pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ピリピ 2:12-30

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(2:13)

原文を直訳しますと、

「というのはあなた方の内に、神が喜ばれることのために、意志と行いの両方に働きかけている方は神である。」

となります。神は私たちの意志と行いとの両方に働きかけておられると言います。神が喜ばれることをしたいという思いも、実際に、神が喜ばれる行いができるように助けてくださるのも神だと言うのです。つまり、私たちは神が喜ばれる生き方を選ぶことができるということです。ですから、パウロは続けて言います。

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」(14節)

つまり、キリストを信じる者は、不平不満の人生ではなく、すべてのことを感謝して生きる力が与えられていると言うのです。

カレーライス

日米で牛肉とオレンジ輸入自由化が1988年に合意に達するまで、少なくとも我が家において牛肉が食卓に上るということはあまりなかったように記憶しています。瀬戸内海で育ったせいか魚を食べることが多く、今振り返ってみても印象に残っている母の料理に牛肉が使われていた記憶はほとんどありません。しかし、そんな我が家でも唯一絶対に牛肉以外使うことがなかった料理がカレーライスです。ですから、日本のカレーライスには牛肉だとずっと思っていました。ところが先日ある番組で“関東ではポークカレー、関西ではビーフカレー”と聞き驚きました。関東育ちの家族に聞いてみたところ、関東ではポークカレーが一般的であることを聞きさらにびっくり。知りませんでした。今日の食事会は、これでもか!というくらい牛肉が入ったカレーです。食事をしながら教会を共に建てあげるために時間をとることは楽しみでもあり、喜びでもあります。バナナが入った牛肉カレーをどうぞお召し上がり下さいませ。ポークカレーが好きな人、ごめんなさい。 (小山晶子牧師夫人)

ピリピ 1:27-2:11

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(2:6-11)

この箇所は「キリスト賛歌」と呼ばれ、初代教会の讃美歌だったのではと言われています。「それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とあるように、キリストに倣ってへりくだって生きるのがキリスト者です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ピリピ 1:1-26

「それは、私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」(1:20)

「私の身によって、キリストがあがめられることです。」を直訳するならば、

「キリストが私の身体の中で大きくなることです」

と訳せます。キリストが大きくなると言うことは、自我の割合が小さくなることです。バプテスマのヨハネも、

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:20)

と言いましたが、キリストが大きくなり、自分が小さくなるというのは、信仰者の心です。この時、パウロは投獄され、判決を待っていましたが、彼の心はいわゆる運命にではなく、結果的に、

「キリストがあがめられること」

という願いで満たされていました。私たちのすべてが、主に栄光を帰すものとなりますように。

エペソ 6:1-24

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(6:18)

パウロはこの世界には霊的な戦いがあることを述べ、すべての霊的な武具を身につけるように命じます。そして、祈ることを強調します。私たちの祈りの姿勢が、私たちの信仰を表します。ここで命じられている祈りは、自己中心的な祈りとは違います。リビングバイブルではこう訳しています。

「どんなことでも、聖霊の考えにそって神にひたすら願い求めなさい。」

私たちは、神の御国(主権)がこの地上に現されることを祈り求めます。神のみこころが天の御国で行なわれているように、この地上でも行なわれることを祈り求めます。神中心の祈りです。自分のためだけではなく、「すべての聖徒のために」祈る祈りです。

エペソ 5:8-33

「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(5:19)

賛美の歌を心から歌うことは、どうでもいいことではなく、聖書が命じていることです。現代におけるサタンの巧妙な罠の一つは、「陶酔」という言葉を利用して、心を込めて、聖霊に満たされて、主に歌うことを妨げようとしてることだと思います。知的に歌うことも大切ですが、「霊の歌」という表現もあるように、我を忘れて聖霊に導かれて歌うことも大事なことです。実際、賛美をしなくなると、私たちの口は不平と不満ばかりが出てきます。昔も今も変わりません。賛美を妨げる人々の間でなされていたのは下品なものでした。ですから、パウロは言います。

「また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」(4節)

エペソ 4:17-5:7

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(4:29-32)

バングラデシュの児童養護教育施設のホーム・オブ・ピースの毎朝の教職員祈祷会の中で、この箇所が唱和されます。なぜなら、これが教師のあるべき姿勢だからだと言っていました。もちろん、教師でなくても自分の人生訓として毎朝このみことばを宣言するならば力となります。

エペソ 4:1-16

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(4:1-3)

私たちはご利益のためではなく、キリストに召された者としてふさわしい生き方が求められています。具体的には、

「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保」つこと

です。これが、この地上に神の御国を現すためにふさわしい生き方です。与えられた限りのあるこの世での人生をどのように過ごすか、どのように生きるか、聖書はすでに示しています。もちろん、一朝一夕に実現する話ではありません。時にはうまくいかないこともあると思いますが、方向性をはっきりすることは大切なことです。そして、聖霊なる神は必ず生きる力を与えてくださいます。

エペソ 3:1-21

「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(3:19)

メッセージ訳では今日の箇所をこう訳しています。

「満ちた(Full)人生を生きよう。神の満たし(Fulness)の中にある満たし(Full)に。」

神の満たしの中にある満たしに満ちた人生は、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることから始まります。もし、満たされていないと感じているならば、キリストの愛を知る必要があります。キリストの愛は十字架に現されます。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(15:13)

キリストが私たちを愛するために、十字架でいのちを捨てたことを黙想し、自分の心に語りましょう。

「すべてはわたしを愛するため。これほどの犠牲を払ってくださった。」

※ 本日は、御殿場の教会でTPKFイースト・フェローシップ・デイが開催されます!HOPカフェも開催されます。

関西弁になる前に

昨日はイーストフェローシップデイで行うHOPカフェの買い出しのため、朝から並木のコストコに行ってきました。待ち合わせ時間より15分以上早くついてしまったので、入り口近くのベンチ目指して下りエスカレーターに乗りました。すると、私の真後ろに子連れの家族が。かなり距離が近かったので会話が聞こえてしまいます。どうやら今日はその幼い息子さんの誕生日らしく、何を食べようか、などと楽しそうな会話が聞こえてきます。ところが、当の本人はあまりの嬉しさのせいか調子に乗ってしまいジャンプしたり、エスカレーターのベルトにつかまって遊んだり。お母さんが何度かやさしく注意していましたが、次第に口調が厳しくなり、最後にこう言ったのです。『あんた、ええかげんにしいよ!』関西弁や、、、。やっぱり関西人は怒ったら関西弁になるんやな、、、。非常に親しみを感じつつ、こう思いました。“ああ、神様が関西弁になる前に注意されたことはちゃんと直さななー。“神様の忍耐の中で、子どもである私たちは育てられているのですね。
(小山晶子牧師夫人)