私たちの心が衰え果てる時、
わたしたちは地の果てからあなたに呼ばわります。
主よどうか私たちを及び難いほど高い岩の上に導いて
主よ今私たちはあなたの幕屋に
いつまでも住み身を避けたいのです。
聖書に出てくる信仰者もまた、死の危険や恐怖と隣り合わせの状況の中で強められ立ち続けました。きょうもその姿に学びたいと思います。
(小山晶子牧師婦人)
そんな日々を過ごしていた先週初めに次男の進学先から親あてにハガキが届きました。父兄や教会関係者の入学式出席を自粛してくださいとのことで、ああ、じゃあ前日の入寮日でお別れだなあとぼんやり考えていました。ところが週の半ばになって今度はメールが届きました。なんと入寮日を4月28日に、入学式は4月30日に延期する、というものでした。本格的に受験期間が始まってから約4か月。ようやく巣立つ日を指折り数えて待っておりました、、、。こんなことってあるんですね、、、。先週学生会でお別れ会までしてもらったのに。
『人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。(箴言16の9)』
誰も経験したことのないような日々が続いています。まるで映画を見ているかのような感覚にとらわれることもありますがこれは現実に起こっていること。困難に直面し、自らのメッキや鎧が剥がれ落ちた時、本当の意味で私たちの本質、核となる部分があらわにされるのだと思います。(小山晶子牧師婦人)
先週半ば、長男の卒業証書が宅急便で送られてきました。
何とも味気なく悲しいので「ちゃ―んちゃ―ちゃちゃーんちゃーんちゃちゃちゃちゃちゃーちゃーちゃーん」と定番の曲を歌いつつ、リビングでささやかな授与式を行いました。
こんな終わり方になるなんて思いもよらなかったですが、卒業式に限らずそれぞれ今置かれている生活の様々な場面で、少なからず『普通ではない』状況に置かれて戸惑っている方が多いのではと思います。
ただ、今までとは違う状況に強制的に置かれることで、これまでとは違った視点でアイデアが生まれていることも最近よく耳にします。
今回の出来事が、私たちが周りを見ることなく走り続けた社会に、一石を投じる機会となったことは否めません。
それは教会も例外ではないと思います。
神様との時間を通して、キリスト者としての自らの役割をもう一度祈り、考える時間を持ちたいと思います。
家庭で、教会で、地域で、職場で、学校で、わたしたちは神様がそこに置いてくださった本来の役割を果たせているのでしょうか。
(小山晶子牧師婦人)
我が家の春到来と同時に、教会の梅の花は散ってしまいました。みなさんにほとんど見ていただけなかったことがとても残念ですが、梅の実ができるころにはコロナの問題も収束してくれることを願っています。小さな小さなウイルスが全世界に影響を及ぼし、市場は混乱し人々は見えないウイルスへの不安でいっぱいです。まさに一寸先は闇、といったところでしょうか。そういえば「使徒の働き」の中で虫にかまれて死んだヘロデの話が出てきます。彼はコロセウムの特別席で立ち上がり、群衆を前に誇らしげに演説をしていたのですが、その素晴らしさに群衆はこう言い合ったと書いてあります。『神の声だ。人の声ではない』まさにヘロデの人生最高の舞台だったと言えると思います。そして聖書は虫にかまれて死んだヘロデについてこう説明しています。「彼が神に栄光を帰さなかったからである。」人間は神ではありません。今回の問題を通して私たちはもう一度襟を正し、そのことを心に刻んで、謙遜に神様の前にへりくだる必要があると感じています。 (小山晶子牧師婦人)
仕方がないとはいえ、平日の集会がお休みの状態はとてもさびしいです。みなさん、いかがお過ごしですか?近況や祈りの課題など教えていただけると嬉しいです。金曜日の祈祷会はメディアチームが動画を配信してくれているので是非一緒に祈祷会に参加してくださいね。学校などもお休みになっていますが、皆家の中で過ごしているのか子どもの声は聞こえてきません。息を潜め、嵐が過ぎ去るのを待っているような、ちょっと浮足立っているような、、、これまでの日常とは違う空気が漂っています。今朝もサンドラッグの前には長蛇の列。それ以外の場所はまるでゴーストタウンのよう。でも、見上げると空はいつものように私たちを見つめ、夜には月や星が輝いています。せっかく家にいる時間が増えたのなら、これまでよりもたくさん聖書の御言葉を読むことをお勧めします。何に影響されているかで、私たちの生き方は大きく変わってきますから、不安になるもので心を埋めないで御言葉をばくばく、もりもり食べましょう!信仰のための大食いは大歓迎ですから。 (小山晶子牧師婦人)
新型コロナウイルスの影響を受け、次男の高校の卒業式に親は出席できなくなりました。現段階では卒業式そのものがなくなってしまうかどうかははっきりしませんが、いずれにせよ日本中に影響が出ています。正体がわからないがゆえの不安が、日本のみならず世界中を覆っているような気がします。数年前に肺炎を患った身としては、とにかくあの辛さを皆さんには体験させたくない、そんな思いでいっぱいです。こんな落ち着かない日々だからこそ、私たちが何に価値を置いて生きているのかがあらわにされるのだと思います。もちろん、情報は必要ですし大切です。でもこんな時だからこそ、私たちは自分が「生かされている」「すべては与えられた恵みである」ことを認める必要があるのだと思います。目に見えないウイルスを恐れ、心を奪われるのではなく、目には見えなくとも私たちを愛し、守ってくださり、今日まで支えてくださっている神様に心を向けたいと思います。大丈夫です。
『安かれ。我なり。恐るな。』
きょうもイエス様はあなたと共におられますから。
(小山晶子牧師婦人)
ナマコが大好きです。
実家にいた時にはこのシーズンにちょくちょく食べる機会があったのですが、関東ではもっぱらスライスしてパックに入った、しかもほんのちょっとでいいお値段のものしか売っていなくて悲しく思っていました。ところが先日初めて行った魚屋さんで見つけてしまったのです。元気いっぱいの赤ナマコたち。買っちゃいました。そこで売り場のお兄さんから驚くべきことを聞きました。なんとあの最もおいしい海鼠腸(このわた)を出して、ナマコ本体だけを持って帰る人が多いんだそうです。わたしから言わせればナマコを食べる楽しみの7割は海鼠腸にあり、です。本当においしいところではなく、ある程度の美味しさで食べた気になって満足するなんてもったいなさすぎます。御言葉もそうです。知的な部分をつまみ食いして聖書が分かった気になってはいませんか。聖書の素晴らしさを味わわないなんてもったいないですから、「ある程度」で食べた気にならずその深みをぜひ味わってみてください。きょうも主に期待しましょう!(小山晶子牧師婦人)
浴室の電気が点滅するようになり、急遽電球を交換することになりました。前回いつ交換したか、忘れてしまうほど時間が経過していたので気付かなかったのですが、長期間かなり薄暗い中で浴室を使っていたようです。というのも今回はLED電球に替えたのですがまあ汚れが良く見えること、見えること。我が家の浴室は窓がないので、明かりは電気に頼るしかありません。あっちもこっちも気になり、掃除に励んでいます。そしてキレイになればなるほど、小さな汚れが気になります。ほんとうに、まるでイエス様の光に照らされた心の中を見ているようでした。イエス様から離れれば離れるほど心の汚れには気付きにくくなり、イエス様に近づけば近づくほど心の汚れがはっきりと見えていく。光に照らされたときはぎょっとしますが、照らされたことでよい部分がもっと輝いて見えることにも気づきました。イエス様から離れると、自分の「良さ」までくすんで見えてしまうのですね。セルフイメージが低くなっているときにも、この気づきは有効だと感じています。 (小山晶子牧師婦人)
とうとうこの日がやってきました。長男の卒業試験。過酷な練習と途方もない緊張感で演奏直後に倒れ、救急車で運ばれた人がいるとかいないとか。音大あるあるのような話をちょくちょく耳にしていたのでここ数か月は母なりに干渉し過ぎず、体調等気にする日々でした。様々なウイルスが蔓延するこの時期、心配していたらきりがありませんが、幸い(?)次男の受験と重なったこともあり向ける意識は半々。当日は公開試験だったので会場に観に行ってきました。緊張のあまり耳が遠くなってしまいましたが、舞台にいる本人は落ち着いた様子で最後までしっかりと弾ききりました。初めて出た発表会で私の足にしがみつき、弾くことも出来ずにそのまま退場した長男。こんな未来を誰も想像していなかったと思います。神様のご計画はあまりにも不思議であまりにも素晴らしすぎます。不安でいっぱいだったあの頃の私に伝えてあげたい。
『あなたが信じている主は良いお方だよ。全てを良きにして下さるからどんな時も失望しないで歩んでいってね。』
(小山晶子牧師婦人)
ご存知の方も多いと思うのですが、コストコはいいお米が手ごろな値段で手に入ります。しかも、薬コーナーがかなりリーズナブルな値段設定になっているので毎回必ずチェックしています。前回行ったときにマスクが山積みされていたので、コロナウイルスのこともあるし一つ買っておこうかな、と探してみたのですが見事にありません。じゃあせめてアルコールジェルを、、、と思ったのですがそれもない。すると背後でマスク売り場を店員さんに訪ねている声がしました。店員さんは申し訳なさそうに
「すみません、今朝入荷していたんですが、ものの10分で無くなってしまったんです。」
静かにパニックは広がっているのですね。どうしたらいいのかわたしにもわかりません。一昨晩は地震で目が覚めましたし、明日のことは誰にも分らないことを思い知らされますが、マタイ6章26節―34節のイエス様の言葉に励まされています。
『だからあすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。』
(小山晶子牧師婦人)