pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

創世記 21:1-23:20

そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。」(22:14)

神ご自身が、いけにえのための羊を用意されました。神は備え主、私たちの必要を備えてくださるお方です。興味深いことにこの「山」は「モリヤ」(2節)の山です。歴代誌第二にこういう記述があります。

「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」(3:1)

ある学者は、アブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤの山とは、イエスが十字架にかかられたゴルゴダのことだと言います。神はそのひとり子、イエスを十字架にかけられました。それは、イエスを信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためです。神は必要を備えられる備え主です。

創世記 19:1-20:18

「急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」(19:22)

聖書を書いてある通りに理解するならば、この世界の終わりに突然クリスチャンが引き挙げられ(『携挙』と言います)、それから大患難時代と呼ばれる神の裁きがもたらされます。どうして、大患難時代の前にクリスチャンが『携挙』されなければいけないか、その理由が今日の箇所にあります。ロトたちがソドムとゴモラから出るまで、「わたしは何もできないから。」と御使いは言いました。この世界にキリストの教会がある限り、ソドムとゴモラのような神の裁きが下ることはありません。しかし、クリスチャンが取り去られる時、神の裁きがこの地に下ります。その日は必ず来ます。私たちはその日が近いことを意識して、一人でも多くの人に、イエス・キリストを伝えていく必要があります。

創世記 17:1-18:33

「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」」(17:1,2)

神はアブラムが九十九歳になるまで待っていたと言います。どうして、神はそんなに長い間、待っていたのでしょうか。なぜか神は、私たちの望みが絶たれるまで待たれることが多々あります。溺れた人を助けるためには、溺れて直ぐに助けてはいけないと言われます。力が残っているので、その人の力で一緒に溺れてしまう可能性があると言います。その人の力が尽きるまで待たなければなりません。同じように、私たちが万策尽きるとき、神が栄光の計画を始められます。人間の不可能は、神の機会となります。神は私たちの力ではできないことを成し遂げられます。

創世記 14:1-16:16

「アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」(14:20)

収入の十分の一を捧げる什一献金はモーセの十戒(律法)の前から行われていたことでした。つまり、収入の十分の一を捧げるという信仰の行動は、アブラムの信仰が求められているということです。それは、また、アブラムの祝福に生きることです。ですから、旧約聖書の最後の書、マラキ書にもこう記されています。

「十分の一の献げ物をすべて貯蔵庫に運び入れわたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよ‐万軍の主は言われる。必ず、私はあなたがたのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ3:10聖書協会共同訳)

「必ず、祝福を限りなく注ぐ」という約束は、アブラムのように信じて、実践する信仰者に与えられた約束です。聖書で唯一「試してみよ」とチャレンジされている什一献金に挑戦するならば教会会計を潤すだけでなく、アブラハムの祝福を体験します。

信仰によって

新年を迎え、新しい歩みが始まりました。当教会でも来月にはいよいよ入試という学生も多く、神様の最善の導きをと祈らされる日々でもあります。
今朝、ヘブル人への手紙十一章から十二章をデボーションで開き、『信仰』について改めて考えさせられました。特に

『信仰によって私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、』

という御言葉。そして

『信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』

という御言葉。納得できるからでも、理解できるからでもなく、聖書に登場する主の御心に生きた人々は

『信仰によって歩んだ』

というたった一つの共通点でむすばれているのです。信仰が必要な決断をあなたはしていますか。それとも人間的な考えの中だけで進めようとしていますか。それこそが信仰成長のための大きな分かれ道だと思います。私たちクリスチャンがとるべき選択は明確です。今年はそんなチャレンジを受け、主に信頼して一歩踏み出すアドベンチャーな一年になることを期待しています!まずは、わたしから、ですね。    (小山晶子牧師婦人)

創世記 11:10-13:18

「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:2,3)

神はアブラムを祝福するだけではなく、アブラムを通して地上のすべての民族に祝福を与えることを約束しました。この約束は、アブラムの子孫として生まれ、ユダヤ人の王として十字架にかかられたイエス・キリストによって成就しました。今、キリストを信じるすべての人に適用されます。ですから、使徒ペテロは言いました。

「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(1ペテロ3:9)

私たちはこの地に祝福をもたらすために存在しています。

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう!

創世記 9:18-11:9

「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」(11:9)

人類が一致して行おうとしたことは、天に届く搭を建てるということでした。人類は昔も今も変わることなく、自分たちが神になろうとします。その結果はいつもバベル、混乱です。神を無視し、人間中心になって世界を動かそうとする社会には、混乱(バベル)がつきものです。人類がすべきことは、昔も今も変わりません創造主である神を認め、神のことばに耳を傾けることです。そして、聖霊なる神を歓迎することです。ペンテコステの日、

「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:4)

とあります。神は人間の傲慢さのゆえに全知のことばを混乱させましたが、聖霊によって一致を与えられます。

創世記 7:1-9:17

「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。」(8:1)

四〇日四〇夜、降りしきる雨の中で、ノアたちは、何を思ったのでしょうか。「もう十分です。いい加減、終わりにしてください。」と祈っていたかもしれません。もしくは、木の葉のように揺れる船の中で、「神様は自分たちのことなんか忘れてしまったのではないだろうか」と思ったかもしれません。しかし、聖書ははっきりと、神はノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられたと言います。この事実を心に留めたいと思います。たとえ今、木の葉のように揺れるような状況の中にいても、神は、わたしたちのことを心に留めておられると言います。神はわたしたちのことを忘れてはいません。必ず時は来て、嵐は終わり、水は減り始めます。神はあなたを忘れてはいません。

※本日の祈祷会はお休みです。

創世記 4:17-6:22

「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」(4:24)

「七十七倍の」復讐という表現は面白い表現ですが、新約聖書で同じ単語を「七の七〇倍」と訳している箇所があります。それはマタイの福音書七章、弟子のペテロがイエス様に

「人が私に罪を犯した場合、何回まで赦してやればいいでしょうか。七回でしょうか。」(マタイ7:21LB)

という問いに対し、イエス様が答えられた箇所です。

「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(マタイ7:22)

イエス・キリストは、「蛇のイメージ」の支配に対して、「神のイメージ」によって治めるとはどういう意味かを言及されたのです。憎しみと怒りの力ではなく、愛と赦しの力によって治める「神のイメージ」。私たちは、その姿を、十字架の上のイエス・キリストの叫びに見ることが出来ます。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

創世記 2:18-4:16

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(3:5)

この世界の問題は、善悪を知る木の実を食べたことから始まりました。神の善悪ではなく、人は、自分の善悪で生きるようになってしまいました。絶対的な神の基準を失ってしまった結果、人は自分の基準で生きるようになりました。その結果、この世界に争いが生まれました。自分の善と相手の善の基準が違うので、人は互いを受け入れ合うことができません。人が本当の平和を見出すためには、絶対的な神の基準に立ち返る必要があります。しかし、人は善悪を知る木の実を食べてしまったがゆえに、立ち返ることができません。ですから、イエス・キリストは、あの十字架にかかり死ぬ必要がありました。イエス・キリストの十字架に、人はどこに立ち返れば良いかを見出すことができるのです。