ヨハネ 3:22-36

「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(3:30)

バプテスマのヨハネは自分の役割をよく理解していました。

28節をLBではこのように訳しています。

「私の役目は、だれもがあの方のところへ行けるように道を備えることです。私はキリストではないと、はっきり言ったはずです。あの方のために道を備えるために、私はここにいるのです。」

バプテスマのヨハネは、イエス・キリストを指差しました。

これがキリスト教会のあるべき姿です。

キリストがますます偉大になり、自分はますます小さくなる。

私の大好きな賛美の中に、LeelandのHoly Spirit Have Your Way(聖霊様、あなたの御心のままに)という賛美があります。

その中に、こんな歌詞があります。

More of You and less of me.

「もっとあなたを。そして、私を減らしてください。」

私たちは、このような姿勢が大事だと思います。

「私が」ではなく「イエス様が」もっと主語になるように、それが祈りです。

ヨハネ 3:10-21

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(3:14)

「モーセが荒野で蛇を上げた」という内容は民数記21章に出てきます。

「青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた」(民数記21:9)

とあります。

ニコデモとイエス様の会話は「新しい命」「新しく生まれること」ですが、その方法をイエス様はここで告げられました。

イエス様も「上げられなければなりません」と言う意味は、明らかに、これから十字架にかかり、死ななければならないということです。

呪いの蛇が掲げられたように、呪いの十字架にかけられることによって、私たちの罪の呪いを、イエス様が代わりに受けられたということです。

人は、私たちの罪のために十字架に上げられたイエス様を仰ぎ見るならば、すなわち「イエス様の十字架は私のためだった」と信じるならば、罪赦され、「新しく生まれる」ことができるということです。

ヨハネ 3:1-9

「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(3:8)

「風は思いのままに吹きます」を、文語訳では「風は己が好む所に吹く」と訳しています。

「風」とは聖霊様のことです。

聖霊様には人格(ペルソナ)があり、好みがあるということです。

聖霊様が好むところと好まないところがあるということです。

聖書が教えていることは、聖霊様が好むところは愛と赦しが満ちているところということです。

聖霊様が好まないところとは、怒りと憎しみが満ちているところです。

風は私たちが知ることができるレベルを超えていますが、その与える影響は明確です。

同じように、聖霊様の働きも明確です。

ですから、聖霊様に好まれることを心がけることが大切です。

ヨハネ 2:13-25

「鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」」(2:16)

当時の祭司たちが、法外な手数料を取っていたからイエス様が追い出したという解釈が一般的ですが、そうだったと思います。

しかし、それ以上に、イエス様は、神と人々の間にあるあらゆる障壁を打ち崩したかったのだと思います。

たとえ、いけにえを買うことができなくても、両替をするお金がなくても、神は困難の中にいる人たちの声を聞かれるということを伝えたかったのだと思います。

事実、この直後、イエス様はご自身の十字架の死と復活を預言して語っています。

十字架にかかり、死に、よみがえられることを通して、すべての人が主を呼び求めることができるように、宮清めをされたということです。

すべての人に、「あなたがたも含まれています」ということの象徴として、宮清めをされたということです。

ヨハネ 2:1-12

「母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」」(2:5)

給仕の者たちにとっては不思議な話だったと思います。

イエス様の言われるとおり、水瓶の縁までいっぱい水を入れ、それを汲んで、世話役のところへ持って行きました。

すると、それは、ぶどう酒に変わっていました。

それも、極上のぶどう酒に変わっていました。

神の働きは私たちの理解を超えています。

聖書が私たちに教えていることは、

「あの方が言われることは、何でもしてください。」

ということです。

理解できなくても、聖霊様が導かれるままに、この手伝いの者たち、給仕の者たちのように、み言葉通りに生きていくならば、水がぶどう酒に変わる奇跡を見ます。

水を汲んだ給仕の者たちでなければ、知ることがないという世界があります。

神の偉大な奇跡の背後には、「主がそう言われたから」と、人知れず、祈り、犠牲を払い、従順された、主の僕たちがいます。

ヨハネ 1:43-51

「そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」」(1:51)

聖書の中で「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りする」のを見た人物は、創世記に出てくるヤコブです。

ヤコブはベテルの地で天の梯子を見ました。

イエス様がナタナエルに言いたかったのは、この「ヤコブのはしご」を見ることになるということです。

「もし、あなたがわたしについてくるならば、-Open heaven- 天が開かれるのを見ることになる」とイエス様は言われました。

神のみ使いが上り下りする「天の梯子」のように、イエス様を知るようになると言われたのです。

イエス・キリストの中に天(神の領域)と地(人の領域)が重なり合っているのを見ると言われたのです。

イエス・キリストは、まことの神であり、まことの人です。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 1:29-42

「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)

子羊の規定は、出エジプトの時に、神がイスラエルの民に与えたものです。

エジプトの奴隷生活から、イスラエルの民を脱出させるために、神は十の災害をエジプトにもたらしました。

その最後の災いが、初子の死でした。

しかし、子羊の血を、家の門柱とかもいに塗った家は、滅す者が過ぎ越して行きました。

ここから過越(pass-over)の祭りが始まります。

イエス様が十字架にかかられたのも、この過越の祭りの時でした。

過越の祭りでは、この出エジプトの出来事を覚えて、子羊が屠られます。

その子羊が屠られる時に、イエス・キリストは十字架で死なれました。

それは、まさに、イエス・キリストがこの過越の子羊として、「世の罪を取り除く神の子羊。」として死んで下さったことを意味しています。

イエス・キリストこそ、本物の過越の子羊だったということです。

ヨハネ 1:19-28

「ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」」(1:23)

19節以下はユダヤ人とバプテスマのヨハネとの対話です。

バプテスマのヨハネの働きが、エルサレムの指導者たちが無視できない状態だったのです。

彼らが一番気になったのは、彼が「キリスト」、すなわち、旧約聖書が預言してきた来るべき王、「メシア」かどうかということでした。

バプテスマのヨハネは「違う」と否定します。

ヨハネの応答は自分のことについての質問を嫌っている印象も受けます。

彼が語りたいのは、自分のことではなく、別の方であることが伝わってきます。

ヨハネは、自分が目立たないようにしている印象も見受けられます。

ヨハネは、自分をもはや「人」というカテゴリーではなく、ただの「声」ですと言います。

使徒パウロは言います。

「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。」(2コリント4:5)

ヨハネ 1:9-18

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1:14)

「私たちの間に住まわれた」は直訳すると「幕屋を張った」です。

これは出エジプトの時、イスラエルの民の中心に張られた幕屋を連想させます。

イエス・キリストは、荒野で造られた幕屋に神の臨在が宿られたように、人々の中に住まわれたということです。

出エジプトに出てくる幕屋の特徴の一つは、神の栄光が幕屋に満ち、その上には、昼は雲の柱、夜は火の柱があったということです。

聖書は言います。

「旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。」(出40:38)

ヨハネは、「私たちはこの方の栄光を見た」と言いますが、それはまさに、このイスラエルの民が荒野で雲の柱や火の柱を見たように見たということだと思われます。

ヨハネ 1:1-8

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(1:5)

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

今年はヨハネの福音書からです。

闇は光を征服することはありませんが、闇の存在は認識されています。

ある意味、闇があるからこそ光の存在が大事であり、単純に「闇がなくなればいい」ということでもありません。

キング牧師が言ったように「暗闇の中でこそ、星が見える」のです。

この世には暗闇があり、闇の力があり、私たちは嫌な思いをすることもあれば、追い詰められることもあります。

しかし、闇が私たちを打ち負かすことはありません。

闇があるがゆえに、私たちは、まことの光であるキリストとの関係を深め、闇があるがゆえに私たちは成長していきます。

闇は、呪いでも、前世の報いでもありません。

私たちが闇を体験するのは、闇の中に輝いているまことの光、イエス・キリストを、私たちが見あげ、この地にキリストの光を輝かすためです。