1ペテロ 1:10-21

「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1:18,19)

イエス・キリストの十字架の御業は神が身代金を払ってくださったと言う意味があります。

当時のギリシャ・ローマ社会は、戦争捕虜が奴隷として売られる社会でした。

彼らが解放され、自由になるためには、身代金が必要でした。

人は、最初の人アダムとエバが神に逆らい、罪を犯してから、罪の奴隷となってしまいました。

罪の奴隷、罪の支配から解放されるためには、自由にされるためには、身代金が必要でした。

その値は「罪の報酬は死」(ローマ6:23)でした。

イエス・キリストの十字架の死は、私たちのためにその報酬を支払い、私たちを罪の奴隷から買い戻す、贖うと言う意味がありました。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1ペテロ 1:1-9

「父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。」(1:3)

キリスト者とは何かがこの挨拶に込められています。

「父なる神は、ずっと昔からあなたがたを選び、ご自分の子どもにしようと決めておられました。そして、聖霊が働いて、あなたがたの心はイエス・キリストの血によってきよめられ、神に喜ばれる者へと変わったのです。どうか、神があなたがたを祝福し、すべての不安と恐れから解放してくださいますように。」(LB)

聖書が語る私が私です。

社会的地位などこの世が張るレッテルに縛られないように気をつける必要があります。

キリスト者が選ばれた理由は、新しい世界の道標となるためです。

イエス・キリストの十字架と復活によって、新しい世界はすでにはじまりました。

イエス・キリストが再び来られる時に完成します。

それまで、キリスト者は神の御心をこの地に現す道標なのです。

1列王記 22:41-53

「彼は、父アサの時代にまだ残っていた神殿男娼をこの国から除き去った。」(22:46)

エルサレム神殿に神殿男娼がいたということは驚く内容です。

ソロモン王が祈りの家として神殿を建てた時にはいませんでした。

ソロモン王の子レハブアム王の時代に、

「主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、すべての忌み嫌うべき慣わしをまねて行っていた」(14:24)

とあります。

神を恐れず、神の御言葉を守らない人たちが、神が忌み嫌う異教の習慣を抵抗なく取り入れてしまったのです。

私たちは神を恐れ、神の御言葉を学ぶ必要があります。

そして、神が忌み嫌うものがあるならば、それを捨て去る必要があります。

聖書は言います。

「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」(2歴7:14)

1列王記 22:29-40

「戦車隊長たちはヨシャファテを見つけたとき、「きっと、あれがイスラエルの王に違いない」と思ったので、彼の方に向きを変え、戦おうとした。ヨシャファテは助けを叫び求めた。戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知り、彼を追うことをやめて引き返した。」(22:32,33)

アハブ王は預言者ミカヤの言葉に耳を傾けず、偽預言者たちの言葉に騙されて戦いに行きました。

ただ、ミカヤの言葉を意識したのか変装して行きました。

アラムの王はアハブ王だけを狙うように指示していました。

そのため、命拾いしたように見えました。

ところが、「何気なく」放った矢がアハブ王に命中します。

一方、王服を着ていたヨシャファテ王は狙われました。

しかし、「助けを叫び求めた」のを見て、アハブ王ではないことを知ったと言います。

ヨシャファテ王は、神に助けを叫び求めたのだと思います。

神に祈り求める謙遜さがアハブ王に欠けていたと敵さえも知っていたのです。

1列王記 22:13-28

「ケナアナの子ゼデキヤが近寄って来て、ミカヤの頬を殴りつけて言った。「どのようにして、主の霊が私を離れ、おまえに語ったというのか。」」(22:24)

四百人対一人。

しかし、多数の意見が必ずしも正しいとは限りません。

「偽りを言う霊」に動かされていると言われたゼデキヤは怒りに任せて預言者ミカヤを殴りつけました。

しかし、預言者ミカヤはゼデキヤに殴り返すことすらしませんでした。

なぜなら、どちらが神からの言葉かがわかる時が来ると知っていたからです。

神の霊によって神の言葉を語っているならば、ゼデキヤのように怒りに任せて殴りつけるようなことはしません。

なぜなら、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制だからです。

1列王記 22:1-12

「イスラエルの王はヨシャファテに答えた。「ほかにもう一人、主に伺うことのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。イムラの子ミカヤです。」ヨシャファテは言った。「王よ、そういうふうには言わないでください。」」(22:8)

アハブ王は約400人の預言者を集めましたが、自分について良いことを言ってくれる人たちを集めたにすぎませんでした。

そのことに気がついたヨシャファテ王は言います。

「ここには神の預言者がいないのですか。神の預言者にも聞いてみたいのです」(7節LB)

聖書は警告します。

「人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうの良い話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。彼らは聖書の教えに耳を傾けようとせず、まちがった教えにしっぽを振ってついて行くのです。」(2テモテ4:3,4)

1列王記 21:17-29

「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。」(21:29)

神は預言者エリヤを遣わしてアハブ王一族に対する厳粛な裁きを宣告します。

「王はエリヤのことばを聞くと、上着を引き裂き、ぼろをまとい、断食をし、荒布の上に伏して、打ちひしがれていました。」(27節LB)

アハブ王はエリヤに「わが敵よ」(20節)と言いましたが、エリヤの言葉のおかげで、アハブ王は悔い改めることができ、わざわいは延期されました。

私たちをへりくだらせ、神に立ち返らせてくれる存在は敵とは呼べません。

神は誰も滅びることを望まず、すべての人が悔い改めることを願っておられます。

神は言われます。

「わたしは、あなたがたが死ぬことを喜ばない。悔い改めなさい。悔い改めて、生きるのだ。」神である主がこう語るのです。」(エゼキエル18:32LB)

1列王記 21:1-16

「ナボテはアハブに言った。「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。」(21:3)

アハブ王は宮殿の側にあったナボテのぶどう畑を自分のものにしようと交渉します。

しかし、ナボテは神の律法に従うがゆえにアハブ王の申し出を断ります。

聖書は言います。

「土地はわたしのものだから、それを永久に売り渡してはならない。あなたがたは任されている者にすぎないのだから。土地を売るときは、いつでも買い戻せることを条件にしなければならない。」(レビ25:23,24LB)

アハブ王は神を恐れなかったがゆえに神の御言葉も軽んじました。

フェニキア人の王妃イゼベルはアハブ王がどうして王権を行使しないか理解できなかったのだと思われます。

彼女はナボテを偽りの罪で殺し、アハブ王がその土地を奪い取ることができるようにします。

神への恐れと神の御言葉を重んじることは正比例します。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1列王記 20:35-43

「イスラエルの王は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に戻って行き、サマリアに着いた。」(20:43)

イスラエルがアラムの軍隊を打ち破ることができたのは、神の御業でした

。しかし、アハブ王はあたかも自分の力であるかのごとく振る舞い、神のみこころを求めることなく、ベン・ハダドと契約を結んで去らせてしまいました。

アッシリアの脅威に対抗するためには、ベン・ハダドと協力する方が有益だと考えたのだと思われます。

ですから、このことを指摘されたアハブ王は悔い改めるどころか、不機嫌になり、激しく怒ったと言います。

自分の計画の方が、神のご計画より優れていると考えたのだと思います。

神を信頼するよりも、自分のやり方の方が優れていると考えたのだと思います。

しかし、神に従うことよりも大事なことがあるのでしょうか。

不機嫌になったり、腹を立てたりするのではなく、へりくだり、悔い改めることができますように。

1列王記 20:26-34

「ときに、一人の神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「主はこう言われる。『アラム人が、主は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこの大いなる軍勢をすべてあなたの手に渡す。そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る。』」(20:28)

預言者が預言していたように、アラムの大軍が再びイスラエルに進軍してきました。

イスラエル側も準備をしていましたが、「アフェクを埋め尽くしているシリヤの大軍に比べて、イスラエル軍は二つの小さなやぎの群れのようにしか見えませんでした。」(27節LB)

しかし、神にできないことはありません。

無名な預言者の言葉を握り戦ったイスラエル軍は大勝利を収めます。

アラム軍の上に「城壁が崩れ落ちた」(30節)という内容は、明らかに神のご介入です。

神は神であり、「山の神であって低地の神ではない」という自分勝手な解釈は身の破滅となります。