マルコ 2:1-12

「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。」(2:5)

「中風」(『脳出血などによる半身不随、手足のまひ等の症状』LB)の人の友人たちは、彼を癒したいという切なる思いと熱心さがありました。

彼らはイエス様のところへ運ぶために、イエス様がおられる辺りの屋根を剥がして穴をあけ、寝床をつりおろしました。

イエス様は、そんな彼らの信仰を見て、「罪の赦し」を宣言されました。

イエス様は表面的な解決ではなく、根本的な解決を与えられました。

イエス様は私たちの王として、私たちの人生全体を気にかけておられます。

肉体的な中風だけでなく霊的な中風も癒したいのです。

私たちの肉体だけでなく、私たちのたましいも健全にしたいのです。

私たちも同じ熱心さを持って、今年、家族、友人、知人をイエス様がおられるところへと運んでいこうではありませんか。

私たちは祈りをもって運んでいくことができます。

マルコ 1:35-45

「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。」(1:41)

「ツァラアト」(『皮膚が冒され、汚れているとされた当時の疾患』LB)に冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願しました。

「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」(40節)

「お心一つで」という意味は

「イエス様がそう願われるならば」、

「みこころならば」

という意味です。

この「ツァラアトに冒された人」の根底にあったのは、

「イエス・キリストにはできる。」

「私はイエス・キリストが必要だ。」

ということでした。

この信仰が求められています。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

神は求める以上に答えられるお方です。

彼はイエス様の手のぬくもりとからだの癒しを体験しました。

マルコ 1:16-34

「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」」(1:7)

イエス様の言葉は、神がアブラハムに言った言葉を連想させます。

「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)

アブラハムも、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネと同じように、安定も安心も家も捨て置いて、言われたとおりにしました。

アブラハムは、父の家を出て、神が示す地へと向かったのです。

弟子たちの召命のストーリーはこのアブラハムのストーリーをほのめかしています。

つまり、ここでイエス様がなされたことは、

「『神』が新しいことをなされている」、

「神の民」を召されているということです。

アブラハムの子孫が、イスラエルの民となります。

神は私たちに信仰を求められるお方です。

信仰の一歩を踏み出すならば、神の偉大な御業を見ることになります。

マルコ 1:1-15

「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」(1:1)

当時の公用語であったギリシア語の「福音」の意味は「新しい皇帝が即位する知らせ」のことでした。

また、当時のローマの貨幣は、皇帝を「神の子」(DIVI F)と刻んでいました。

ですから、先が見えない迫害の中にいたキリスト教徒たちに「神の子の福音」と記したことに、大きな意味があります。

ローマ帝国の使者は「ティベリウスが皇帝に即位した。この方に忠誠を尽くしなさい」と告げました。

福音書はそれに対して「イエス・キリストがまことの王となられた。この方に忠誠を尽くしなさい」と告げます。

実際、当時のキリスト者たちはこう訴えられました。

「彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」(使徒17:7)

これはつまり、富と力がすべてというローマの支配に対して、信仰と希望と愛というキリストにある支配を告げ知らせていたということです。

箴言 31:11-31

「麗しさは偽り。美しさは空しい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」(31:30)

ヘブル語で知恵(ホクマ)は女性形です。

それで箴言31章に出てくる女性は知恵を擬人化したものと考えられます。

「主を恐れることは知識の初め。」(1:7)

「主を恐れることは知恵の初め」(9:10)

とあるように、「主を恐れること」と「知恵」は同義語です。

「知恵」は誠実な妻であり、この世界を家とし、私たちの日常生活で働くことを欲っしています。

「知恵は自分の家を建て」(9:1)

ます。知恵は言います。

「だから、わたしのことばに聞き従いなさい。わたしの命令を守ることが幸福のかぎなのだから。」(8:32LB)

「わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。」(8:17)

と言いますが、どこを探せばいいのでしょうか。

聖書は言います。

「キリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(コロサイ2:3)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

箴言 31:1-9

「レムエルよ、これは王がすることではない。ぶどう酒を飲むのは王がすることではない。強い酒を飲むのは君主がすることではない。」(31:4)

31章は「マサの王レムエルが母から受けた戒めのことば。」、いわゆる帝王学です。

「王」という単語をメッセージ訳は「リーダー」と訳しています。

リーダーがいつも酔っ払っていたら、ついていく人々は苦しむというのは、いつの時代も真理です。

ですから聖書は言います。

「酒を飲みすぎてはいけません。そこには多くの悪が潜んでいるからです。むしろ、御霊に満たされ、支配していただきなさい。」(エペソ5:18LB)

確かに、歴史の中でも多くの人たちが酒にまつわる失敗を冒してきました。

この問題への対処法として、聖霊に満たされることが挙げられていることは注目に値します。

聖霊様に支配していただくことが様々な悪から私たちを守ってくれることとなります。

箴言 30:15-33

「もし、あなたが高ぶって、愚かなことをしたり、企んだりしたら、手を口に当てよ。」(30:32)

自惚れている人は、神の御力に頼ることなく自分の力に頼るので、自らを高めるために愚かなことをしてしまいます。

「得意になって悪いことをするのは愚か者です。少しは恥ずかしいと思うべきです。」(LB)

自惚れないための処方箋は、自らを高めることに心を向けるのではなく、イエス・キリストを高めることに心を向けることです。

いつもイエス・キリストの御名が高められるように献身していく時に、良いものがそこから生まれます。

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:6)

高ぶる思いがあるなら、手を口に当て、静まり、へりくだる時も大切です。

恥は我がもの、栄光は主のものです。

箴言 30:1-14

「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。」(30:7-9)

人は思い上がっている時に神の存在を否定します。

神の存在を認める時、人はへりくだり、祈りに導かれます。

「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」(1テモテ6:6-8)

箴言29:15-27

「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。」(29:18)

「幻」と訳された単語(חָ֭זוֹן)が預言者が見る「幻」に用いられる単語なので、「預言的な幻」と訳されることがあります。

それで、「神の啓示」、すなわち聖書の御言葉なしでは暴走すると言う意味と理解します。

それで

しかし、みおしえを守る者は幸いである。

と続きます。

メッセージ訳では前半部分をこう訳します。

「もし、人々が神のなされていることを見ることができないならば、彼らはつまずいてばかりだ。」

私たちは神の御言葉、神の御業に焦点を合わせる必要があります。神のみこころを求めないならば人は好き勝手にふるまい、結局、つまずいてばかりです。

使徒パウロは言いました。

「私は天からの幻に背かず、… 宣べ伝えてきました。」(使徒26:19,20)

天からの幻、聖書の御言葉に生きることができますように。

箴言 29:1-14

「正しい人は弱い者のためのさばきを知っている。悪しき者はそのような知識をわきまえない。」(29:7)

聖書が言う「義人」は、貧しい人の権利を認める人です。

神を信じない者は気にもかけません。」(LB)

神を信じているならば、一人一人が偶然この世界に存在しているわけではないことを理解しているはずですから、弱い立場の人の存在を理解しようとするはずだと言うことです。

それで、

「正しいことをする王はしっかり治め、わいろを要求する王は国を滅ぼします。」(4節LB)

私たちは、

調子のいいお世辞は罠」(5節LB)

であることや、

愚か者と言い争ってもむだです。相手はかっとなり、感情をむき出しにして、こちらをさげすむだけです。」(9節LB)

ということを知っておく必要があります。

愚か者はけんかの種をまき散らし、知恵のある人は事を丸くおさめます。」(8節LB)