とうとう、このシーズンがやってまいりました。ああ、受験。最近栄シャロームでは毎年受験生がいたので、この時期はいつもドキドキしていたのですが、とうとううちの次男の番がやってまいりました。センター試験は終わりましたが、これからしばらくは一般試験が続きますので祈りつつ見守りたいと思います。勉強や受験校をめぐっては何度次男と喧嘩(?)になったかわかりません。子育ての大変さ、年齢が進むにつれて、相応に関わることの難しさをギュッと凝縮して体験した高校時代でもありました。先週書いたヤコブは、聖書を見る限りかなり親の言いなりだったように感じます。特に母親のリベカの言動には自分も共感する部分もあり、反面教師として学ばなければと思います。親の考えたベストは、必ずしも我が子にとってのベストではないし、それよりもむしろ神様との関係を大切にしてほしい。イサクとリベカがヤコブを一人でラバンのもとに送り出したように、次男の背中を祈りと共に見送りたいと思います。がんばれ!
(小山晶子牧師婦人)
カテゴリーアーカイブ: 未分類
リベカの憂鬱
ビブリオン(旧・婦人会)で創世記を一章ずつ味わっています。先週は27章、イサクがエサウを祝福しようとしていたにもかかわらずリベカの入れ知恵で弟のヤコブがその祝福の祈りをだまし取ってしまったというところでした。25章には「イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した」とありますのでこれまでずっと親の偏愛が招いた悲劇だと私は考えていました。ところが、リベカは妊娠中おなかの中でぶつかり合う子どもたちに不安を覚え、神様の御心を求めに行ったことが記されています。そのとき神様は「兄が弟に仕える」と明確に語られたのです。とするならば、祝福の祈りもリベカの入れ知恵というよりは、神様の御心を知っているがゆえに自分の力でそれを実行しようとした、と考えた方が自然かもしれません。ただ本当はイサクもリベカもこの時こそ主の方法を求めて祈るべきだったのではないかと思うのです。エサウに命を狙われ逃げたヤコブ。悲しいことにその後ろ姿が、リベカの生涯で見る、ヤコブの最後の姿となってしまいました。 (小山晶子牧師婦人)
どら焼きの練習
あす月曜日は御殿場で新年聖会が持たれます。富士山がきれいに見えるといいな、と願いつつ、どら焼きを作る練習をしています。デイサービスでお手伝いをしていた時、利用者さんと一緒に時々お菓子を作りました。一番衝撃的だったのは桜餅を作ったことでしょうか。あれは「買うもの」だと思っていたのに、とてもきれいでおいしく作れたのです。お茶を炒ってほうじ茶にしたり、梅シロップを作ったり、ゆずジャムを作ったり、初めての経験ばかりで、それを楽しそうに作業している利用者さんとの時間は今でも時々思い出します。どら焼きもその一つ。HOPカフェを今回もさせていただくのですが、コーヒーと共に販売する手作りお菓子を、わたしは「どら焼き」にしました。あんこは御座候のものを使用しますのでご安心を。HOPの子どもたちのために、私自身出来ることはとてもとても小さいのですが、みなさんに喜んでいただけて、HOPのことも知っていただける機会になるように頑張ります。というわけで練習に勤しんでいます。おひとつ、いかがですか? (小山晶子牧師婦人)
よし!いけるぞ!
関西にいたころは全く興味がなかったものの一つ「箱根駅伝」。横浜に住み始めてから年々身近になっています。普段使っている道が駅伝のルートである、ということが一番の理由だと思うのですが、中継のヘリの音や知っている店などが映るとテンションが上がります。縁もゆかりもありませんがいつのまにか青学を応援し、つながらなかったタスキに涙するチームと共に涙を流す、完全なにわかファンでもあります。でも、走る選手の後ろをついていく車から声をかけている監督の姿。「大丈夫、いいよいいよ、いけるぞ、区間新狙える!」「あきらめるな!」「あと1キロ、スパート、おまえならやれる!」ひたすら前向きに励まし続ける言葉。聖霊様ってこんな感じなのかな?そういった私に夫は一言。「そういう言葉だけじゃないと思うけどね。」ですよね~。時には厳しく、時には囁くように、反省を促したり励ましてくださったり。助け主なる聖霊様との二人三脚(?)で今年も前進していきたいと思います。2020年も神様に期待していきましょう。
(小山晶子牧師婦人)
今年最後の日曜日です。
はやいもので2019年が今日を含めてあと三日で終わろうとしています。それぞれ様々な出来事の中で一日一日を積み重ねてきたことでしょう。終わってしまうとあっという間ですが、実はいろんなことがあったことに驚かされます。大きな台風が二度も直撃したことはわたしのなかでは今年の大きな出来事の一つですし、義兄の手術のこと、リラの福島コンサートツアー、友人を天に見送ったこと、長男の入試やオープンチャーチ、クリスマス、アルファフィルムシリーズの開催などなど。それ以外にもいろんなことがあって悩んだり、不安になったり。でも神様は必ず脱出の道をそなえてくださっていました。そういう意味で恵み多き一年であったとも思います。全てを益に変えてくださる主を信頼して歩めることこそ、幸いな人生なのだと思います。2020年も一足一足、主に信頼して歩んでいくことができますように。みなさん、今年も拙い私の文章をお読みくださりありがとうございました。来年も引き続きよろしくお願いします!
(小山晶子牧師人)
熱湯
自分でも自分がしていることが分からない。そんなことはありませんか。 先日、パスタを茹でるために大きな鍋でお湯を沸かしていました。せっかくなら火力の強い隣のコンロに移そうと思いほぼ沸騰した鍋の両側をしっかりもって持ち上げたその時、自分が素手で持ち上げたことに気付きました。あ、でもそんなに熱くないのね。そう思った次の瞬間、熱い!!ようやく熱さを感知した脳が指令を出し、すぐさま手を放したくなりましたが、まだ持った鍋は隣のコンロに到達していません。熱さに耐え、隣のコンロに鍋を置いたつもりだったのですが焦って安定した場所に置く前に手を放してしまい、あぶない!と思った時には鍋は絵に描いたようにコンロから落ち、熱湯が床一面に。スローモーションで見ているようでした。その瞬間夫が助けてくれたので熱湯をかぶらなくて済んだのですが、なぜ私は素手で熱いと分かっている鍋を移動させようとしたのか、いまだに謎です。「彼らは自分のしていることが分からないのです。」というイエス様のお言葉を思い出しました。(小山晶子牧師人)
先週の出来事
クリスマスが来ると思い出す、自分が洗礼を受けたあの日のこと。早いもので32年もの月日が流れてしまいました。横浜市民となって23年。その直後から教会学校の先生の働きをしていますが、いまは生徒が一人なのでこれまでで一番静かに時間が流れてゆきます。毎週聖書のお話をする前に、「先週の出来事」を話してもらっています。嬉しかったこと、悲しかったこと、心に残ったことなどを自由に言う時間なのですが意外と意識せずに時間を過ごしてしまっていることに気付かされます。前述した人生の節目節目はなかなか忘れませんが、「日常」はまるで指の間からこぼれていく砂のように何の引っ掛かりもないものになっているとしたらもったいない気がします。ロープに小さな結び目をつけていくように、日々の出来事に神様がともにいてくださったことを意識することができたらもっと恵みを数えられるのではないかと思うのです。
先週の皆さんの歩みに、結び目はいくつありましたか?
(小山晶子牧師人)
忘れとった、、、
今年十一月号の「ちから誌」から一年間の予定で聖書考古学の記事を書いています。楽しく書いていたら編集部の方から「もうすこしまじめに」←(言い方はもっと優しかったです)との注意を受け、一月からは少しまじめな感じの内容に変えたのですが、そこでいったん意識を使い果たしたのか充電に時間がかかり、さっき気付いたのですが次の号の締め切りが一週間以上も過ぎてしまっていたのです。忘れとった、、、という気持ちのまま今この文章を書いていますが、実はタイトルだけは少し前に考えていました。ただ伝えたいことが多すぎて、決められた文字数でそれを書くのは長く書くよりも難しいのです。真面目過ぎずふざけ過ぎずクリスチャンでない方にもわかりやすく。かなりハードルは高い働きですが、神様から大いに知恵をいただきながら一文字一文字紡いでいきたいと思います。ほめられると頑張れるので感想など編集部に送っていただけると嬉しいです!『アブラハム、墓を買う』というタイトルを見たら、ああ、これね、と思い出してくださいませ。 (小山晶子牧師人)
フランシスコ教皇
フランシスコ教皇来日のニュースは、連日かなり詳しく報道されていましたが、先週月曜日の東京ドームで行われたミサに実は私も参加してきました。恐らく人生で教皇を生で見る機会はこれが最初で最後だろうという考えのもと、ダメもとで申し込んだら家族4人全員参加できることになったのです。生れてはじめてカトリックのミサに参加し、一つとても感動したことがあります。それは「ミサ」のために5万人もの人々が集まったということです。もちろん教皇が来ることが非常に特別なことであるとは思うのですが、はたして今の日本のプロテスタント教会が、礼拝を捧げるために一致し、東京ドームを埋め尽くすほどの人でいっぱいになるだろうか?考えてしまいました。原爆や原発に関する発言も教皇は数多くしておられましたが、権力を正しく使い自分の役割をよく知っておられるなあという印象を持ちました。ミサ中の説教で聖書の御言葉がしっかり語られていたことにも感動しました。東京ドームに行ったのは23年年ぶり。ビリーグラハム大会以来でした。(小山晶子牧師人)
バラが咲いた
今年の母の日に購入した、とても香りのよいバラのことを以前ここでも書いたと思うのですが、秋も深まった十一月も後半にさしかかり、地植えにした苗木からなんと大輪の花が咲いたのです。たった一輪ですが、それはもう見事な大きさとかぐわしい香り。すでに目いっぱい花弁は開いてしまったので日曜日には散ってしまっているかもしれませんが、みなさんにも見ていただきたかったなあと思います。ただ、このバラ、とてもとげが多いのです。しかも小さなとげが花びらの際まであるため、うっかり花を寄せて香りをと思ったらぷすぷすと指に刺さってしまいなかなかの痛さでした。小さな庭の何気ない日常ですが、神様の恵みによって与えられている日々の中で聖書の御言葉を思い起こしています。『栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ神はこれほどに装ってくださるのだからましてあなたがたによくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。』 (小山晶子牧師人)