ニコデモのこと

先週はニコデモのことで頭がいっぱいでした。

教会学校でお話しした箇所ということで、金曜日の祈祷会でも分かち合うためいろいろと関連記事を調べていたことで思い巡らす時間が多かったせいだと思います。

ニコデモはヨハネの福音書に3回名前が登場します。

パリサイ人でユダヤ人議会(サンヘドリン)の一員でもあった人物で、そのことからもイエス様よりもかなり歳が上であったことが推察できます。

ある夜イエス様のところにやってきたニコデモがまだ何も質問していないのにイエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。(ヨハネの福音書3:3)

自分の力で神様の掟を守ることに限界を感じていたニコデモはイエス様の力ある御業との違いの理由が知りたかったのでしょうか。

考え方や思い込みを変えることは容易ではありませんが、イエス様のもとに聞く耳を持ってやってきたニコデモからわたしたちも謙虚さを学びたいと思います。

それが彼の人生のターニングポイントになった事を心に留めながら。
(小山晶子牧師人)

使徒 21:15-26

「私たちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。」(21:17)

使徒パウロはエルサレム訪問のためにローマの教会に祈りを要請していました。

パウロたちのことを悪く言う人たちがいたからです。(21節)

パウロたちはエルサレム教会に献金を持っていく予定でしたが、受け入れてもらえるか不安だったようです。

パウロはローマの教会にこのように書いています。

どうか、私の祈りの友になってください。主イエス・キリストのゆえに、また、聖霊によってあなたがたが私を愛する愛のゆえに、私の働きのため、共に精一杯祈ってください。エルサレムにいる、クリスチャンでないユダヤ人から、私が守られるよう祈ってください。また、私の持って行くお金を、エルサレムの教会が喜んで受け取ってくれるようにも祈ってください。」(ローマ15:30-31LB)

兄弟たちは喜んで迎えてくれた。

これが教会のあるべき姿です。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

使徒 21:1-14

「彼が聞き入れようとしないので、私たちは「主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐんだ。」(21:14)

ツロの兄弟姉妹たちは、

「御霊に示されて、エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言った。」(4節)

とあります。アガポという預言者は言いました。

「この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。」(11節)

それで、パウロにエルサレムには行かないように懇願したと言います。

しかし、パウロは言います。

「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」(13節)

パウロは頑固のようにも見えますが、神のみこころに生きる信仰者の姿とも言えます。

聖霊は禁じるためではなく、備えのために警告したのです。

どんな試練が待っていたとしても神のみこころに従うことが信仰者の生き方です。

使徒 20:25-38

「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。」(20:27)

教会の歴史を振り返りますと、いつも、偽教師の問題があります。

特徴の一つは、

「いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。」(30節)

とあるように、教会の中に入りこみ、自分のほうに引き込もうとします。

既存の教会を否定し、既存の教会が機能不全に陥っても何とも思いません。

しかし、教会は、どんなに欠けがあっても、神の御子キリストが、ご自身の血をもって買い取られた神の教会です。

それなのに自分たちだけが正しいと言って、神の教会を批判し、教会を荒らし回る偽教師を、私たちは注意する必要があります。

このような偽教師たちは、イエス・キリストの十字架の福音だけでは不十分だとさえ言います。

このような問題に対処する方法は「神のご計画の全体を」教えること、聖書全体を学ぶことです。

使徒 20:13-24

「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(20:24)

人にはそれぞれ「自分の走るべき道のり」、与えられた「任務」があります。

その第一の任務は福音を伝えることです。

しかし、主イエスがしなさいと言われた務めをやり遂げるためなら、こんな取るに足らぬ命でも、喜んで投げ出す覚悟はできています。その務めとは、神の恵みの福音を伝えることです。」(LB)

22節を直訳しますと、こうなります。

そして今、わたしは御霊に縛られて、エルサレムへ行こうとしています。

聖霊様に縛られて行く、というのは面白い表現ですが、そうでなければ、パウロでさえも前進できなかったということかもしれません。

十字架なくして冠なしと言いますが、十字架をかついだことのない人には、その素晴らしい恵みの世界を味わうことはできません。

使徒 20:1-12

「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。パウロは翌日に出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。」(20:7)

「週の初めの日」は、日曜日のことで、初代教会は日曜日に礼拝を守っていました。

「パンを裂くために集まった」というのは礼拝のことだと考えられます。

特に聖餐式が念頭にあったと思われます。

パウロのメッセージは、夜中まで続いたということかもしれません。

「ユテコ」という青年は、

窓のところに腰掛けていたが、パウロの話が長く続くので、ひどく眠気がさし、とうとう眠り込んで三階から下に落ちてしまった。」(9節)

と言います。

彼は一度、死んでしまいますが、神は彼を生き返らせます。

人々は生き返った青年を連れて帰り、ひとかたならず慰められた。」(12節)

とあります。

私たちの信仰生活もいろいろなことが起こりますが、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

使徒 19:23-40

「そのころ、この道のことで、大変な騒ぎが起こった。」(19:23)

使徒の働きの時代、キリスト教は「この道」と呼ばれていました。

エペソの街でリバイバルが起こり、神の力が現され、人々はイエス・キリストを信じました。

その結果、アルテミス神殿の模型を作っていた銀細工人たちは、自分たちが仕事を失ってしまうことを恐れて、暴動を起こします。

あのパウロが、手で造った物は神ではないと言って、エペソだけでなく、アジアのほぼ全域にわたって、大勢の人々を説き伏せ、迷わせてしまいました。」(26節)

銀細工人たちの動機は、信仰心ではなく、自分たちの保身です。

そして、群衆は

「偉大なるかな、エペソ人のアルテミス」と叫び始めた。」(28節)

とありますが、それはいわゆる集団ヒステリーでした。

大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかった。」(32節)

とあります。

群衆がいつも正しいとは限りません。

使徒 19:11-22

「神はパウロの手によって、驚くべき力あるわざを行われた。」(19:11)

神は奇跡の神であり、今も私たちの祈りを用いて、驚くべき力あるわざを行なわれます。

イエス様は言われました。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」(マルコ16:17,18)

祭司長スケワの七人の息子たちがパウロの真似をしてもサタンに嘲笑われるだけだったのは、彼らがイエス様を信じていなかったからです。

神の奇跡はエンターテイメントではありません。

イエス様こそ、王の王、主の主、救い主、神の御子であることを示すためにあります。

イエス様を信じる者が、イエス様の名を唱える時、神の御国の力はこの地に解き放たれます。

虫除けスプレー

というタイトルで今回書いた文章がなぜか全て消えてしまい泣く泣く書き直しております。

数時間かけて書いたものだったのちょっとショックです。

ただ、この出来事で一つ思い出したことがあります。

それは母が大学院で学んでいた時のこと。

ずっと教師として現場で働いていた母は2年間休職して大学院で障害児教育の学びをしていました。

ある日母が研究し、数日かけてまとめ上げワープロに打ち込んだ文章をわたしがうっかり消してしまうという大事故が起こりました。

もう、あまりにも申し訳ない出来事で今でもその瞬間の母の顔を覚えているくらいです。

謝るわたしにショックのあまり言葉も出ない母。

しかも責めない。

「ごめんで済んだら警察いらんねん!」とでも言ってくれたら、、、

その後どうやって論文を完成させたのか知る由もありませんが、母は全ての単位をAの評価で大学院前期課程を修了しました。

実はわたしが書き終えた今回の文章、英児先生が作業中に消えてしまったのですが心の狭いわたしは自分のことを棚に上げて彼に謝罪を要求したのでした、、、。     

(小山晶子牧師人)

使徒 19:1-10

「彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えた。」(19:2)

私たちが信じている神は、父、子、聖霊の三位一体なる神です。

しかし、父なる神、子なる神キリストまでは理解できても、「聖霊」なる神様のことを理解することは難しいところがあります。

それは、「聖霊を受けましたか」とあるように、私たちは聖霊様を体験的に認識するからです。

それで、教会は昔から「聖霊様、来てください」(Come, Holy Spirit)と祈ってきました。

イエス・キリストを信じるだけで人は救われます。

しかし、キリスト者は自分が天国に行けることで満足するのではなく、イエス様が教えられたように、この地に神の国をもたらせることを目的とします。

そのためには、聖霊様に満たされる必要があります。

今日は主の日。共に、聖霊様を求め、主に礼拝を捧げましょう!