2列王記 6:24-7:2

「エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。」(7:1)

普段はイスラエルの神を信じてもいないのに、問題が起こった時に、イスラエルの神のせいにしました。

そもそも、イスラエルの民が神を捨てた結果、このような災いを体験しているのにも関わらず、王は悔い改めるどころか、預言者エリシャのせいにして、エリシャの首をはねるように人を遣わします。

エリシャはその使者に明日の今頃は状況が回復することを伝えます。

しかし、使者は神の言葉を聞かず、自分が考えられる範囲で不可能なのだから、神にも不可能と言います。

カルバリ―チャペルのチャック・スミス先生はこのように言います。

「不信仰は、あなたが神の祝福を楽しまないようにさせる」

エリシャが

「主のことばを聞きなさい。」

と言ったように、私たちは聖書のみことばを聞く必要があります。

不信仰は、キリストにある豊かな人生を持てないようにするからです。

2列王記 6:15-23

「すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。」(6:16)

シリアの王は、戦略を見抜く預言者エリシャを捕まえるために馬と戦車と大軍を彼の町に送り、包囲させました。

それを見た若者はエリシャに言います。

「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう。」

それに対して、エリシャは言います。

「恐れるな。私たちの軍勢は彼らよりも多く、強いのだから。」(16節LB)

そして、エリシャは祈ります。

「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」

神が彼の霊の目を開かれたので、火の馬と火の戦車がエリシャたちを取り巻くように山に満ちているのが見えました。

私たちもこの若者のように恐れることがあります。

だからこそ、この若者のように、霊の目が開かれるように祈る必要があります。

聖書は言います。

「あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。」(1ヨハネ4:4)

2列王記 6:1-14

「神の人は言った。「どこに落ちたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。」(6:6)

預言者エリシャの働きは拡大し、彼と一緒にいる仲間たちの数が増えました。

それで、ヨルダン川の近くに新しい場所を建てることになりました。

「ところが、木を切っていた一人が斧の頭を川に落としてしまったのです。「先生、大変です。あの斧は借り物なのです。」」(5節LB)

神のために働いているのに、どうしてこんなことが起こるのだろうと思うことが起こったりします。

しかし、エリシャが一本の枝をそこに投げ込むと、重い斧の頭を浮かばせました。

要するに奇跡が起こったのです。

これは、神が確かに今も生きて働いておられることを示しました。

彼らを励ましたに違いありません。

マイナスは必ずプラスになります。

主の御名を呼び求めましょう!

2列王記 5:15-27

「ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。」(5:15)

シリアのナアマン将軍は、預言者エリシャが出て来なかったことに腹を立てました。

彼は言います。

「なんということだ。預言者がじきじきに出て来てあいさつし、患部に手をあて、彼の神の名を呼んでツァラアトを治してくれると思ったのに。」(11節LB)

ところが、神の癒しを体験した今、彼自身がへりくだってエリシャの前に立ち、信仰告白をします。

「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。」

ナアマン将軍は、人ではなく、主なる神が生きておられ、癒されることを体験しました。

人ではなく、神が癒されます。

私たちは人ではなく、今も生きて働いておられる神に期待します。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2列王記 5:1-14

「彼女は女主人に言った。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」」(5:3)

背景として、

「アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。」(5:2)

という話があります。

私たちが疑問に思うことは、どうして神はアラムの略奪を神は許されたのかということです。

彼女が捕えられ、ナアマンの妻に奴隷として仕えることを、どうして許されたのかということです。

彼女の発言は、彼女が信仰を持っていることを示唆します。

それなのにどうして、神は彼女がこのような扱いを受けることを許されたのか、私たちは理解できません。

私たちが知っていることは、神は彼女を用いて、ナアマンのツァラアトを癒し、神の力を表したということです。

私たちは理解することではなく、信頼することが求められています。

2列王記 4:38-44

「彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」」(4:43)

一人の信仰者が「初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに」持ってきました。

初物を神に捧げたこの一人の信仰者の行動が百人もの預言者たちを支えることとなります。

神は捧げられた限りある資源を増やして、満たすことができるお方です。

エリシャは主の「彼らは食べて残すだろう。」という御言葉に従順したことで、奇跡を見ました。

イエス様は5つのパンと2匹の魚で5千人を養いました。

しかも、

「彼らはみな、食べて満腹した。」(マルコ6:42)

と言います。

イエス様の弟子たちもイエス様の御言葉に従い、奇跡を見ました。

神の御言葉に聴き従うならば、神の奇跡を体験することになります。

2列王記 4: 18-37

「その子の母親は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。」(4:30)

シュネムの女の息子が突然死んでしまった時、彼女は預言者エリシャのところに行きました。

エリシャは彼女に死んでしまった息子のことをあきらめるように諭したわけではありませんでした。

彼女の懇願を聞き入れて、直接、彼女の息子のところに行き、祈ります。

そして、神はエリシャの祈りに答えて、彼女の息子を死からよみがえらせます。

私たちは祈りの力を過小評価すべきではありません。

神は私たちの小さな祈りを用いて、大いなる御業をなされます。

ヤコブはこのように言っています。

「エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。」(ヤコブ5:17)

エリヤと同じように、エリシャも私たちと同じ人間です。

2列王記 4:1-7

「器がどれもいっぱいになったので、彼女は子どもの一人に言った。「もっと器を持って来なさい。」その子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。」(4:6)

ある伝道者がこんなメッセージをされていました。

空の器を探して歩き、愛の油を注ぎ続けなさい。

愛の油を注ぎ続ける限り油は無くならない。

イエス様もこうおっしゃられました。

「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」(ルカ6:38)

使徒パウロもエペソの教会の長老たちに言いました。

「主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」(使徒20:35)

2列王記 3:13-27

「彼は次のように言った。「主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』」(3:16)

原文は「みぞ、みぞ」と反復して複数で表現されているので、これまでの新改訳では

「この谷にみぞを掘れ。」

と訳していました。

「新聖書注解」はこう解説します。

「水が十分にあたえられるから準備をせよとの意味である。」

皆様の人生の中でも、涸れた谷にいるような時があると思います。

しかし、神は神の時に、神でしかできない方法で、奇跡的に水を十分に与えてくださいます。

神はその準備をするように「みぞ」を掘り続けるようにおっしゃられます。

どんなに状況が期待できないような状態であったとしても、信じてみぞを掘り続ける・・・、信仰の備えをする。

たとえ今、涸れた谷にいたとしても、暗やみの中でも、神が命じられるように「みぞを掘り続ける」中で、朝が来て「そのみぞが水で満たされていた」という神の御業を体験する時がきます。

2列王記 3:1-12

「ヨシャファテは言った。「ここには、主のみこころを求めることができる主の預言者はいないのですか。」」(3:11)

試練は神のもとに帰って来るためにあります。

モアブという国が、北イスラエル王国に対して、反乱を起こしたため、北イスラエル王国は、南ユダ王国とエドムの王に援軍を依頼しました。

三つの国の王とその軍隊が、一緒にモアブ征伐に向かうのですが、回り道をしてしまったため、水がなくなってしまいました。

問題が問題ではありません。

その問題をどうするかが問題です。

ヨシャパテ王は、問題をどう扱うべきか、理解していました。

彼は問題を、神様のみこころを求める時、神に近づく時としました。

祈りに導かれるのであれば、問題というのは、悪いものではありません。

自分の力でなんとかなると、回り道をして疲れ果て、どうすることもできない状態になっても神を求めるきっかけとなるのであれば、悪いことではありません。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!