pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ルカ 17:11-37

「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(21節)

神の国とは神の統治、神が支配されることを意味します。イスラエルの人々は神の統治を待ち望んでいました。いつになったらローマの支配を終わらせ、神が支配するイスラエルの独立をもたらすのかとイエス様に尋ねたのです。彼らにとってメシアとは神の国をもたらす軍事的な救世主だったからです。しかしイエス様は言われました。

「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。」(20節)

神の支配は軍事的にもたらされるものではないと言われました。それよりも、互いの間に神の支配を認めることによって神の国は現わされていると言いました。私たち一人一人が、天で神のみこころが行われているように、この地で神のみこころに生きようとする時に、神の国は、私たちのただ中にあります。

ルカ 16:19-17:10

「しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』」(16:29)

「モーセと預言者」という表現は、明らかに聖書を指しています。それで、リビングバイブルではこう訳しています。

「それは聖書が教えていることではないか。その言うことを聞くべきだ。」

金持ちとラザロのたとえ話は単なる天国と地獄の話で片づけるべきではありません。私たちはラザロの存在を見ぬふり、知らぬふりをすることはできません。このたとえ話の金持ちのように「生きている間、良いものを受け」(25節)ることだけを求める自分中心の人生が、死後の世界だけではなく、今の世にも滅びをもたらします。私たちは死後の世界だけでなく、今の世にも、神の御国をもたらすために生かされています。私たちは聖書が教えていることを聞くべきです。

今日は主の日。主に、共に礼拝を捧げましょう!

ルカ 16:1-18

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」(15節)

イエス様の当時の宗教指導者たちに対する言動はとても辛辣でした。LBではこう訳しています。

「あなたがたは、人前でいかにも上品でうやうやしい態度をとっています。しかし神は、あなたがたの悪い心をお見通しです。いくら人の目をごまかし、称賛を受けても、神には憎まれるのです。」

聖書は、はっきりと言います。

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)

心に関して聖書はこう言っています。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

心は守らなければなりません。私たちの心に何を入れるかも気を付ける必要があります。

ルカ 15:1-32

「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」(17節)

放蕩息子の転機は、

「何もかも使い果たしたあと」(14節)、

「豚の世話」(15節)

をしていて、

「我に返ったとき」(17節)

でした。

彼はきっといろいろな人から忠告を受けていたと思います。彼は聴く耳がなかったんだと思います。しかし、惨めな生活を送る中で、ふと、

「我に返った」

と言います。

私たちの疑問は、どうしたら放蕩息子や放蕩娘が我に返るかだと思います。

アウグスティヌスの母親、モニカの祈りを通りして、アウグスティヌスは我に返りました。祈りの子は滅びません。放蕩息子、放蕩娘が、我に返ることができるように祈りましょう。祈りの子は滅びません。

ルカ 14:15-35

「宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。」(17節)

伝道は、

「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。」

と招くことと似ています。教会の主日礼拝は、主を祝うことですから、盛大な宴会でもあります。問題は、残念ながらこのたとえの人々のように招きを断る人がいるということです。それに対する主の答えは、

「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。」(21節)

ということです。私たちは大通りに出て行って、イエス・キリストの宴会に人々を招くように遣わされています。それらの人々は、問題を抱えているかもしれません。しかし、

「この家がいっぱいになるように」(23節)

教会がいっぱいになるように、私たちは人々を連れてくるように遣わされています。

ルカ 13:31-14:14

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(14:11)

神は「バビロン捕囚」という裁きをこのように表現しています。

「神である主はこう仰せられる。かぶり物は脱がされ、冠は取り去られる。すべてがすっかり変わり、低い者は高くされ、高い者は低くされる。」(エゼキエル21:26)

神は、世の中をひっくり返すことを通して裁かれると言いました。イエス・キリストの十字架はまさに世の中をひっくり返しました。

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(1ペテロ5:6)

聖書は私たちにへりくだるように教えます。へりくだり、人々に仕える者が高くされるというのが神の国の原則です。

ルカ 13:1-30

「そこで、イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」」(13:18,19)

からし種が、空の鳥が枝に巣を作るような木になると言うのは誇張表現です。しかし、神の国はそのように超自然的な生長をするというポイントがあります。

「教会は必ず成長する」

という信仰はこのみことばにあります。もっとも、ここに出てくる空の鳥は一般的に否定的な事柄として解釈されます。教会が成長すると同時に、様々な問題の巣ができることもイエス様は忠告していたと言われています。世界的に見ても、日本の教会だけがなぜか成長していないように見えますが、神の御言葉は真実です。必ずイエス・キリストの教会は成長します。

ルカ12:35-59

「そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか。それともみなのためなのですか。」」(12:41)

ペテロの質問は、聖書を読む時に誰もが疑問に感じることだと思います。

「主よ。今のお話は、私たちにだけ話されたのですか。それとも、ここにいるみんなのためなのですか。」(LB)

イエス様の答えは明確ではありません。しかし、この話の中の主人が、イエス様のことを指していることは確かです。そして、イエス様が再び来られること(再臨)は確かです。

「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。」(47節)

教会という文脈における責任認識の問題は明確です。ここでは、イスラエルという国の責任も問われています。すべての人はやがて、義務を果たしたかどうかが問われます。ただ、

「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」(48節)

ルカ 12:1-34

「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。」(12:6)

アサリオンは当時の労働者の一日分の労賃の十六分の一でした。マタイでは、

「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。」(10:29)

とありますので、四羽買うと一羽おまけしてくれるということかもしれません。いずれにせよ、一羽では値がつかないことは確かです。一羽では価値がないとされてしまう雀の一羽でさえも、神が忘れることはないと言います。神の目には私たち一人一人は大切な存在、神が

「わたしの目には、あなたは高価って尊い」(イザヤ43:4)

と言われる存在です。

「だから、恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりはるかに価値があるのですから。」(7節LB)

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう!

ルカ 11:33-54

「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。」(11:34)

イエス様は肉体的な目に関して言及しているわけではないと思います。とはいえ、私たちは何を見ているかは重要なことです。一般的に言って、私たちが得るものは、私たちが見ているものです。私たちの視点をどこに合わせるかが、私たちの方向性も左右します。箴言にもこう書いてあります。

「あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。」(4:25)

後ろばかり見ていたら、横ばかり見ていたら、前に進むことはできません。また、多くの場合、私たちは見ているものの影響を受けます。ですから、聖書は言います。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)