリストを信じる者たちに注いでくださって、一人でも多くの人が、神に立ち返ることができるように、この恵みの年を宣言して欲しいと願っておられます。

ルカ3:23-4:13

「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり」(4:1)

これはとても不可思議な箇所です。

「さあ、今、私についてきなさい。」

「どこに行くんですか?」

「荒野に行きます。」

「荒野で何があるんですか?」

「あなたは、悪魔に誘惑されるんですよ。」

「あなたは、わたしを愛してるといったじゃないですか。」

「そうですよ。」

「わたしを喜ぶといったじゃないですか。」

「そうですよ。」

「それでは、わたしはどこに行くんですか?」

「悪魔に誘惑されるために、荒野に行くんですよ。」

「わたしが、何か悪いことしましたか?」

「いいえ、わたしはあなたを喜んでいますよ。」

「で、どこに連れて行ってくださるのですか?」

「荒野ですよ。」

「???」

神はあえて愛する者が試みに会うことを許されます。それは、神は私たちの歩みを気にかけておられるがゆえに、

「荒野で恵みを見出す。」(エレミヤ31:2新改訳二〇一七)

という世界を体験させたいからです。

ルカ3:1-22

「そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」(3:4)

私たちにとって一番大切なことは、主の道を用意することだと聖書は言います。私の道ではなく、誰かの道でもなく、「主の道」です。この箇所はイザヤ書の引用だと書いてありますが、イザヤ書40:3にこう書いてあります。

「主が通られる道を準備せよ。荒野に、平らでまっすぐな道を、主のために準備せよ。」(LB)

「主の道」は、明らかに神がお通りになる道のことです。神がお通りにまる道は、バプテスマのヨハネの姿を見るならば、イエス・キリストを指し示すことであることが分かります。ヨハネは言いました。

「私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。」(16節)

イエス・キリストを指し示す姿勢が主の道を用意します。