2列王記 15:1-12

「主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔離された家に住んだ。」(15:5)

アザルヤは、歴代誌ではウジヤという名前で呼ばれています。

列王記では、何があったか詳しく記されていませんが、歴代誌には詳しく記されています。

「しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入ったのである。」(2歴26:16)

ウジヤ王は祭司たちの言葉に耳を傾けることなく、祭司しかしてはいけないことをしました。

そのために、ツァラアトに冒された者となったのです。

聖書は繰り返し語ります。

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:5,6)

2列王記 14:17-29

「彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。」(14:25)

有名なヨナ書はこのように始まります。

「アミタイの子ヨナに、次のような主のことばがあった。」(ヨナ1:1)

明らかに、今日の箇所に出てくるヨナとヨナ書のヨナは同一人物です。

ヨナは北イスラエルで活躍した預言者だったことがこの箇所から垣間見ることができます。

また、イスラエルの領土の回復を語った、愛国心の強かった預言者であったと考えられます。

そう考えると、北イスラエル王国を滅ぼすことになるアッシリア帝国の首都、ニネベに行って、悔い改めのメッセージを語ることは、死んでも嫌なことだったことが分かります。

しかし、神のみこころはすべての人が悔い改めて、救われることです。(2ペテロ3:9参照)

2列王記 14:1-16

「モーセの律法の書に記されているところに基づいてのことであった。」(14:6)

アマツヤ王は「主の目にかなうことを行った」(3節)とあります。

それは、当時の世界の常識ではなく、聖書に基づいて決断していたことから分かります。

ところが、エドム人との戦いに勝利したことによって傲慢になってしまいます。

彼はエドム人の神々を自分の神々として礼拝し始めます。

そのことを忠告するために神が遣わされた預言者に、彼は言います。

「われわれはおまえを王の助言者にしたか。やめよ。なぜ、打ち殺されるようなことをするのか。」(2歴25:16)

聞く耳のない王に預言者は言います。

「私は、神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこのことを行い、私の勧めを聞かなかったからです。」

聖書は警告します。

「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」(黙示録2:7)

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2列王記 13:14-25

「それからエリシャは、「矢を取りなさい」と言ったので、イスラエルの王は取った。そしてエリシャは王に「それで地面を打ちなさい」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。」(13:18)

ヨアシュ王は矢をとって、地面を打ちました。

1回、2回、3回、そして、止めました。

古代の戦いというのは1、2回で決着がつくようなものではありませんでした。

1回目ははじまり。

2回、3回は、相手を後退させる程度です。

5回、6回戦って、やっと決着がつくことができました。

つまり、ヨアシュ王が、3回で、地面を打つのをやめたというのは、勝利するまで戦い続けるのはしんどいから、自分が生きている間はなんとかやり過ごせればと考えたということだと思われます。

エリシャはヨアシュ王の「こんなものでいいや」という姿勢に怒ったということです。

私たちの祈りの手の上には、主の御手がのせられています。

あきらめずに地面を打ち続ける、祈り続ける信仰生活を、歩んでいきましょう!

2列王記 13:1-13

「しかし、エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞き入れられた。アラムの王の虐げによって、イスラエルが虐げられているのをご覧になったからである。」(13:4)

士師記と同じサイクルがここでも繰り返されます。

イスラエルの民は罪を犯し続けます。(2節)

神は、シリアの王、ハザエルがイスラエルを攻めるのを許されます。(3節)

しかし、エホアハズ王が主に願ったので、神は「一人の救う者」を与えます。(5節)

「それにもかかわらず」イスラエルの民は悔い改めず、罪を行い続けます。

エゼキエル書で、神は民にこのように言います。

「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか─神である主のことば─。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。」(18:23)

神は「エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞き入れられた」と言います。

神は悪しき者の死さえも喜ばれません。

すべての人が悔い改めて生きることを願われています。

2列王記 12:9-21

「ユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、主の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。」(12:18)

ヨアシュ王は神殿の修理のために情熱を傾けました。

しかし、シリアが攻めてくると、主なる神に助けを求めることはなく、神殿に聖別して捧げられた宝物を送ったと言います。

目に見えない神よりも、目に見える解決策に走ったヨアシュ王は、家来たちに殺されてしまいます。

祭司エホヤダが中心になって神殿を修理していた時は、ヨアシュ王も、「いつも主の目にかなうことを行った」(2節)とあります。

祭司エホヤダが死んだ後、ヨアシュ王は主の神殿を正しく用いることができなかったということなのだと思われます。

神殿は私たちが主なる神に祈るためにあります。

2列王記 12:1-8

「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。」(12:2)

ヨアシュ王にとって祭司エホヤダは、後見人であり、摂政であり、メンターでした。

残念ながら、祭司エホヤダが死んだ後、彼は主なる神から離れてしまいます。(2歴代誌24章)

人は傲慢になりやすいということなのだと思います。

謙遜に学び続けることが難しいということなのだと思います。

聖書は言います。

「神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤをおおった。彼は民よりも高いところに立って、彼らに言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ主の命令を破り、繁栄を逃がすのか。』あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」」(2歴代24:20)

ヨアシュ王は、結局、彼に忠告した祭司エホヤダの子ゼカリヤを殺してしまいます。

「ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれた誠意を心に留めず、かえってその子を殺した。」(2歴代24:22)

2列王記 11:1-12

「しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバは、殺される王の子たちの中からアハズヤの子ヨアシュをこっそり連れ出し、寝具をしまう小部屋にその子とその乳母を入れた。人々が彼をアタルヤから隠したので、彼は殺されなかった。」(11:2)

アタルヤはヨラム王の妻であり、北イスラエルのアハブ王の娘でした。

自分の息子であるアハズヤ王が、エフーの手によって死んだと知ると、彼女はダビデの子孫を滅ぼして、自ら王になります。

神のダビデ契約は途絶えたように見えましたが、神は不思議な方法で、エホシェバという一人の勇敢な女性を用いて、ヨアシュを救い出します。

この時、ヨアシュは一歳だったと考えられます。

彼女は神のみこころを知っていたからこそ、命懸けで行動したのだと思われます。

神のみこころを知るためには、聖書の御言葉をいつも心に留めておく必要があります。

聖書の御言葉が何をなすべきかを教えてくれます。

2列王記 10:28-36

「主はエフーに言われた。「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く。」」(10:30)

神が、エフーがイズレエルで行ったアハブの家への裁き、そしてバアル崇拝者の根絶を全面的に肯定しているように見えます。

しかし、ホセア書にはこう記されています。

「主は彼に言われた。「その子をイズレエルと名づけよ。しばらくすれば、わたしがイズレエルでの流血のゆえにエフーの家を罰し、イスラエルの家の王国を終わらせるからだ。」(1:4)

結局のところ、神は

「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

神は言われます。

「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない─神である主のことば─。だから立ち返って、生きよ。」(エゼキエル18:32)

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2列王記 10:12-27

「「私と一緒に来て、主に対する私の熱心さを見なさい」と言った。」(10:16)

「熱心」は「ねたみ」とも訳せる単語で、民数記に出てきます。

「「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。」(民数記25:11)

エフーもピネハスも暴力によって神の義をもたらそうとした人です。

回心前のパウロもそうでした。

「その熱心については教会を迫害したほどであり」(ピリピ3:6)。

しかし、パウロは後にこのように記しています。

「私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」(ローマ10:2,3)

神の義はキリストの十字架にあります。