ああ、おいしい

港南台バーズの中に新しいお店がオープンしました。国内外から様々な食材を集めた見るだけで楽しい「北野ACE(エース)」という店です。成城石井やカルディとかぶる感じもあるのですが、フロアが広く商品が見やすいので落ち着いてショッピングが楽しめます。驚いたのはナッツ類・ドライフルーツ類の豊富さとレトルトカレーの種類の多さ。売り場棚の半分全てがレトルトカレーだったことには圧倒されました。でも、本当に感動したのは276円のごま高菜漬けです!まあ、おいしい。おいしいにもいろいろあると思いますが、とにかくめっちゃおいしいです!恐らく北野エースのオリジナル商品だと思うのですがご飯が進むこと、進むこと。皆様是非お試しください。味わうって、大切ですね。だって確信をもって紹介できるから。罪が赦され、永遠の命をいただけるって本当に素晴らしいんだよ!イエス様のこともそんな風に、確信をもって人々に伝えるためには私たちがまずしっかりとその事実を味わうことから始めなければいけませんね。   (小山晶子牧師婦人)

カレーライス

日米で牛肉とオレンジ輸入自由化が1988年に合意に達するまで、少なくとも我が家において牛肉が食卓に上るということはあまりなかったように記憶しています。瀬戸内海で育ったせいか魚を食べることが多く、今振り返ってみても印象に残っている母の料理に牛肉が使われていた記憶はほとんどありません。しかし、そんな我が家でも唯一絶対に牛肉以外使うことがなかった料理がカレーライスです。ですから、日本のカレーライスには牛肉だとずっと思っていました。ところが先日ある番組で“関東ではポークカレー、関西ではビーフカレー”と聞き驚きました。関東育ちの家族に聞いてみたところ、関東ではポークカレーが一般的であることを聞きさらにびっくり。知りませんでした。今日の食事会は、これでもか!というくらい牛肉が入ったカレーです。食事をしながら教会を共に建てあげるために時間をとることは楽しみでもあり、喜びでもあります。バナナが入った牛肉カレーをどうぞお召し上がり下さいませ。ポークカレーが好きな人、ごめんなさい。 (小山晶子牧師夫人)

エペソ 4:1-16

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(4:1-3)

私たちはご利益のためではなく、キリストに召された者としてふさわしい生き方が求められています。具体的には、

「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保」つこと

です。これが、この地上に神の御国を現すためにふさわしい生き方です。与えられた限りのあるこの世での人生をどのように過ごすか、どのように生きるか、聖書はすでに示しています。もちろん、一朝一夕に実現する話ではありません。時にはうまくいかないこともあると思いますが、方向性をはっきりすることは大切なことです。そして、聖霊なる神は必ず生きる力を与えてくださいます。

関西弁になる前に

昨日はイーストフェローシップデイで行うHOPカフェの買い出しのため、朝から並木のコストコに行ってきました。待ち合わせ時間より15分以上早くついてしまったので、入り口近くのベンチ目指して下りエスカレーターに乗りました。すると、私の真後ろに子連れの家族が。かなり距離が近かったので会話が聞こえてしまいます。どうやら今日はその幼い息子さんの誕生日らしく、何を食べようか、などと楽しそうな会話が聞こえてきます。ところが、当の本人はあまりの嬉しさのせいか調子に乗ってしまいジャンプしたり、エスカレーターのベルトにつかまって遊んだり。お母さんが何度かやさしく注意していましたが、次第に口調が厳しくなり、最後にこう言ったのです。『あんた、ええかげんにしいよ!』関西弁や、、、。やっぱり関西人は怒ったら関西弁になるんやな、、、。非常に親しみを感じつつ、こう思いました。“ああ、神様が関西弁になる前に注意されたことはちゃんと直さななー。“神様の忍耐の中で、子どもである私たちは育てられているのですね。
(小山晶子牧師夫人)

ガラテヤ 5:7-26

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(5:15)

ガラテヤのクリスチャンたちは、互いに、いがみ合ったり、非難し合っていました。手紙全体から想定できることは、ガラテヤのクリスチャンたちは、ユダヤ民族のしるしであった、割礼や食物規定などの「律法の行ない」によって、神との関係に安心感をもっていました。この「律法の行い」が皮肉にも踏み絵となり、互いを裁き合う結果になっていました。割礼を受けたら一流、割礼がなければ二流。パウロは、クリスチャンのしるしは「律法の行い」ではなく、「聖霊の内住」だと訴えます。神が望んでおられることを一言でまとめるなら、「互いに愛し合うこと」だと言います。パウロの「皮肉」が聞こえてくるように感じます。「それでは、本当に律法を守っているとは言えないですよ。」

ガラテヤ 4:21-5:6

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(5:6)

「キリスト・イエスにあって」ということは、キリスト・イエスの中にあるということです。キリスト・イエスの中に在るかどうかが大事であり、割礼の有無ではありません。割礼はキリストの立場を決定しません。「愛によって働く信仰」ということは、「愛が働いてその存在を発揮する信仰」という意味があります。神がイエス・キリストを遣わして私たちに永遠のいのちをもたらしてくださったその動機は、「愛」でした。私たちの信仰というのは、この神の愛を通して働くものです。ですから、パウロはこのように祈っています。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ三・十九)信仰が働くためには、キリストの愛を知る必要があり、キリストの愛を知るためには、「祈り」が必要です。

戻りたい過去

皆さんは戻りたい過去がありますか。
先日長男とこの話になりました。さかのぼって戻ってやり直したい時代があるか、という話の中で私にも長男にもそんな過去がないということが判明し、笑ってしまいました。結論は「今が一番いい」というところでしょうか。あの時ああすればよかった、こうすればよかった、あんな経験しないほうが良かった、あんなこと言わなきゃよかった。わたしにもそんな思いがないわけではありません。けれどもその失敗や痛み、後悔、その一つ一つが今の私に至るために必要なことだったと思うのです。何よりも、全てを働かせて益と変えてくださる主にお任せできることは本当に幸いなことだと思います。実は今も、大きな試みの中にいます。でもこの出来事もやがて益となることを知っているのです。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがあることをこれまでの歩みの中で学び、体験的に知っています。皆さんの今の痛みもやがて喜びへと変えられていくことを信じます。
(小山晶子牧師夫人)

2コリント 12:1-10

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(12:9)

パウロには問題がありました。多くの学者は、目の問題だと考えていますが、はっきりと分かってはいません。神は彼を用いて多くの人をいやされましたが、彼はいやされませんでした。「いやしてください」と何度も祈った彼に神はただこう言いました。

「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」(LB)

私たちに弱さがあるからこそ、神の力が輝きます。自分に足りなさがあるからこそ、神の偉大さが現されます。マイナスは必ずプラスになります。

「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(10節)

あれもこれも

台風21号の直撃によって西日本や東海地方は大きな被害を受けました。飛ばされていく屋根や自転車、横転するトラック。あれもこれも飛ばされて、さながら地球滅亡の映画を見ているようでした。数日待たずに今度は北海道での大地震。日本はどうなってしまうんだろう、と思った方も少なくないはずです。でも、様々な状況を目の当たりにしてこうも思うのです。この世界はやがて終わるのだ、と。私たちに寿命があるようにこの世界にも寿命があるのだ、と。イエス様ご自身も「この天地は滅びます。」とはっきりおっしゃっています。そしてこうもおっしゃっています。「あなた方の心が放蕩や深酒やこの世の思い煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように突然あなた方のところに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は全地の表に住むすべての人に臨むからです。」当たり前だと思った日々がある日突然終わるのだ、とイエス様は警告しています。考えたくないかもしれませんがこれが聖書に明確に記されていることなのです。 (小山晶子牧師夫人)

さくらももこさん

まだ遠距離恋愛中だった25年前、アメリカへ留学中の英児さんに送った唯一の本がさくらももこさんのエッセイ「もものかんづめ」。これを送られた英児さんはなぜこの本を私が送ってきたのか「?」だったそうですが、どんなにつらくてもこの本を読んだら絶対に笑える!と思ったのです。8月半ばに53歳で彼女が亡くなった、というニュースは彼女のエッセイや漫画をほぼすべて読んできた私にとって非常にショッキングな知らせでした。そんな話を息子にしていたら、アニメ「ちびまる子ちゃん」に『まるちゃん教会へ行く』という回がある、との情報を教えてくれました。さっそく見てみました。まるちゃんがブー太に誘われてお菓子目当てで教会に行くというお話。知らない賛美歌に戸惑ったり、朝起きるのがつらくて次の週は休んだり、初めて行った日に聖書をもらったり。きっと小学生のさくらさんが実際に礼拝に参加した時のいろいろな気持ちが詰め込まれたお話なのだと思います。まかれた種がどうか残っていますように。そんなことを思いながら見ていたら泣けてきてしまいました。 (小山晶子牧師夫人)