マントヒヒ

みなとみらいにあるワールドポーターズについ最近イギリス発祥の大きなおもちゃ屋さんがオープンしました。赤が基調となっていて、見ているだけで楽しい新たな万歩計増スポットとなりそうです。お正月明けに歩きに行ったとき、福袋が販売されていることに気付きました。値段も手ごろで、しかもクマのぬいぐるみが必ず2つとtyのぬいぐるみ一つ入っているということで購入してみました!クマの方はとってもかわいかったのですが、tyの方はピンクの目に水色の口、鼻は赤くて首は黄色というなんとも不気味なマントヒヒ、、、。どうしてこういう配色にしたんだろう。正面に向けて飾るととても気持ち悪いのでとりあえず後ろ向きにしています。好みってホントに違うんだな、とこのマントヒヒを見て改めて思いました。これがいいと思って作った人がいるんですよね。自分の感覚や感性だけに固執せず、広い視野で物事を見ることをマントヒヒから教わった一月のある日。そのすべての源である神様の感性の豊かさ、深さは私には想像もできません。   (小山晶子牧師婦人)

うーさみさみ

皆さんは「半日村」というお話をご存知ですか。毎日こうも厳しい寒さが続くと、私はこの「半日村」の『うーさみさみ。これから半日村の話をしようと思うんだが、そう思っただけで身震いが出る。この村はえらく寒い村なんだ。』という始まりを思い出します。山があるせいで日照時間が極端に短く、作物にも健康にも被害が出ているこの村で一人の男の子が立ち上がり、土を運んで山を動かす、というお話です。最初は馬鹿にしていた村人も協力し始めて目的を成し遂げていく様は、当時小学2年生だった私に鮮烈な印象を与えました。信仰生活もこれと似ていると思います。主の御心を掴んで立ち上がり、こつこつと与えられた働きを続けていくならば、やがてそれが周りの信仰者へと伝染し、大きなうねりとなってゆく。自分の背中を見せる、ということでもあると思います。わたしたちはまだクリスチャンでない家族に、友人に、子どもに、どのような背中を見せているでしょうか。と書きながら私自身反省ばかりなのですが、良き模範となるために努力したいと思います! (小山晶子牧師婦人)

信仰によって

新年を迎え、新しい歩みが始まりました。当教会でも来月にはいよいよ入試という学生も多く、神様の最善の導きをと祈らされる日々でもあります。
今朝、ヘブル人への手紙十一章から十二章をデボーションで開き、『信仰』について改めて考えさせられました。特に

『信仰によって私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、』

という御言葉。そして

『信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』

という御言葉。納得できるからでも、理解できるからでもなく、聖書に登場する主の御心に生きた人々は

『信仰によって歩んだ』

というたった一つの共通点でむすばれているのです。信仰が必要な決断をあなたはしていますか。それとも人間的な考えの中だけで進めようとしていますか。それこそが信仰成長のための大きな分かれ道だと思います。私たちクリスチャンがとるべき選択は明確です。今年はそんなチャレンジを受け、主に信頼して一歩踏み出すアドベンチャーな一年になることを期待しています!まずは、わたしから、ですね。    (小山晶子牧師婦人)

水が飲めない??

ハプニング続きのクリスマスシーズンの締めくくり、キャンドルサービスが終わり、ようやくほっとして夕飯を食べていた時でした。ペットボトルの水を飲もうとすると、あら?なぜかこぼしてしまうのです。何度試してもこぼれてしまうため飲み口に問題があるのかと調べてみるのですが特に変わったところはありません。不可解なまま食事を終え、歯磨きをしていると、口をゆすごうと水を含んでも、口からこぼれてしまうのです。ようやく目の前の鏡を見てびっくり!顔の左側が明らかに変な状態なのです。口を開けると右側しか開きません。そう。顔面神経麻痺になっていたのです。次の日に病院に行ったところ急遽MRIもとることになりました。幸い脳梗塞ではありませんでしたが、閉まらない口と目は不便でつらいものですね。そんなわけで左目の眼帯とマスク着用で皆様の前に出ることになりますが身体は元気ですのでどうぞご心配なさらないようにお願いします。以上、牧師婦人の近況報告をもって今年のデイリーを終えたいと思います。
(小山晶子牧師婦人)

黙示録 19:11-21

「その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。」(19:16)

イエス・キリストは、「王の王、主の主。」と呼ばれるお方です。「王の王」は、英語では、「キング・オブ・キングズ」になります。もちろん、その意味は、最上級の、そして唯一、本当の王、という意味があります。キリストは正義と愛をもって、完全な統治をされる、王なる神です。私たちが思い描くことができる、やがて来るキリストのイメージは、「王の王、主の主」です。ヘンデルのメサイヤのハレルヤ・コーラスを覚えていらっしゃるでしょうか?その歌詞は、「ハレルヤ」だけでなく、「キング・オブ・キングズ」「王の王」、「ロード・オブ・ローズ」「主の主」と歌います。このキリストのイメージを感じることができるならば、かつて、その演奏を聞いた王様が、立ち上がったように、私たちも、王なるキリストの前に、立ち上がり、襟を正し、敬意を表さずにいられないことでしょう。

※ 本日のSSCの祈祷会はお休みです。31日(月)は年末祈祷会。

アローマのこと

先日玉川聖学院でクリスマスコンサートをリラとして行ってきたことはこの場でも書きましたが、実はその時にとてもうれしい出会いがありました。私がまだ中高生のころ、母教会に賛美奉仕に来てくれた三人グループ「アローマ」の大ファンになりました。その歌詞にも、曲にも、トークにも、ちょうど多感な時期にとても良い影響を受け、ずっと励まされてきました。その中心的なメンバー正田さんの息子さんが教師として玉川聖学院で働いておられたのです。ひょんなことからその話題になり、大興奮でどれほどアローマが好きだったかということをお話したのですが、なんと!後日正田さんご本人から連絡をいただき、楽譜やCD、直筆のお手紙までいただいたのです。しかも、リラのことを知っておられたようで、嬉しいやら恥ずかしいやら。アローマがずっと活動を継続しておられることにもさらに励まされました。リラがあの時の私のように、誰かの励ましや信仰生活の支えになれたらと願います。ちなみにアローマの内2人は献身し牧師となってそれぞれ遣わされた教会で奉仕しておられます!(小山晶子牧師婦人)

黙示録 14:1-13

「また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」(14:6,7)

永遠の福音をイザヤはこう預言しています。

「良い知らせ(福音)を伝える人の足は山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。」(新改訳二〇一七)

福音を受け入れた人は創造主を神として恐れ、あがめ、礼拝を捧げます。しかし、この天の現実が、この地上に浸透していくには、信仰者の忍耐が必要だと言います。

「ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。」(12節・新改訳二〇一七)

※ 明日のSSCはクリスマス特別礼拝。第二礼拝後に祝会があります。17時から港南台高島屋前でキャロリング。(第三礼拝はお休み)

どこまでやるべきか

我が家の老猫(一六歳)ポコの調子が最近良くありません。
一日中寝ているのは以前からでしたが、痩せてきて、毛艶も悪く、呼吸が深くて速いうえに瞳孔が開きっぱなしなのです。毎日注意深く様子を見ていますが餌もほとんど食べなくなっているので、たぶんあまり長くないな、という感じがします。そんなポコの側で今書いています。車も病院もとても嫌がるので、このまま家で命を全うできるようにと考えています。どこまでやるべきか、ということはこのことに限らず全ての「関係」において悩むところだと思います。できれば後悔したくないし失敗もしたくない。でもこれが正しいかどうかわからない。そんなとき皆さんはどうしていますか?わたしはその時に導かれていると感じたことを実行するようにしています。祈って、考えて行ったことを神様は絶対に悪いようにはなさらないと信じているからです。祈りの中で神様が私たちに行いなさい、と言われていることがあると思います。そのことを実行に移す勇気と力を神様が与えてくださいますように。(小山晶子牧師婦人)

からだのかなめ

先週火曜日は玉川聖学院でリラとしてクリスマスコンサートを行ってきました。無事コンサートを終え帰宅したのですが、数時間立ちっぱなしで歌っていたせいか腰のあたりに少し違和感がありました。一晩眠れば治るだろうと早々にその日は就寝したのですが、次の日、ベッドから起き上がろうとした瞬間腰にかつてないほどの激痛が走ったのです。少し体を起こした態勢だったので、向きを変えようと思ったのですがとにかく痛くてどこにも身体の方向を変えることができません。その日は一日中ベッドに横たわって痛みに耐えるしかありませんでした。夕方ごろからは熱も出始め、寒気と身の置き所のなさと痛みとでかなりつらい時間を過ごしました。腰を痛めると、何もできないのですね。まさに体のかなめ。そしてこうも思ったのです。{信仰のかなめはイエス様だ。}イエス様がかなめとなっていなければ信仰生活においても本当の意味で何もできない、ということだと思います。私たちの、そして教会のかなめがイエス様になっているかどうかが「要」ですね。(小山晶子牧師婦人)

1ヨハネ 4:7-21

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(4:7,8)

イエス様が私たちに与えた戒めは互いに愛し合うことです。私たちは自分の愛の欠如に心を痛めますが、その愛の源は神だと聖書は言います。ですから、私たちが互いに愛し合うことを選ぶとき、神ご自身が私たちを助けてくださいます。

「私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(12節新改訳二〇一七)

もし、神が私たちのうちにおられるなら、私たちは何も恐れる必要はありません。

「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(4節)

「キリストと共に歩む時、私たちの愛は成長し、いっそう完全なものとなっていきます。」(17節LB)