pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

2列王記 10章

「しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。」(31節)

エフーはイスラエルの国における宗教改革を徹底的に行った人物だと考えられていました。彼はイスラエルにバアル宗教を導入したイゼベルをはじめ、バアル礼拝者を一掃しました。しかし、聖書は言います。

「ところがエフーは、真心から神様に従おうとはしませんでした。」(LB)

エフーは確かに神様に従って、イスラエルの中にあった悪を一掃しました。しかしチャック・スミス師は、エフーはこれらを政治的な動機でしていただけで、霊的な動機ではなかったと指摘します。エフーの動機は、神様に対する畏れではなかったと言うのです。今も昔も、宗教戦争という名目で利権の戦争が世界中で起こっています。私たちは表面的な部分で判断しないように気をつける必要があります。

神様は心を見ます。

2列王記 9章

「ヨラムはエフーを見ると、「エフー。元気か。」と尋ねた。エフーは答えた。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行なわれているかぎり。」」(22節)

「元気か?」と訳された言葉の原語は「シャローム」。あいさつのことばですが、「平和、平穏無事」という意味があります。ですからエフーは「何が元気か!」ではなく「何が平和か!」と言いました。F・B・マイアーは、こんなことを言っています。

「イゼベル的な不貞や色香をゆるすかぎり、真の平和はありえません。イゼベルはその奸計と容色とをもって虚飾の世界に君臨しました。けれども、その魅力がいかなるものであろうとも、真の平和が来る前には、それは吹き飛ばされなければなりません。」

神に油注がれたエフーによってイゼベルがつくりあげた偽りの平和は吹き飛ばされました。そして今、平和の君、イエス・キリストの十字架によって本物の平和はもたらされます。

2列王記 8章

「彼が王に、死人を生き返らせたあのことを話していると、ちょうどそこに、子どもを生き返らせてもらった女が、自分の家と畑のことについて王に訴えに来た。そこで、ゲハジは言った。『王さま。これがその女です。これが、エリシャが生き返らせたその子どもです。』」(5節)

エリシャは、子どもを生き返らせた婦人に、イスラエルに飢饉があるので家族を連れて疎開するように言いました。飢饉が終わり、イスラエルに戻り、王に自分の家と畑を返してくれるように願い出ると、

「たまたま王は、エリシャのしもべゲハジと話している最中でした。」(4節LB)

ちょうどゲハジがエリシャが子ども生き返らせた時のことを話していた時に、この婦人が王に願いに来たのです。その結果、全部返していただくことができました。神様の導きに従って行くならば、「たまたま」、「ちょうどそこに」という神の摂理を体験することができます。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

2列王記 7章

「さて、町の門の入口に四人のらい病人がいた。彼らは互いに言った。「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。」(3,4節)

「愛する友よ。この書は主として信者への教訓として書かれたものだが、もしあなたが救われていないならば、私は心からあなたに同情し、あなたの祝福になることを語りたいと思う。聖書を開いて、らい病人の物語(Ⅱ列王記7章)を読んでいただきたい。なんと彼らの状態はあなたのそれと似ていることか。もしあなたが現在の所にとどまっているならば、あなたは滅びなければならない。…不機嫌に失望の色を浮かべじっと座っていても、破滅が来た時、だれもあなたを顧みるわけではない。…しかし、主の側に立って、主を求めるならば、あなたは主を必ず見いだすということを私は保証したい。イエスはご自分のもとに来た者を捨てられたことがない。」(スポルジョン)

イエス様の中に希望があります。

2列王記 6章

「そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」(17節)

アラムの軍勢がエリシャの町を包囲しているのを見て、彼のしもべは恐れに縛られていました。それで、エリシャが彼の目が開かれるように祈ると、アラムの軍勢を天の軍勢が取り囲んでいるのが見えました。日常生活の中であまり意識しないかもしれませんが、霊の次元というものがあります。私たちは物質的な次元しか見ていないので、すぐ落胆し、行き詰まりを感じてしまいます。物質的な次元では、私たちの敵はあまりにも強大に見えてしまいます。しかし、エリシャは言いました。

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」(16節)

2列王記 5章

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」(14節)

ナアマン将軍は、ツァラアトに冒されていました。(「ツァラアト」は、二版では「らい病」と訳していましたが、「ハンセン氏病」など、特定の病名と結び付けられないことから三版でヘブル語表記となりました。)彼は自分の病気をいやしてもらうためにわざわざエリシャのもとに来たのに、エリシャが出て来てあいさつもせず、ただヨルダン川に七たび身を浸すように言ったことに腹を立てました。しかし、部下の進言に耳を傾け、エリシャが言ったとおりに実行しました。その時、いやしを体験しました。どんなに納得できなくても、「神の人の言ったとおりに」、現代の私たちに適用するなら、聖書のみことばとおりにという姿勢が、人生に奇跡をもたらします。

2列王記 4章

「器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。」(6節)

エリシャが言うように、からの器を集めて、その器に油をつぐと、油は尽きることなく次々にその器をいっぱいにしました。しかし、器がなくなると、油は止まりました。アルゼンチンのリバイバリスト、アナコンディア師は、

「空の器を捜して歩き、愛の油を注ぎ続けよう」

と言いました。

「愛の油を注ぎ続ける限り、油注ぎは止まることはありません」

と。私たちは愛の油を求めます。しかし、現実は、「これっぽち」と思っても、空っぽの人々に注ぎ続けることによって、愛の油が止まらないことを体験します。私たちが注ぐ愛は、自分の愛ではなく、神の愛だからです。ですから、愛の油が止まったと感じるのは、注ぐ器を見失っているからかもしれません。

2列王記 3章

「しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、」(15節)

エリシャはイスラエル、ユダ、エドムの求めに応じて神様からの預言をするために、立琴をひく者を呼んで、立て琴をひき鳴らす中で主の手がエリシャの上に下り、語りはじめました。聖書を見ますと音楽と神の油注ぎが切り離すことができない関係にあることを見ます。ですから教会において、礼拝音楽はとても重要な位置にあります。賛美の中で私たちの心は神のことばを聞く心に整えられ、私たちの人生の中における聖霊様の働きに心の扉を開くことができるからです。聖書にこう書いてあります。

「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(エペソ5:18,19)

2列王記 2章

「渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。」(9節)

預言者エリヤがエリシャに、何でも「求めなさい」と言いました。もし、自分がエリシャの立場だったら、何を求めるでしょうか?この世の一時的な楽しみを求めるでしょうか?エリシャが求めたのは

「エリヤのいのちが、自分の人生に繰り返されること」(メッセージ訳)

でした。エリシャは、エリヤのような人生を歩みたかったのです。それはエリヤがそうであったように、自分も聖霊の力で満たされて生きたいという祈りだったと思います。旧約聖書の時代、聖霊は限定的な人にしか注がれませんでした。しかし、ペンテコステの日以来、聖霊はキリストを信じるすべての人に注がれます。

2列王記 1章

「そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリヤの王の使者たちに会い、彼らに言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。」(3節)

「バアル・ゼブブ」は「ハエの主」という意味で、ハエによって疫病が運ばれるので、災いをもたらす悪神として恐れられていたと言われます。新約では「ベルゼブル」「ベルゼブブ」と呼ばれ、悪魔的要素を持つものとして提示されています。イスラエルの王は、まことの神を拒絶した結果、そのような悪魔的要素をもつペリシテ人の悪神に助けを求めたと言うのです。イエス様は言われました。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)

悪魔に助けを求めても騙され滅ぼされるだけです。

今日は主の日。主を求めましょう。