pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

詩篇 129篇

「主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。」(4節)

ユージーン・ピーターソンという学者は「主は、正しくあり」を

「主はそれに甘んじず、私たちから離れない」

と訳しています。そして、こんなことを言っています。

「この詩で強調されていることは、神と私たちとの関係です。神は私たちのためにいつもそこにおられるということです。私たちの人生の中にある神の臨在こそが、私たちが人生を振り返ることができる理由です。」

キリスト者が人生を振り返り、神をほめたたえることができる理由は、神の臨在をそこに認めることができるからだと言います。どんなに辛かったことも耐え忍ぶことができたのは、そこに神がおられたからだと。辛かったこと、悲しかったこと、苦しかったこと、失望したこと、その所を祝福の場所として見るとき、痛みは詩の一行となります。

※ 明日は、リラの塚田献先生(高田聖書教会牧師)がメッセージです。

詩篇 128篇

「あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。」(2節)

聖書は自分の手の勤労の実を食べることは幸せなことと教えます。労働に対する報酬を受けることが、人に満足感を与えます。この世においては

「自分の仕事に生きがいを見いだす以上に幸福なことはない」(伝道者3:22LB)

とまで言います。神を信頼して正しく生きようと努め、正当な報酬を受けるならば、本当の幸福を体験します。

「その人へのほうびは、繁栄と幸福です。」

「これこそ、主を信頼する人たちの姿です。主が天から祝福と喜びを注いでくださいますように。」(2,4,5節LB)

ジョン・ウェスレー師はこう言いました。

「できるだけ儲けて、できるだけ貯めて、できるだけ与えなさい。」

勤労の実である富と繁栄を何に用いてるでしょうか。主は言われます。

「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」

詩篇 127篇

「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(1節)

神が建築責任者となってくださいますが、私たちが建てなければ家は建ちません。神が守ってくださいますが、見張りが必要ないというわけではありません。私たちの側がすべき分と神がなさる分があります。ですから、主を信頼することは、受け身になって、何もしなくてもいいということとは違います。逆に、謙遜に自分の分を努めることが求められます。神の御国がこの地にもたらされることを祈り求めるということは、自分がその神の使命(ミッション)に積極的に生きることも意味します。ただ、同時に2節のことばを忘れないようにする必要があります。

「主は、愛する者には必要な休息を与えようとなさるお方です。」(LB)

休息もまた、私たちの分です。

詩篇 126篇

「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(5,6節)

神は私たちが涙の谷に行くことを許可されることがあります。目を泣きはらして出ていくことを許されることがあります。なぜなら、そのような状況の中で、人はやっと祈りに導かれて神のもとに行くことができることを知っているからです。砕かれて、神を求める時、神が答えてくれます。私たちが求める正しい相手は、生ける神、イエス・キリストです。主は祈りに答えて、私たちの涙を喜びに変えてくださいます。泣きはらした目も、喜びの叫びに変わります。マイナスはプラスになります。万事は益となります。それを見て、人々は言うようになります。

「主は彼らのために、おどろくべきことをなさった。」(2節LB)

詩篇 125篇

「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。」(1,2節)

LBでは、こう訳しています。
「主を信頼する人は、シオンの山のように、どのような状況でも動じません。エルサレムがその周囲の山々に守られているように、主もご自分の民を取り囲んで、守ってくださいます。」

私たちの主は、私たちを取り囲んで守ってくださるお方です。ですから、どんな状況でも動じないというのです。私たちの心は、ちょっとした状況の変化にも動揺しやすいところがあります。すぐ、不安になってしまうこともあります。もっともシオンの山には、神の臨在の象徴である神殿がありました。「シオンの山のよう」という意味には主の臨在への意識があると思われます。まさに、主が共におられるということを認識することこそ不安に対する処方箋だからです。

詩篇 124篇

「「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。」(1節)

「もしも神が私たちの味方でなかったなら」と考えるだけで恐ろしくなります。すべてをご存じで、私たちを気にかけ、愛してくださっている神を信じるからこそ、私たちは安心して日々生きることができます。私たちはイエス・キリストの十字架を通して確信をもつことができます。神の側から私たちの手を離すことはありません。しかし、私たちの方が、神の御手を振りほどき、自分勝手な道を突き進むならば、神と敵対して歩むことになります。ですから、わたしたちは自分が今どこにいて、どこに向かっているのかを日々確認する必要があります。神とともに、歩む時にパウロが語ったこの約束は確かに私たちとともにあります。

「神が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

詩篇 123篇

「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。」(1節)

礼拝は神に目を上げることから始まります。神は天の御座に着いておられます。すべての上におられます。信仰の人は神を見上げます。見下げたりしません。神の御子、イエス・キリストは仕える者となられました。しかし、それは私たちが神を利用できるという意味ではありません。神は、人が自分の快適さを保つために命令できるようなしもべではありません。もし、神を理解したいならば、私たちは目を上げる必要があります。権威の場所、聖書のみことばを見上げる必要があります。立ち位置を間違えないように気をつける必要があります。神は神であり、創造者です。人は人であり、被造物の一つです。驚くことは、そんな私たちを神は心にかけ、愛されているということです。週の初めの日、まず、神に目を上げることから始めましょう。

詩篇 122篇

「エルサレムの平和のために祈れ。『お前を愛する人々が栄えるように。』」(6節)

これは、ダビデによる都上りの詩篇です。エルサレムは、イスラエルの人々にとって国の中心であると同時に、精神的なよりどころでもありました。なぜならそこには神殿があり、神殿は神の臨在の象徴だったからです。彼らはそこで神を礼拝し、賛美をささげ、祈りをささげました。エルサレムの重要性は時代が移り変わった今でも変わりません。現在のエルサレムには、いたるところに戦争の傷跡、弾痕が残っています。神の臨在の象徴であった都が、傷だらけであるという現実は、イエス様がエルサレムを見て涙を流されたことを思う時に、私たちの心を絞めつけます。エルサレムの平和のために祈りましょう。また、神の臨在の象徴という意味で、自分が所属する地方教会のためにも祈るように命じられています。地方教会は世界の希望です。

詩篇 121篇

「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(4節)

私たちが必要なとき、神はいつもそこにおられます。いつでも私が呼ぶとき、神は答えられます。神はまどろむことも、眠ることもありません。人間は神にはなれません。すべての必要に人は答えることはできません。人はまどろむこともあれば、眠ることもあるからです。ですから、私たちは神に期待する必要があります。自分の期待に答えてくれる人を探すのではなく、神を求めることです。詩人は山に向かって目を上げました。目の前に立ちはだかる、問題の山の前に、

「私の助けはどこからくるのだろうか」

とつぶやかずにいられないような心境だったのでしょうか。そんな中で詩人はこの山さえも造られた創造主なる神に心を向けます。目の前に立ちはだかる問題も、神の許可なくして存在することはありえません。ならば、神には、その問題をも解決することができます。