たまにはこんな日も

2018年も残すところあと一か月。
何を書こうかとパソコンを前にして座ってみたものの何も浮かんできません。どうして何も浮かんでこないかと考えてみると、恐らく明日の食事作り(補講アルファのため)が気になって考えがまとまらないということに気がつきました。本当は豚汁とおにぎりにしようと思っていたのですが、イタリアンが食べたいという約一名の希望によりこれからミートソースづくりをしなければならないのです。そんなに難しい作業ではないのですがグルテンメニューなのでそうすると自分が食べるものを別で作らないといけないし、、、等々考え始めてちょっと気が重くなってしまっているのです。まあ、たまにはこんな日もあります。ゴロゴロしている猫たちを見ながら、こころは若干逃避気味。そんなこんなを徒然なるままに書いているとかなり書き進められてしまいました。兼好さんもこんな気持ちだったのかな。さて、そろそろ作業に取り掛かります。アドベント一週目は、イエス様のご降誕を覚えつつミートソースパスタにします。 (小山晶子牧師婦人)

十一月最後の日曜日

ですね。

寒さが一段と厳しくなり、そろそろストーブの準備をしようかと思案中です。きょうは感謝礼拝です。皆さんの証を聞くことができるのを楽しみにしています。振り返って恵みを数えることはとても大切なことだと思います。わたしたちは日々の生活に追われ、ともすると目の前のことしか見えなくなり、「生かされている」ことを忘れてしまうからです。どれほど多くの恵みの中で生かされているのか。それを自覚する機会がこの感謝礼拝だと思います。私自身は、一つ一つの働きが守られたことを本当に感謝しています。そしてほっとしています。一番最近では一昨日のワンデイバイブルスクールです。今回は世界最古の文明であるメソポタミアのシュメール文明に光を当て、聖書の記述と照らし合わせながらクリスチャンのルーツを学ぶ機会を持ちました。アブラムがウルを出発してから約四千五百年の時を経て、今私たちが彼と同じ唯一真の神を信じていることの不思議と幸いに思いを馳せるひと時でした。感謝。  (小山晶子牧師婦人)

ピザを食べました。

Lサイズのピザが二枚、目の前に用意されていました。特に左側のピザは数種類のチーズがたっぷり!めずらしくグルテンにうるさい(私がグルテンをとると怒りっぽくなるため)息子たちも側にいなかったので、チーズたっぷりの方を一切れ手に取って大口でぱくりと食べてみました。とろーりチーズの芳醇な甘い香りと濃厚な深い味に思わず「うわーおいしい!」と声が出てしまいました、、、というところで目が覚めたのです。そう、悲しいことにこれは夢。でも口に入れた時の感触といい、味わいといい、本当に食べたのだと思ってしまうほどでした。夫に「さっきピザを食べた夢を見たんだよー。チーズがすごくおいしかったんだよー」と話したら、「神様はやさしいね。あきこがピザが食べたいって言ってたから夢の中で食べさせてくれたんだね。」ですって。確かに。こんな形で願いをかなえてくださるなんて。神様、今日の夜はシュークリームとパンケーキと御座候でお願いします!冗談はさておき、でも、神様の恵みは眠っている間にも変わらず注がれているのですね。(小山晶子牧師婦人)

もしよろしければ

本日11月11日(日)と18日(日)午前8時30分からTVKテレビ神奈川で放映されているライフラインという番組で先日行われたリラ結成25周年記念コンサートの模様が放映されます。それに伴い番組内で宮脇と塚田のインタビューも併せて放送されますのでもしよろしければご覧くださいませ。いったいどんな風に映像をとり、編集されたのか全く分からないので正直緊張しております。まあでも、「恥は我がもの、栄光は主のもの」と思い、どのようなものでも甘んじて受ける覚悟です。25年と一言で言っても四半世紀。教団も出身も性格も違う私たちがここまでよく一緒に歩んでこれたなあと思います。どんなに違いがあっても、キリストにあって一つとなることができるということ、どんなに困難な状況があっても神様の御心は必ず成し遂げられるということを、リラを通して知っていただけたらこんなに嬉しいことはありません。『リラはいつも満身創痍だからこそ、その賛美が心に響く。』そんな風に言われたこともあります。それもまた感謝なことです。 (小山晶子牧師婦人)

オープンチャーチ

昨日はオープンチャーチが行われ、沢山の助けと笑顔の中、無事終えることができて本当に感謝でした。ご協力いただきありがとうございました。また、祈りでのご支援もとても心強かったです。不思議と様々な助け手が与えられ、神様の御手が私たちを導いてくださったことを感じました。私たちは『神の国』の大使館員です。これからもこの地域に神の国を紹介できるよう祈りつつ励んでいきたいと思います!
さて、もう十一月。朝晩の冷え込みが日増しに厳しくなってきました。今年も残すところあと2か月を切ってしまいました。わたしは『きょうまで守られ』という賛美が大好きです。一年の終わりが近づくと必ず歌いたくなります。『今日まで守られ来たりし我が身 霜だに憂えじ行く末などは いかなる折にも愛なる神は 全てのことをば 良きにしたまわん』未来を見つめて前進することも大切ですが、振り返って神様の恵みを数えることも同じくらい大切だと思います。少しづつこの一年を振り返る作業をしようと思います。(小山晶子牧師婦人)

豆苗(とうみょう)

最近野菜が高い。感覚的には普通の時の倍はしています。とはいうものの、野菜の値段が上がる以前から我が家の定番は金額の変動の少ないキノコ類、もやし、値段に関係なくどうしても必要で買うキャベツなどです。灰汁の強い野菜は胃を痛めてしまうので濃い色の野菜を買うことは最近ほとんどありません。ずいぶん選択肢が少なくなってさびしく思っていたところ、豆苗の存在を知りました。まず値段が安い!しかもボリュームもある上にくせがなく、切って残った根を水につけるともう一度収穫できるという優れもの。水につけて3日目。切り口から一本芽が出てきました。5日目には全体から芽吹いてきてなんてかわいいんだろうと暫しうっとりと眺め、成長を楽しみにしていました。ところが。つい先ほど、猫のジョシュがおいしそうにむしゃむしゃ食べている現場に遭遇してしまい、猫草となってしまった今回の豆苗に別れを告げることになりました。このように育てるということには忍耐が必要です。でも、成長過程を見れるって育てる者の特権ですね。(小山晶子牧師婦人)

おくれますよ

先週こんなことがありました。次男が朝9時に港南台に行かなければならなかったので、15分前になった時に『しおん、遅れますよ。』と声をかけてあげました。すると『あーはいはいはいはい』と何とも軽い返事が。さらにそこから5分経っても出かける気配がありません。もういちど、『しおん、遅れるよ!』と強めに言ったところ『聞こえてるって。ありがとう!』となぜか頓珍漢な返事。ありがとうってなぜ??小さなパニックを起こしていると『準備できたよ!送ってくれるんでしょ?』というのです。「おくれるよ」という同じ言葉で、お互いに違う意味をイメージしていたのです。この場合、次男は何とも都合のいい解釈だと思うのですが、結局私が車で送ることになってしまいました。笑い話のようですが、でも聖書を読むうえでこういうことってありませんか?時として自分のフィルターが邪魔をしてしまい、本来聖書が語っていることを間違って解釈し聖書が語っている以上に読み込んでしまう。そうならないためにも、前後の文脈を確認することが大切なのですね。(小山晶子牧師婦人)

オープンチャーチ

「教会ってどんなところ?」
「教会の中はどんな感じ?」
「敷居が高くて入りずらい…」
日ごろそう感じている方でも、気軽に足を運んでいただけるようにオープン・チャーチは教会を開放して皆様のお越しをお待ちしています。
食事、デザート、生演奏、子どもコーナーなどを設けています。
ぜひ、お立ち寄りください。

 

昭和世代と平成世代

来年5月1日に皇太子が天皇に即位することが正式に決まったということで、この日が来年に限って祝日になるそうですね。わたしの誕生日を日本中で祝っていただくようでなんだか申し訳ないです(すみません、ジョークです)。

昭和世代、平成世代に新たな世代が加わって比較すると興味深い内容になりそうです。〝24時間働けますか?”に象徴される昭和世代。〝みんな違ってみんないい“”ゆとりですが、何か?〟に象徴される平成世代。ほんの数十年で私たちを取り巻く状況も、考え方も、価値観もものすごいスピードで変化していきます。教会も様々な世代で構成されています。戦中戦後を必死で生き抜いてきた人、家族との時間も取れないまま働きずめだった人、バブルを経験した人、就職氷河期だった人、ゆとり教育ど真ん中だった人等々。パウロの手紙を読んでいると、初代教会にも似たような状況があり、摩擦があったことが分かります。相手の立場に立って物事を見ることの大切さを歳を重ねるごとに私自身も感じています。皆さんは、いかがですか?  (小山晶子牧師婦人)

1テサロニケ 1:1-2:16

「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(2:13)

聖書は「神のことば」です。この手紙の著者は使徒パウロですが、聖霊なる神様がパウロに霊感を与えてこの手紙を書かせたと、神のことばとして受け入れることが大切です。そして、この神のことばは、当時のテサロニケの人々のうちに働かれただけでなく、今も、信じる私たちのうちに働いています。LBでは後半部分をこう訳しています。「事実、この神のことばは、信じる者の生活を一変させるものです。」神のことばには力があります。ですから、信仰をもって聖書を「神のことば」として読むことに意味があります。神のことばは力があり、信じる私たちのうちに働いているからです。