詩篇 44:9-26

「立ち上がって私たちをお助けください。御恵みのゆえに私たちを贖い出してください。」(44:26)

「御恵み」は「信実の愛」と訳せる単語(へセド)が使用されています。

それで、LBでは、

変わらない愛で助けてください。

と訳しています。

メッセージ訳では、興味深いことに、こう訳しています。

そんなに私たちを愛しているなら助けてください!

人は、何を土台にして、神に助けを求めることができるのでしょうか。

自分の功績でしょうか。

自分の中に何か神に助けを求めることができる何かがあるのでしょうか。

聖書が根拠にしているのは、

そんなに私たちを愛しているなら助けてください!

とあるように、神の愛です。

ある学者は

あなたのコミットメントのゆえに」と訳しています。

コミットメントは、日本語に訳すのが難しい単語の一つですが、誠実を尽くすとか、献身するという意味があります。

神のコミットメント、それは、イエス様の十字架に見ることができます。

詩篇 44:1-8

「自分の剣によって彼らは地を得たのではなく自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手あなたの御腕あなたの御顔の光がそうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」(44:3)

ここでは、過去における神の御業が述べられています。

イスラエルという国が誕生できたのも、神の御手の業であることを詩人は明言します。

神の臨在が、彼らが存在できている本当の理由であると自覚しているのです。

詩人は、救いはただ神にあると、神に望みを置いてきたと告白します。

武器などあてにはなりません。そんなものが救ってくれると考えるのは、大きな間違いです。あなただけが、憎しみのかたまりとなっている敵に打ち勝つことができるのです。私はいつも神を誇りました。神にはどんなに感謝しても、感謝しきれません。」(6-8節LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 43:1-5

「どうかあなたの光とまことを送りそれらが私を導くようにしてください。あなたの聖なる山あなたの住まいへとそれらが私を連れて行きますように。」(43:3)

あなたの光とまことを送り、私を導いてください

という表現は、比喩的表現です。

それで、メッセージ訳では、

灯りと羅針盤をください、地図をください、

と訳しています。

ポイントは、

聖なる山への道を見つけること」、

すなわち、神の「臨在の場所」への道を見つけるための助けを求めることです。

私たちは神の臨在の場所への道を見つけるために助けが必要です。

それでは神の臨在の場所への道を見つけるための神の光、灯火とは、何のことでしょうか。

それは、「聖書」のことです。

聖書は言います。

あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」(詩篇119:105)

聖書の御言葉の光なくして、神の臨在の場所を見出すことはできません。

詩篇 42:1-11

「私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。」(42:2)

詩人が求めているのは、今も生きて働いている神の現実です。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」(1節)

とあるように、鹿が慕い求める水は、古く、よどんだ水ではありません。

新鮮で、流れる川の水のイメージです。

新鮮な神の御言葉を、今日、聖書から受け取る必要があります。

なぜなら、私たちのたましいがあえぎ求める神は、今も、生きて働かれている神だからです。

過去存在していたというだけでなく、今も存在しておられ、後に来られるお方です。

キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じです。

私たちは生ける神、キリストを信じています。

イエス・キリストは今生きておられますから、私たちは、生ける神の現実を体験することができます。

私たちのたましいは、生ける神の現実を慕い求めます。

ヨエル 3:14-21

「判決の谷には、群衆また群衆。主の日が判決の谷に近づくからだ。」(3:14)

聖書は、人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっていると言います。

人は皆、神の御座の前に立つ時が来ます。

聖書は言います。

「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」(黙20:12)

その裁きの日、審判の日がまだ来ていないのは、神がひとりも滅びることを望まないからだと言います。

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」(2ぺテ3:9,10)

ヨエル 3:1-13

「あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌を槍に打ち直せ。弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ。」(3:10)

聖書は、私たちの戦いは人間に対するものではないと言います。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)

聖書はまた、弱気にならずに悪に立ち向かうことも語っています。

「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

私たちは弱い時に強いのです。

使徒パウロはこのように言いました。

「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。」(2コリント12:9)

ですから、信仰をもって、『私は勇士だ』と宣言しましょう!

ヨエル 2:18-32

「いなご、あるいは、バッタ、その若虫、噛みいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う。」(2:25)

私たちの人生の中に、いなごの襲来のようなことが起こることがあります。

せっかく積み上げたものが、もろくも崩れ去ってしまうことがあります。

収穫をするためには、もちろん、地を耕し、種を蒔き、手入れをしなければなりません。

時間をかけて、「さあ、収穫だ」と思った矢先に、いなごがやってきて、すべてを失う、そんなことが起こるのです。

しかし、神は、

「食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」

と言われる神です。

神は回復の神です。しかも、倍返しの神です。

「望みを持つ捕らわれ人よ、砦に帰れ。わたしは今日もまた告げ知らせる。二倍のものをあなたに返す、と。」(ゼカリヤ9:12)

ヨエル 2:1-17

「シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食を布告し、きよめの集会を召集せよ。」(2:15)

「いなごの襲来」を通して、表面的にではなく、心から悔い改めるならば、神は、律法の書に書いてあるように、災いを思い直してくださると、預言者ヨエルは伝えます。

興味深いことに、預言者ヨエルは、それぞれが個人的に悔い改めればそれで良いとは言いません。

香港のエドモンド・テオ先生の「地上側の天国」という本の中に、こんなことが書いてあります。

「神との関係を怠る礼拝は偶像礼拝です。他の信者との関係を無視する礼拝は偽善です。部屋の中に神と私だけがいれば十分だと考えているならば、それは宗教です。宗教は礼拝と交わりを切り離しますが、神の国においては、礼拝と交わりは相互に関係し相互につながっているのです。」

共に集まって祈ることに意味があります。

ヨエル 1:13-20

「あなたに、主よ、私は呼び求めます。」(1:19)

具体的に、南ユダ王国の罪がなんであったかは語られません。

しかし、断食に言及している点を考えますと、預言者イザヤのことばを思い起こさせます。

「見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかのためであり、不当に拳で殴るためだ。」

「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」(イザヤ書58:3,4,6)

神は、自分を正当化するための宗教は、けんかをするためで、意味がないと言います。

そのような自己中心的な姿勢を悔い改めて、自分の好むことではなく、神の御国がこの地に現されるために生きるように考え方を改めるように言います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヨエル書 1:1-12

「長老たちよ、これを聞け。この地に住む者もみな、耳を傾けよ。このようなことが、あなたがたの時代に、また先祖の時代にあっただろうか。これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。」(1:2,3)

預言者ヨエルに関してよく分かっていませんし時代も厳密に特定することはできません。

ただこの時、いなごの襲来があったことは確かです。

預言者は、これを単なる悲劇としてではなく、神からの警告(Wake Up Call)として受け止めるように告げます。

なぜならこのいなごの襲来は、この後イスラエルに異国の軍隊が押し寄せてくることの前兆だったからです。

いなごの襲来がエルサレムの崩壊の警告だったように、この書は世界の終わりに対する警告でもあります。

その日は思いがけない時にやってきます。

いなごが襲来したように、エルサレムが崩壊したように、それは、予期せぬ時にやってきます。