2列王記 10:1-11

「だから知れ。主がアハブの家について告げられた主のことばは一つも地に落ちないことを。主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」(10:10)

歴史が動く時、そこには人間の思惑以上のことが起こっています。

エフーは、

「主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」

と、すべてが神の御手の中にあったことを告げます。

私たちは神ではないので、すべてのことを理解することはできません。

しかし、確かに歴史を動かす生けるまことの神がおられます。

このお方がおっしゃることは必ず成し遂げられます。ですから、イエス様もおっしゃられました。

「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」(マタイ5:18)

ですから、聖書を学ぶことは大切なことです。

2列王記 9:27-37

「帰って来てエフーにこのことを知らせた。するとエフーは言った。「これは、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。」(9:36)

イゼベルは主の預言者たちを殺害し、エリヤの命さえ狙いました。

神はそんなイゼベルに裁きの宣告をエリヤに告げました。(1列王21章参照)

そして、その御言葉のとおりであったことをエフーは確信します。

聖書は言います。

「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」(イザヤ55:10-11)

主なる神が語られたならば、神が成し遂げられます。

ですから、日々、神の言葉である聖書の御言葉を読むことが大切です。

2列王記 9:14-26

「ヨラム王は、アラムの王ハザエルと戦ったときにアラム人に負わされた傷を癒やすため、イズレエルに帰っていたのである。エフーは言った。「もし、これがあなたたちの本心であるなら、だれもこの町から逃れ出て、イズレエルに知らせに行ってはならない。」」(9:15)

預言者がエフーに油を注いだことを知った彼の主君の家来たちは、「エフーは王である」(9:13)と言いました。

エフーの謀反に反対する人はいませんでした。

エフーはヨラム王をナボテの所有地であった畑に投げ捨てたとき、このように言います。

「思い起こすがよい。私とあなたが馬に乗って彼の父アハブの後に並んで従って行ったときに、主が彼についてこの宣告を下されたことを。」(25節)

エフーは神がエリヤに語った言葉を知っていたのだと思われます。(1列王21章参照)

「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)

2列王記 9:1-13

「エフーは立って、家に入った。そこで若者は油をエフーの頭に注いで言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。」(9:6)

サウル王も、ダビデ王も、油を注がれて王となりました。

油を注ぐことは王位が与えられる象徴です。

エフーに油を注ぐことは、そもそも、預言者エリヤに与えられた役割でした。(1列王19章参照)

それを、さらに後継者であるエリシャが、預言者に仕える若者に託しました。

いずれにせよ、王を廃することも、立てることも、主なる神です。

そのような意味で、最終的に油を注がれるのは主なる神です。

エフーは、神のみこころを行うために油を注がれました。

イエス・キリストを信じる者たちもまた、神のみこころを行うために油が注がれています。

聖書は言います。

「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。」(1ヨハネ2:20)

聖書を読むことから始まります。

2列王記 8:16-29

「しかし、主はそのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると彼に約束されたからである。」(8:19)

人は影響を受ける存在です。

ですから、問題は誰の影響、どんな影響を受けるかです。

聖書は言います。

「彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻だったからである。彼は主の目に悪であることを行った。」(18節)

彼は妻の影響を受けました。

その妻は、北イスラエルにバアル礼拝をもたらしたアハブ王とイゼベルの娘でした。

私たちは自分は大丈夫と思わずに、悪い影響を受けないように気をつける必要があります。

残念ながら、ヨラム王は悪い王として歴史に名を刻むこととなります。

しかし、神はダビデとの契約に信実を尽くされました。

最終的に、イエス・キリストはダビデの子孫として生まれ、ダビデとの契約は成就します。

明けました?

 ああ、暑い。なんという暑さじゃ、、、

少し前にようやく梅雨入りしたはずなのに、もう、梅雨明けですか?という夏空。

数日前、幻聴かと思ったら本当に蝉が鳴いていました。

救急車の行き交う音も急に増えてきて、ああきっと熱中症だろうなとつい思ってしまうほどの尋常じゃない暑さに、本格的な夏を前に少々心が折れております。

みなさまご無事でしょうか。

近年は南の魚が東北の海で獲れるそうで、陸だけではなく海でも様々な異変が起きているそうです。

こんなに猛暑が続くならいっそ教会の広い屋根のスペースにソーラーパネルを置いたらどうかしらと真剣に考えてしまいます。

わたし自身数年前に熱中症に、しかも寝ている間になってしまった経験があります。

目眩と吐き気、身体の硬直が主な症状でしたが非常に怖かったです。

特に年齢を重ねると暑さの感覚が鈍ってきますので、自分の感覚を信じないで定期的な水分補給(スポーツドリンクが良いと思います)をしてくださいね。

今週も愛する兄弟姉妹の日々が守られますように、互いに祈りあい、支えあっていきましょう!

 (小山晶子牧師婦人)

2列王記 8:7-15

「さて、エリシャがダマスコに行ったとき、アラムの王ベン・ハダドは病気であった。すると彼に「神の人がここまで来ている」という知らせがあった。」(8:7)

ダマスコはアラム(シリア)の首都です。

どうしてエリシャがイスラエルからダマスコに行ったかは記されていません。

ただ、その知らせを聞いたアラムの王は、贈り物を持ってエリシャのところに行って、主なる神のみこころを求めるように告げます。

アラムの王に信仰があったかどうかは定かではありません。

しかし、エリシャがアラムの策略をことごとく妨害し、エリシャを捕らえようとした略奪隊を逆に捕らえて戻って行かせたことなど、エリシャを「神の人」と認識していたことは確かです。

私たちが理解すべきことは、神はイスラエルの国だけでなく、すべての人の神であるということです。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2列王記 8:1-6

「この女は神の人のことばにしたがって出発し、家族を連れてペリシテ人の地に行き、七年間滞在した。」(8:2)

シュネムの女は神の人のことばに従って、ペリシテ人の地に行きました。

彼女は、神を恐れて、神の預言者を助けたので神の奇跡を体験しました。

彼女は飢饉を避けて安らかに生活することができました。

そして、イスラエルに戻ってくると、ちょうど、ゲハジが王に死人を生き返らせた出来事を話しているところでした。

彼女は王にそのことを話し、彼女は家と畑を取り戻しました。

神の御言葉に生きる人には、神が必ずすべてのことを働かせて益としてくださいます。

神のタイミングは絶妙です。

不思議な出会いを与えてくださいます。

不思議な機会を与えてくださいます。

2列王記 7:11-20

「侍従は神の人に答えて、「たとえ主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言った。そこで、エリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言った。そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。」(7:19,20)

不信仰が支払う値は悲劇です。

王の側近は、エリシャの預言が実現したことを見るのですが、その祝福を味わうことはできませんでした。

エリシャが求めたのはただ一つ、

「主のことばを聞きなさい。」

だけでした。

ところが、このイスラエルの王の側近は、自分の考えで神のことばを無にしてしまったのです。

イエス様は言われました。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

私たちの神は

「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」(エペソ3:20)

です。

神は私たちが知らないところから、それをもたらすことができるお方です。

2列王記 7:3-10

「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」(7:9)

エリシャが主の言葉を語った時、神は驚くことをされていました。

シリアの陣営に軍勢が攻め寄せる音を聴かせたので、彼らは何もかも置き去りにして逃げました。

そのことをイスラエルの人たちは知りませんでした。

王も側近も知りませんでした。

目の前にあふれるほどの食料があるのにも関わらず、人々は町の中で飢えていたのです。

彼らを救うために用いられたのは町の外に住まなければならなかったツァラアトに冒された4人でした。

彼らは最初、自分たちだけで飲み食いしていました。

しかし、途中で自分たちのやっていることに恐ろしくなります。

私たちもイエス・キリストの福音がどんなに良い知らせかを理解するならば、伝えずにはいられません。