pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ローマ 11:33-12:21

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(12:2)

「心の一新」は新改訳二〇一七では

「心を新たにすること」

と訳しています。私たちの考え方、思考を変えることによって自分を変えるように求めています。私たちは神のみことばを日々心に蓄えて、考え方そのものを聖書的な思考に変えることによって自らを変える必要があります。そうするならば、神のみこころが良いものであり、神に受け入れられるものであり、完全であるということを証明することができます。「自分を変えなさい。」は新改訳二〇一七では

「自分を変えていただきなさい。」

と訳しています。そのように、中間態ではなく、神的受動態とも考えられます。いずれにせよ、考え方を刷新する必要があります。今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう!

ローマ 11:11-32

「あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。」(11:18)

聖書は

「誇ってはいけません。」

と言います。この動詞は継続を意味しますので、

「他の人と比較して勝ち誇る習慣をつけてはいけない」

という意味です。

「彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。」(20節)

ユダヤ人の問題は、

異邦人と比較し、

高慢になり、

神の恵みを忘れ、

神への信仰を忘れ、

自分たちが何か偉大な者にでもなったかのように、

驕り高ぶってしまったことです。

この原則はえこひいきなしに、ユダヤ人以外の異邦人にも適用されます。私たちも、

他者と比較して、

高慢になり、

神の恵みを忘れ、

神への信仰を忘れ、

自分が何か偉大な者にでもなったかのように驕り高ぶるならば、

切り落とされることもありえます。日々、へりくだり、神の慈しみの中にとどまれますように。

ローマ 10:5-11:10

「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。」(10:8)

パウロは申命記30:14

「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」

を解説しています。あなたの近くにある「みことば」とは、

「私たちの宣べ伝えている信仰のことばのこと」

だと言います。「あなたの口」にあるとは、

「あなたの口でイエスを主と告白」

するということ、「あなたの心にある」とは、

「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」

ということ。つまり、旧約聖書の律法で求められていた内容は、私たちの宣べ伝えている信仰のことばと同質であったと言うのです。ですから、申命記30章の真意こそ聖書のメッセージ(説教)なのです。

ローマ 9:22-10:4

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(10:4)

「終わらせた」という単語を、新改訳2017では「目指すもの」と訳しました。「テロス」という単語が使われていますが、徒競走の「ゴール」という意味があります。そのレースの完了という意味があります。ですから、「キリストが律法のテロス」という意味は、

「キリストが律法を完了した(成し遂げた)」

という意味があります。同時に、ゴールは、レースの目標地点であり、目的でもあります。ですから、「キリストが律法のテロス」という意味には、

「キリストが律法の目標、目的」

だったという意味もあります。ここで言う「律法」とは、神がイスラエルの民に与えた、イスラエルが神の民であるということを示す、神からの戒めのことであり、単純化するならば、「旧約聖書」のことです。旧約聖書が指し示していた内容が、イエス・キリストによって成就したということです。

ローマ 9:1-21

「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」(21節)

9章から11章まで、

「神のみことばが無効になったわけではありません。」(6節)

というテーマで、イスラエルについて言及されています。ローマ書の中心はこのセクションにあると多くの学者は言います。パウロは、神のイスラエルに対する扱いに関して、エレミヤ書18章に出てくる陶器師の比喩を用います。陶器師の力は破壊力ではなく、再生力です。器がどうであれ、陶器師は造り直す力があります。エレミヤの預言は、イスラエルへの裁きの預言ですが、同時に、悔い改めるなら災いを思い直すと言います。裁きが宣告されている中でも、神の民イスラエルに対する神の愛が継続していると言うのです。神のみことばが無効になることはありません。

ローマ 8:18-39

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(8:28)

前節を直訳すると、

「御霊が聖徒たちのために、神に対して、とりなしているからです。」

となります。ですから28節も

「聖霊がすべてのことを働かせて益としてくださる」

と訳すべきだと思います。今、キリストを信じる者は、聖霊の助けがあります。なんと祈っていいか分からない時、神のみこころにとどまれるように、聖霊がとりなしています。だから私たちは、聖霊が、すべてのことを共に働かせて善へと至らせるように働いてくださっていると確信します。聖霊の助けが必要であることを認め、膝を屈め祈りに導かれるならば、祈りの中で、聖霊が私たちを守り、すべてのことをプラスへとしてくださいます。患難は忍耐に、忍耐は練られた品性に、練られた品性は、希望に。この希望は失望に終わりません。

ローマ 8:1-17

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(11節)

教会は聖霊が住んでおられることに意味があります。ライト教授はこのように言います。

「聖霊と教会の務め。この二つは共に手を携えていく。別々に語ることはできない。いまより少し前の世代のクリスチャンは、新しい霊的体験に興奮した。そこから連想されるかも知れないことだが、神は、『ディズニーランドの一日』のような霊的楽しみを与えるために聖霊を与えているわけではない。…聖霊が与えられる目的は、イエスに従う者たちが次のようなニュースを携えて、全世界に出て行くためである。すなわち、イエスは主であり、悪の力に打ち勝ち、新しい世界が開かれる。…教会の務めも聖霊なしには果たされない。…神の霊なしに教会は教会ではあり得ない。」

不惑

この漢字、読めましたか?

いえ、読めたとしても意味をご存知でしたか?

「ふわく」と読むのですが、わたし、実はこの言葉を知らなかったんです。先週の朝のNHKニュースの中で40歳・Jリーグ一年目という方を取り上げていたのですがそのタイトルが「不惑」だったのです。くやしいので調べてみました。

①ものの考え方に迷いがないこと。

②(論語より)40歳のこと。

なるほど。勉強になりました。

知らないことって多いです。

「無知の知」というソクラテスの言葉にもあるように、自分は知らないということを自覚することは、学ぶ上でとても大切だと思います。小さいころから教会学校に通っていた私は聖書の話を先生よりも知っている!と錯覚し新人の先生をいじっていた嫌な感じの生徒でした。でも知識として知っていることと体験を伴った受肉した知識とには天と地ほどの差があることをこの歳になって痛いほど感じています。本当の意味で聖書の御言葉を知り、その中に生きていくものでありたいと願っています。

今週も暑さに負けず頑張りましょう!(小山晶子牧師夫人)

ローマ 7:7-25

「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(25節)

「この私」をパウロと考えて、この七章の内容はパウロが救われる前の話か、それとも救われた後の話かという議論がなされてきました。ところが、シュテンダールが、「私」はパウロ自身のことではないと主張したことを通して新たな視点が開かれました。パウロ自身の葛藤を描いているのではなく、旧約聖書で扱われているイスラエル民族の葛藤だと言うのです。確かに、イスラエルの民の問題は罪でした。そう考えると、24節は旧約聖書の結論と言えます。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

そして、この問題の解決が25節。

「神に感謝!私たちの主のキリスト・イエスを通して!」(直訳)

今日は主の日。主イエス・キリストに感謝と賛美と礼拝を捧げましょう!

ローマ 6:15-7:6

「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」(6:17,18)

「伝えられた教えの規準」を直訳すると、「あなたがたが引き渡された教えの型」となります。つまり、神の教えの方が先にあって、そこに私たちの方が導かれていくということです。「教えの型」の「型」は、「刻印を打ちつけたあとにへこんだ型」という意味があります。これは、エゼキエル書36章に出てくる内容です。イエス・キリストを信じる者の心に聖霊が授けられているという意味は、「主の教えの型」がしっかり心に刻まれているということです。それで、聖霊に心から従うことによって、私たちは「義という新しい主人の奴隷」(18節LB)とされていきます。

「主の御霊が私たちのうちで働いてくださるにつれ、私たちはますます主に似た者にされていくのです。」(Ⅱコリント3:18LB)