pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ダニエル 9章

「私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。」(20-23節)

祈っているのに何も起こらないと思っていることがあるでしょうか?あきらめないでください。神はあなたの必要をご存じであり、すでにあなたの祈りを答えるプロセスの中にあるからです。たとえ遅れているように感じても、突然、答えは与えられます。祈り続けてください。

マタイ 2章

「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」」(1,2節)

イエス・キリストのご降誕を知ることが出来たのは、羊飼いと東方の博士たちだけだったことは私たちに多くの示唆を与えます。日々のあわただしい生活の中で、夜空を見上げる時間があった人が気づくことができたと考えるならば、私たちの生活のあり方も見直す必要があるかもしれません。テレビやスマホなどを置いて、どれだけ夜空を見上げるように主のみことばで心を満たしているでしょうか。

ルカ 2章

「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。

『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』

すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。

『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」(9-14節)

今日は主の日であり、クリスマス・イブです。私たちのためにお生まれになられたイエス・キリストに、共に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 1章

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」(1-8節)

イエス・キリストは闇の中に輝いている光です。バプテスマのヨハネはこの光についてあかしするために来たと言います。私たちもこのクリスマス、一人でも多くの人に光についてあかしすることができますように。

ミカ 5章

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(2節)

ベツレヘムはダビデ王の出身地であり、旧約聖書ではメシヤはダビデの子孫だと言います。ですから、イエス・キリストがベツレヘムで生まれることには意味がありました。ローマ皇帝アウグストは、自分を力ある神のように思い上がりながら住民登録をせよと勅令を出しました。この勅令のゆえにヨセフとマリヤはベツレヘムに行かなければならず、イエス・キリストはベツレヘムで生まれました。つまりローマ皇帝アウグストでさえも、神の御手の中にあったのです。カオスのように見えるこの世界も神の御手の中にあります。すべてを治める王の王、主の主なる神を見上げることができますように。

イザヤ 9章

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(6,7節)

旧約聖書はメシアが生まれることを予言しました。イスラエルのメシアとは、「平和の君」と呼ばれる存在です。「平和」と訳された単語は「シャローム」。それは、単に「争いがない状態」という意味だけではありません。欠けや隙間がない完全なれんが造りの壁という意味があります。つまり、イエス・キリストは、壊れた関係を修復し、癒し、回復するために生まれました。イエス・キリストは、神との関係、他者との関係に、シャロームをもたらす平和の君です。

ダニエル 9章

「私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。」(18節)

祈りは、私たちの善行に土台しません。神の大いなるあわれみに土台しています。あわれみとは何でしょうか?辞書ではあわれみを二通り定義しています。

一つ目は、「罰することを止めること」。

二つ目は、「予期せぬ親切」。

神のあわれみにもこの二通りを見ることができます。赦しの側面と共感の側面です。赦しの側面は、私たちがどんなに罰を受けるのにふさわしくてもそれを控えられること。共感の側面は、予期せぬ親切をもって私たちを助けてくださること。神のあわれみのゆえに、神はあなたが許しを求め、助けを求めるように招かれています。

ダニエル 9章

「あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。」(9節)

この世界は神を裁きの神として描写します。しかし神は、何よりもまずご自身をあわれみの神として現わされます。あわれみは聖書における神の第一のご性質です。神の主権、全知、全能、遍在よりも、怒り、正義、裁きよりも、神の第一の性質はあわれみです。神がモーセにご自身の栄光を現わした時、十戒を与えた時、神はこう言われました。

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み」(出エジプト34:6)

まず何よりも主はご自身を、

「あわれみ深く」

と言われています。

「主、主は、正しく、義であり」でも、「永遠であり、全能である」でもありません。まず神は言われます。

「わたしはあわれみ深い神。わたしがあなたのためにするすべてのことは、わたしのあわれみから流れ出ている。」

ダニエル 9章

「私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。」(4節)

神に何かを求める時、私たちは感謝の心をもって求めることが大切です。神の愛と神の約束に感謝しましょう。神のやさしさと信実に感謝しましょう。具体的に、感謝リストを作りましょう。そして、神に何かを求める前に、数分間、神が何をしてくださったかを感謝しましょう。感謝をすればするほど、神のご性質を知ることができます。そして、神のご性質を知れば知るほど、あなたが祈る時、さらに信仰をもって祈ることができます。