1列王記 13:1-10

「そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手は元に戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手は元に戻り、前と同じようになった。」(13:6)

自らが作り出した宗教の祭壇に香をたこうとしている時に、一人の神の人がやってきました。

神の人はヤロブアムが勝手に作った祭壇を断罪します。

その言葉を聞いたヤロブアムは怒ります。

「王は真っ赤になって怒り、護衛兵に、「この男を捕まえろ!」と大声で命じ、こぶしを振り上げました。そのとたん、王の手は麻痺して動かなくなり、 同時に祭壇に大きな裂け目ができ、灰がこぼれ出ました。確かに主のことばどおりになったのです。」(4,5節LB)

神の力を体験したヤロブアムは癒しの祈りを神の人に求め、驚くことに彼は自分を殺そうとしたヤロブアムのために祈り、神は彼を癒します。

神の恵みは計り知れません。

1列王記 12:21-33

「このことは罪となった。」(12:30)

この後、聖書はヤロブアムの罪という言及が繰り返されます。

神はヤロブアムに約束しました。

「もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。」(11:38)

しかし、彼は神の約束を信じることができず、自分で問題を解決しようとします。

ヤロブアムは神を恐れずに、自分で神々を作り、自分で祭司を任命し、自分勝手に考え出した日にいけにえを捧げます。

このように神のやり方ではなく、人々の関心を買うために自分のやり方で作り出した信心を「宗教」と呼びます。

そういう意味では、キリスト教は「宗教」ではなく、生ける神との「関係」です。

1列王記 12:12-20

「王は民の願いを聞き入れなかった。かつて主がシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムにお告げになった約束を実現しようと、主がそう仕向けられたからである。」(12:15)

私たちは歴史の表面的な部分だけで判断しやすいところがあります。

長老の助言に耳を傾けなかったレハブアム王の愚かな判断ばかりに目がいってしまいます。

実際、レハブアム王の傲慢な態度を見て、民は離れて行きます。

結果的に、ユダの部族以外はレハブアム王に従うことはなくなります。

このようにして、イスラエルの国は北と南に分裂します。

ところが聖書は、分裂王国の根本的な問題はソロモン王の背信行為だったと言います。

「主がそう仕向けられたからである」と言います。

次世代の愚かな判断の背後に、前の世代の愚かな行動があるというのならば、私たちは皆、へりくだって神の憐れみを求めることから始める必要があるのではないでしょうか。

1列王記 12:1-11

「レハブアム王は、父ソロモンが生きている間ソロモンに仕えていた長老たちに、「この民にどう返答したらよいと思うか」と相談した。」(12:6)

ソロモン王の息子、レハブアム王は41歳(14:21)で王となりました。

民の要求に関して、レハブアム王は三日待つように告げましたが、その間に祈りに神殿に行ったというような記述はありません。

それよりも、彼は相談したと言います。

神の御声ではなく、長老たちに、そして、自分とともに育ち、自分に仕えている若者たちに相談しました。

レハブアム王が長老たちの助言を退けたのは、彼が望んでいた助言ではなかったからだと考えられます。

聖書は忠告します。

「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4:3,4)

1列王記 11:26-43

「このために、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。」(11:39)

ソロモン王の背信の影響は、この後、ダビデ王朝を苦しめ続けました。

「しかし、それを永久に続けはしない」

と神が約束されたように、ダビデの子孫としてイエス・キリストは誕生しました。

イエス様は言われました。

「しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。」(マタイ12:42)

ソロモン王は神から知恵をはじめ、たくさんの祝福をいただきました。

しかし、ソロモン王の生き方は、人は知恵があるから豊かな人生を歩めるわけではないということを教えます。

しかし、イエス様はおっしゃられました。

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

1列王記 11:14-25

「こうして主は、ソロモンに敵対する者としてエドム人ハダドを起こされた。彼はエドムの王の子孫であった。」(11:14)

神はダビデにこのように言われました。

「彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」(2サムエル7:16)

神は御言葉通り、ソロモン王の不義に対して、ハダドとレゾンを敵対する者として起こし、ソロモン王を懲らしめました。聖書は言います。

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:11)

神の懲らしめには目的があります。私たちは苦しむ時、二つの反応が可能です。

一つは、苦々しい思いを持つこと。

もう一つは、砕かれ練られ、信仰が培われ、品性が磨かれ成長して行くこと。

神の懲らしめによってより良くなるか、より悪くなるかは私たちの選択です。

1列王記 11:1-13

「彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。」(11:3)

「ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。」(1節)

ソロモン王が多くの異国の女性たちと政略結婚をしたのは、国を強くするためだったと思われます。

ソロモン王は自分が揺らぐことはないと過信したのだと思います。

しかし、彼女たちはソロモン王の心を覆しました。

一夫多妻制は神のみこころではないというメッセージと、神の御言葉を軽んじてはいけないというメッセージがあります。

ソロモン王が晩年に書いたと考えられている伝道者の書にはこのように記されています。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(12:13)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1列王記 10:14-29

「全世界は、神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとして、彼に謁見を求めた。」(10:24)

神は自分のための富よりも、知恵を願ったソロモン王に、彼が願わなかった「富と誉れ」に与えると約束しました。(3:13)

そして、その約束の成就をここにみることができます。

聖書は、「神がソロモンの心に授けられた知恵」と、「知恵」を授けるのは神であることを強調します。

聖書は言います。

「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」(ヤコブ1:5)

神は私たちに知恵を与えてくださるお方です。

「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」(箴言9:10)

謙遜に、知恵を求めて祈ることができる人に、神は知恵を授けられます。

1列王記 10:1-13

「なんと幸せなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる、このあなたの家来たちは。あなたの神、主がほめたたえられますように。」(10:8,9)

シェバは今のイエメンの辺りと考えられています。

そこからイスラエルに来るほど、ソロモン王の評判は広がっていました。

大事な点は、ソロモン王の知恵を聞いたシェバの女王は、主なる神をほめたたえたということです。

神の知恵が現されるとき、神の御名があがめられます。

私たちは今、聖書を通して神の知恵を聞くことができます。

イエス様は言われました。

「シェバの女王でさえ、あなたがたをきびしく罰する側に回るでしょう。彼女は、ソロモンから知恵のことばを聞こうと、あんなに遠い国から旅して来ることもいとわなかったのです。ここに、そのソロモンよりまさる偉大な者がいるのに、あなたがたは信じようとしません。」(マタイ12:42)

1列王記 9:10-28

「ソロモンの所有するすべての倉庫の町々、戦車のための町々、騎兵のための町々、またソロモンがエルサレム、レバノン、および彼の全領地に建てたいと切に願っていたものを建てた。」(9:19)

ソロモン王は富を蓄え、様々な事業を行いました。

しかし、ソロモン王が負わせたこの過酷な労働のゆえに、ソロモン王の死後、王国は分断されます。

そのことを考えるならば、彼が「建てたいと切に願っていたものを建てた」という行動は適切だったのかと考えさせられます。

「ソロモンは、主のために築いた祭壇の上に、一年に三度、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ、それらとともに主の前で香をたいた。」(25節)

とあるように、神に対する礼拝を怠ったということではないと思われます。

しかし、神よりも、事業を中心にしている姿が見え隠れします。

エジプトの王ファラオの娘と政略結婚をしたのも、神のみこころではなく、自分中心になっていく彼の姿を反映しているように思われます。