pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ヨハネ 8:31-47

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(8:31,32)

イエス様の「ことば」に「とどまる」ということは、イエス様の教えに忠実であるということです。

イエス様の教えによって人生が導かれるということです。

聖書は言います。

「あなたがたのなすべきことは、律法の良し悪しを言うことではなく、それに従うことです。」(ヤコブ4:11LB)

私たちは聖書の教えの良し悪しを言うのではなく、従うことが求められています。

リビングライフにこんな黙想が記されています。

「教会の危機は、信徒数の減少ではなく、信徒が神のことばではなく世のことばに従っていることです。」

聖書のことばを人のことばと同じレベルにおいていないでしょうか?

聖書は誤りなき神のことばです。

イエス・キリストこそ真理です。

イエス・キリストなしに、本当の自由はありません。

ヨハネ 8:21-30

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。」(8:23)

メッセージ訳は23,24節をこんな風に訳しています。

「イエスは言いました。『あなたたちは俗世間に縛られています。私はあなたたちの地平線の先にあるものに接しています。あなたたちは目に見えるもの、手に触れるものを基準にして生きています。私は別の次元で生きています。わたしは、あなたたちがこのすべてにおいて神を見失っていると言いました。あなたたちは行き詰っているのです。私が誰であるかを信じないなら、あなたたちは罪の袋小路にいるのです。あなたたちは人生の中で神を見失っているのです。』」

下からの者が理解するためには、上からのものが下の領域に下ってきて、道を開く必要がありました。

だから、イエス様は人となり、私たちの間に住まわれる必要がありました。

イエス様を信じ、受け入れることから始まります。

ヨハネ 8:12-20

「イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」」(8:12)

イエス様が言われる「光」のイメージは、旧約聖書に出てくるイメージです。

旧約聖書では、神は神の民の光です。(詩篇27:1参照)

また、神の臨在の光の中で、神の民は恵みと平安を得ることができます。(民数記6:24-6参照)

「主のしもべ」は、神の救いが地の果てにまで及ぶように、諸国の民の光として任命されました。(イザヤ49:6参照)

神のみ言葉は、神の民を導く光と表現されています。(詩篇119:105,箴言6:23参照)

つまり、旧約聖書における「光」のイメージは、神の臨在であり、「主のしもべ」であり、神のみことばです。

要するに、イエス様はご自身を、父なる神と等しい存在とされたということです。

「いのちの光」は「いのちを与える光」という意味で、イエス・キリストを信じ従う者は、キリストが共におられるということです。

ヨハネ 7:53-8:11

「しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」」(8:7)

N.T.ライトという聖書学者は、この話は「姦淫の現場で捕らえられた女性」の話ではなく、「偽善の場で捕らえられた男たち」(the men caught in hypocrisy)の話だと言います。

もちろん、聖書の主役はイエス・キリストです。

ただ、ここでは「イエス様と姦淫の場で捕らえられた女性」に焦点が当てられているのではなく、「イエス様と偽善の場で捕らえられた男たち」に焦点が当てられているというのです。

人間の一番厄介な点は、他人の罪は指摘しても、自分の罪を認められないということです。

「ぼくはその女を石で打てる・・・」と、自分の罪が分からないのです。

他者を指差し、自分を正当化しようとする・・・。

その時、まさに、「偽善の現場で捕らえられた男たち」の一人となっているということです。

レシートでぴかぴか

木曜日のビブリオンで笠松兄から教わった「携帯の画面をあっという間にぴかぴかにする裏ワザ」。

レシートの印字面で画面を拭く、という至ってシンプルな動作なのですが、思った以上に短時間で綺麗になるので頻繁に行なっています。

もしかしたら他のものも綺麗になるかも、、、と思い調べてみたら爪、シルバーアクセサリー、鏡など(鏡はレシートを水で濡らして使用)も磨くと綺麗になるということで早速やってみると、どれもこれもぴかぴか!

とても綺麗になりました。

シルバー磨きの布よりも使い勝手はもちろん良くありませんが、お金もかからないし、身近にあるものだし、試してみて損はないと思います。

物価高で厳しい状況が続きますが、様々工夫しながら楽しむこと(お米の代わりにベーグルを焼いたり、ネギの根っこを長めに残し育てて再利用したり)も悪くありません。

タンポポの天ぷらを食べた神学校時代も今では良き思い出。

私たちに無限に知恵を与えてくださる創造主なる神様に祈りながら、知恵を出し合いこの状況を乗り越えていきましょう!

それぞれの家庭で行なっている節約術をぜひ教えてくださいね。

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 7:37-52

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(7:37,38)

旧約聖書のエゼキエル書47章に、生ける水の川が神殿の下から流れ出ていく幻があります。

「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」(エゼキエル47:9)

神殿は天と地が重なる場所、神の臨在が満ち溢れている場所、キリストをかしらとするキリスト教会と考えていいと思います。

神の臨在から生ける水の川が流れ、この地にいのちを与えていきます。

「だれでも渇いているなら」とあるように、イエス・キリストが必要であることを認め、イエス・キリストのもとに出ていくことです。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 7:25-36

「イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。」(7:28)

多くの人は、自分なりの神観があって、その神観に土台してイエス様のことを考えます。

その結果、イエス様のことも理解することができません。

イエス様を見ることによって、人は神がどういうお方なのかを学ぶ必要があります。

イエス様は自分を遣わされた父なる神こそ、本物だと言われました。

しかし「その方を、あなたがたは知りません。」とイエス様は言います。

恐ろしいことは「知っている」と思い上がることです。

聖書は言います。

「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」(1コリント8:2)

「父なる神を知っている」と言えるのはイエス・キリストだけです。

ヨハネ 7:14-24

「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」(7:24)

当時のユダヤ人の問題は、うわべで人を裁いていたことです。

私たちも、どれほどうわべで人を裁いて、正しい裁きを行うことができなかったことがあるでしょうか。

メッセージ訳はこんな訳をしています。

「過度に批判的にならないでください。何が正しいかを見極めるため、何が真に正しいかを試すために、頭と心を用いなさい。」

ユダヤ人たちがイエス様を受け入れることができなかった理由は、自分たちの律法解釈にこだわるあまり、過度に批判的になってしまったからです。

そのため、イエス様の行動を受け入れることができませんでした。

イエス様が

「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」(17節)

と言ったように、神のみこころに生きることを心がけるならば、分かるようになるはずだと言います。

ヨハネ 7:1-13

「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」(7:7)

サタンの影響を受けたこの世の価値観は、神の主権を否定し、神の国の価値観と衝突します。

この世の問題の多くは、神の主権を否定することによって、あたかも自分が神のように振る舞えるかのごとく、自分の正しさを押し付けることによって引き起こされます。

神を恐れないで、自分の正しさで人を裁くことによって、意図的であれ、無意識であれ、地獄をこの世にもたらします。

イエス様は「この世に嫌われている」理由をこう言いました。

「私がその虚飾の背後にある悪を暴くので私に敵対しているのです。」(MSG)

イエス様は光なので、そこにいるだけで、闇の部分が照らされてしまうので、嫌われるというのです。

しかしイエス様は、父なる神のみこころに生きることに専心し、人々の顔色に振り回されることはありませんでした。

ヨハネ 6:60-71

「それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。」(6:67)

F.F.ブルースという聖書学者がこんなことを言っています。

「彼らが望むものを彼は与えず、彼が提供するものを彼らは受け取らなかった。」

弟子たちのうちの多くの者は、イエス様が自分たちが思ったように与えてくれない、都合の良い存在ではないと分かると、離れ去ってしまったと言います。

残念ながら、どんなに福音を聞いたとしても、信仰に結びつけることをしなければ、離れ去ってしまうことがあります。

聖霊様が命を与えることなしに、人々は、命である方を知ることはできません。

人々がイエス様から離れ去っていく中で、イエス様は12弟子にも尋ねます。

「あなたがたも離れて行きたいのですか」(67節)

ペテロの応答は、はっきりしています。

「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」