「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2節)
使徒パウロが、若い伝道者であるテモテに命じたことは、みことばを宣べ伝えることでした。ですから、キリスト教会の主日礼拝の中心は、みことばを宣べ伝えること、聖書のメッセージです。使徒パウロは、エペソの長老たちにこう言いました。
「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20:26,27)
「神のご計画の全体」ということは、聖書の全体と理解することができます。創世記から黙示録まで、教会は余すところなく聖書のみことばを語る責任があります。教会が聖書のみことばを教えなければ、教会の意味はありません。人々が願うことを言ってくれる教師ではなく、聖書を教える教師が必要です。