マルコ 13:22-31

「そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。」(14:26)

イエス様はこの後何が起こるかご存じでした。

この後に大きな試練が待ち受けていると知っていたら、私たちならば何をするでしょうか。

イエス様は賛美の歌を歌ったと聖書は言います。

過越の食事における締めくくりの賛美の歌は詩篇一三六篇でした。

この賛美の歌には少なくとも3つのポイントがあります。

第一に、神に感謝すること。

第二に、神が良いお方であるということを認めること。

第三に、神の真実が永遠であることを認めること。

イエス様はこれから起こる大きな試練の前に、神が良いお方であると、神の真実が永遠だと、神に感謝し、賛美の歌を歌ったのだと思われます。

つまり、賛美の歌を歌い続けること、それが、イエス様が試練に立ち向かうためになされたことだったというのです。

「歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ 歌いつつ歩まん この世の旅路を」(聖歌498)

マルコ 14:12-21

「種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」」(14:12)

過越の食事は見て、匂いを嗅いで、味わい、感じるものです。

そして、この過越の食事の中で出エジプトの出来事が語られました。

この時も、イエス様は出エジプトの話をしたことが十分考えられます。

出エジプトはエジプトの奴隷生活から、イスラエルの民を神が解放された話です。

イエス様は出エジプトの話をしながら、これからご自身が死なれることを語りました。

過越の食事で食べるパンを、ご自身のからだと同一視して、味わうようにさせました。

過越の食事で飲む杯を、ご自身の血と同一視して、味わうようにされました。

そのようにして、弟子たちは、出エジプトのストーリーと、これから起こる出来事、十字架の死と復活を、リンクすることができるようにしました。

マルコ 14:1-11

「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(14:9)

記念として語られると言われたことは、

「純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ」

という話です。

ある人たちは憤慨して言いました。

「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。」

考えてみますと、イエス様に捧げることを「無駄」と決めつけていること自体が、イエス様をそれだけの存在としてしか見ていなかったと考えられます。

イエス様のためにしたことに「無駄はない」とイエス様は言われました。

イエス様のためになされていることを、自分の価値判断で「無駄」だとか批判してはいけないと言われたのです。

「あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(1コリ15:58)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 13:28-37

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(13:31)

この世の終わりが何月何日に来ると言う人がいたら、その人は偽預言者です。

なぜなら、イエス様が明確に、

「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。」(32節)

と言われたからです。

偽預言者たちに惑わされないためには、聖書を読み、学ぶ必要があります。

なぜなら、イエス様が

「わたしのことばは決して消え去ることがありません。」

とおっしゃられたからです。

イエス様は言われました。

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」(33節)

要するに、「目を覚ましていなさい」という意味は、いつ、イエス様が来ても大丈夫という生き方をしなさいということです。

ですから、ルターが言ったように、

「たとえ明日世界が終わるとしても、それでも今日私はリンゴの木を植える」

という生き方が大事です。

マルコ 13:14-27

「『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら─読者はよく理解せよ─ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。」(13:14)

旧約聖書と新約聖書の間、紀元前168年、シリアのアンティオコス4世はエルサレムを占領し、ギリシア化政策を進めました。

神殿をギリシア化させ、神殿の祭壇に偶像を作りました。

マカバイ記にはこの神殿の祭壇の上に立てた偶像を「荒らす憎むべきもの」(1マカバイ1:54, 6:7)と呼びます。

イエス様は同じようなことが起こると予告しました。

そして、70年にローマ帝国によって滅ぼされることによって「すでに」実現しました。

しかし、この世の終わりにもたらされる出来事は「まだ」これからだと考えられます。

同じように、エルサレムに神殿は再建され、再び注目される時が来ると考えられます。

脅しているわけではありませんが、はっきり言えることは、「その日」が来る前に、イエス・キリストを信じた方が良いということです。

マルコ 13:1-13

「それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」(13:5)

マルコの福音書13章は「オリーブ講和」と呼ばれ、終末預言として読まれます。

いずれにせよ、イエス様は言います。

人に惑わされないように気をつけなさい。

インターネットを通して惑わしのような発言を繰り返す人たちを私たちは注意する必要があります。

特に、「自分こそキリストだと名乗る者」(LB)に注意が必要です。

具体的にイエス様はこう説明しています。

偽キリストや偽預言者が次々に現れて、不思議な奇跡を行い、神に選ばれた者たちをさえ惑わそうとするからです。気をつけていなさい。警告しておきます。」(22,23節LB)

どんなにカリスマ性があっても、奇跡を行なったとしても、私たちをイエス・キリストから引き離そうとする人は偽キリストです。

神の御言葉である聖書から引き離すのは偽預言者です。

惑わされないように気をつけなければなりません。

マルコ 12:35-44

「イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。」(12:35)

「キリスト」はギリシア語で「油注がれた者」という意味です。

当時のユダヤ人にとっての「油注がれた者」とは、ダビデの血筋である正統な王のことでした。

いにしえのダビデ王のように、イスラエル軍を軍事的勝利へと導く、救世主(メシア)のことでした。

当時の教師たちは、神が「悪しき」ローマ帝国から、彼らを救い出すために、ダビデの子、「メシア」を遣わされると教えていました。

しかし、イエス様は、メシアは単なるダビデの子ではなく、ダビデの主でもあると言いました。

「主」は、聖書では「生ける神ご自身」を指す言葉です。

神がお立てになるメシアは「生ける神ご自身」であると。

イエス様はこのことを神殿で話されました。

エルサレム神殿を超える、天の支配が、この地にもたらされていることを証したのです。

マルコ12:28-34

「イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」」(12:29-31)

ジュダ・スミスという伝道者は、神を愛し隣人を愛することは人には不可能だと言います。

それでは、どうして神は不可能と思えることを命じられたのでしょうか。

それは、「継続的に神のもとに戻って来るためだ」と言います。

私たちは神を愛し、隣人を愛そうと愛に生きようとする時、愛のない自分に気づきます。

そして、膝を屈め、祈るようになります。

祈りの中で、イエス様は私たちに尋ねられます。

「あなたは助けが必要ですか?」

不可能に生きる時、人々は神を見出します。

なぜならば、イエス・キリストが必要だということを自覚するからです。

マルコ 12:13-27

「するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスのことばに驚嘆した。」(12:17)

イエス様は暴力的な反乱、「徹底的な仕返し」に反対しました。

イエス様の神の国運動は、異邦人の支配よりも大きく深い悪に対して立ち向かうものだったからです。

やられたらやり返すという徹底的な仕返し、そのような憎しみの連鎖を断ち切る世界をもたらすことが、イエス・キリストがもたらされた福音だからです。

ですからイエス様は、「すべき、すべきでない」という空虚な議論には乗りませんでした。

イエス様は、「ローマ帝国を自分の主人として服従しなさい」と言うことなく、税金を支払うように言いました。

そして言われました。

神のものは神に返しなさい。

人生の中で私たちはこの訓練を何度も受けます。握りしめることなく、

いつでも神に明け渡すことができますように。

マルコ 12:1-12

「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。」(12:10)

詩篇118篇からの引用で、建物を建てる時に、どこにも合わないと捨てられた石が、アーチ構造の頂上の「要石」として必要とされたものだったという話から来ています。

(「要の石」は諸説あり、基礎の角に最初におかれる礎石という説もあります。)

この石が、アーチの両側からかかる力を受けとめてバランスをとることで、建造物の構造は保たれます。

外すと崩れてしまう重要な石で、アーチの両端をつなぐ役割を果たす欠かせない石です。

神の御子イエス様が来られたのに、「建てる者たち」、祭司長をはじめとするユダヤ人指導者たちが考える建物のどこにも合わないと、拒絶し、捨ててしまうという話です。

彼らが必要ないと捨てたイエス・キリストによって神の救いの計画は完成しました。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!